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 言うまでもないことだが、翌日は大変な混乱だった。
 急に執り行われることになった式のため、当初予定されていたアテナの表敬訪問は一時中止となった。世界各地に散らばっている聖闘士も可能な限り招集され、今回の式に臨むことになった。
 聖域を代表する黄金聖闘士同士の結婚である。しかも、聖域の歴史が始まって以来の快挙だ。聖戦以降、これといった華やかな行事がなかったこともあり、カノンとミロの挙式を聖域で祝福するのは、上流階級のアテナには当然のことと思われたらしい。サガ経由の話では、親交のある神々にも今回の件を文で知らせたようだ。
 不本意にも女にされ、同僚に嫁がされることになったミロにしてみれば、実にありがた迷惑な話だった。
 もっとも、神話において、男女の性別が切り替わり、契りを結ぶことなど珍しくもない。たいていの神も、アテナと同程度の関心を寄せているらしかった。つまり、昔は珍しくもなかったが現代でやるにはいささか気後れする珍事を、面白がっているのだ。
 所詮、神にとって人間など呈の良い玩具だ。特に愛憎激しいギリシアの神々は、その傾向がより顕著といって良い。
 「しかし、実際女になってしまったことは良いとして、戸籍はどうします?」
 ミロが女になったことを、もう済んだことのように事実として、ムウがシオンへ問いかけた。数え切れないほどのドレスを試着させられ、ぐったりしているミロの隣でのやり取りだった。
 ミロは顔に乗せた蒸しタオルの合間から、ムウを見やった。
 「そもそも俺たちに戸籍があるのか?」
 ミロが反論してみせたところで、「そのように文句を言うのならば、あのとき教皇の間で、反論してみせれば良かったではないですか。」と言い負かされるのがオチだろう。実際、アテナが定めたことなのだから、一介の黄金聖闘士にすぎないムウにしても口出しできるはずもない。
 「戸籍はあるでしょう。パスポートを取得しているのですから、きっとあるはずですよ。」
 それでも根拠を持てなかったものか、ムウは首を傾げると、腕時計に目を落としているシオンに問いかけた。
 「我が師シオンよ。私たちにも一応、戸籍くらいはあるのでしょう?」
 「あると思うか?」
 確かに、簡単に生殺与奪されるような環境で戸籍など所持していては、かえって面倒なことにならないとも限らない。しかし、現代を生きるものとしても、雇用されている立場としても、最低限の人権くらい確保していてもらいたいのも実情である。
 不穏な発言に黙りこむ部下を一瞥し、シオンは鼻を鳴らした。せっかくサガに仕事を押しつけて、楽しい余生を送ろうとした矢先にこの珍事である。アテナからミロの付き添いを押しつけられたシオンの機嫌は、あまりよろしくなかった。
 シオンは固唾を呑んで答を待つ部下たちの希望を一蹴した。
 「なければ買うだけだ。お前たちが気にすべきことではない。」
 ミロが脱力したことは言うまでもない。


 空からは麗らかな日差しが降り注ぎ、カノンとミロの結婚を祝福しているようだった。何にでも興じる神々のことだ。もしかすると、現代の喜劇を面白がっているのかもしれなかった。
 星矢は案内された席に着き、居心地悪そうに辺りを見回した後、隣で同じような表情をしている瞬に耳打ちした。たまたま沙織の許を訪れていたので、出席せざるをえなかったのだ。
 「どうせまた沙織さんが暴走したんだぜ。沙織さんときたら、人の言うことをさっぱり聞かないとこがあるからなあ。」
 「そう言うな、星矢。何か考えがあってのことだろう。」
 「なんだ、聞こえてたのか。」
 向かい席の紫龍にたしなめられた星矢は、ばつが悪そうに舌を出してみせた。
 「俺に聞こえるくらいだ。誰かに聞き咎められないとも限らないぞ。」
 「…海闘士も来ているんだな。」
 新郎側のテーブルに、スーツに身を包んだアイザックの姿を認めた氷河が呟いた。
 現在ではもっぱら海闘士の統率は次位のソレントに任されているが、カノンが海竜を兼任していることもあり、何の予告もなしに呼び出された海闘士たちは、いささか腑に落ちない様子で、落ち着きなく新郎の登場を待っていた。カノンの熱病のような野望に振り回され、一時はアテナと敵対関係にあった海闘士たちにしても、まさか自分たちがその本拠地に招待されるとは思ってもみなかったに違いない。
 その頭目であるジュリアン・ソロは、無邪気な顔で新郎新婦の登場を待っていた。ポセイドンであった頃の記憶がないので、財界の著名人として招かれた限りの反応しか出来ないのだ。隠されたアテナの意図など知る由もない。
 心中複雑な思いに駆られ黙りこむ氷河に、瞬が溜め息をついた。
 「兄さんも来れば良いのに。」
 一輝はいつもどおり行方不明である。不満そうに顔を曇らせていた瞬は、やがて顔を輝かせた。
 「見て、カノンの登場だ!」
 父親役のサガを伴って登場したカノンは、漆黒のタキシードをまとい、同性ながら嘆息したくなるような美しさだった。まるで一振りの絵のようだ。生まれ持った素質が違うのだろう。その上、カノンは黄金聖闘士でも並ぶもののないと思われる実力すら有しているのである。翼の生えた虎とはこのことを指すに違いない。
 星矢は運命に不満をこぼしてから、首を傾げた。星矢は見逃してはならない事実に気づいたのだった。
 「そういや、沙織さんの姿がないぞ?どうしたんだ?」
 「確かに…今回の結婚式を一番楽しみにしてそうなのにね。」
 瞬の言葉にもっともだと、氷河も頷いた。
 その頃、現代のアテナ、城戸沙織は、控室で新婦と過ごす最後の未婚の時間を楽しんでいた。
 黄金聖闘士として圧倒的な体力を誇るミロも、人形よろしく着せ替えごっこをさせられたことで疲弊していた。本来、礼節を重んじるミロである。アテナの御前だと思えば、ミロとしても気の引き締まる思いはするが、その務めがドレスの試着、ショッピング、メイクとなると、いささかやりきれない思いがするのも事実だった。
 しかも、何を好き好んで、本来同性である同僚のもとへ嫁がねばならないのか。
 隣室のカノンは祭壇へ向かったらしい。
 ミロは落ち着かぬげに扉を見やった。
 「アテナ、そろそろお時間が…。」
 「殿方は、少し待たせた方が良いと思います。その方が、あなたのありがたみをわかるでしょうから。」
 ミロの唇に紅を刷きながら、沙織が微笑んだ。そう言われてしまうと、ミロとしても返す言葉がない。言葉に詰まるミロの両手を取り、沙織が睫毛を瞬かせた。悪い兆候だった。
 「今日のあなたは本当に美しいですよ、ミロ。」
 沙織の目にじわりと涙が滲んだ。
 実際、今日のミロは本当に美しかった。気の強そうな眼や精悍さを漂わせる眉、まとう小宇宙のせいで、女性になってもどこか愛らしさより恰好良さが前面に押し出されていたミロは、ドレスとメイクのために女性的な美しさに恵まれていた。
 どこからどう見ても、今日のミロは女性だった。
 それでも、その中にある真実変わらない美しさに、沙織は気付いていた。ミロの気質だ。瞬の持つものより硬質で鮮やかなそれは、かの断罪の折、カノンの心を奪い、沙織の心を楽しませた。
 ミロはミロである限り、不遇な境遇にあったカノンを幸せにできるだろう。そして、黄金聖闘士である限り、ミロはミロであり続けるに違いない。
 己が作り上げた因習のために不幸だったカノンを幸せにできる喜びに、沙織の胸は震えた。若い娘特有の夢見がちな部分をこじらせているのだ。処女神の身である自分は恋も叶わないのだと理解しているので、このときの沙織はなおさら手に負えなかった。無自覚の行為ではあったが、自分が気に入っている美形二人を結びつけるなど、永劫を生きる神にとってはよい暇つぶしである。
 沙織は困惑するミロの手を引くと、軽やかな足取りで立ち上がった。
 「さあ、行きましょう。」
 それから、沙織はそっと囁いた。眼には、幾千の星々がきらめいていた。夢見る乙女の目だった。
 「…結婚おめでとう、ミロ。あなたの幸せを願っています。」
 このときも、ミロは黙って頷くしかなかった。
 沙織に手を引かれ、ヒールで覚束ない足を機械的に動かした。太陽の光がまぶしく感じられ、ミロは目を眇めた。祭壇までの道のりは、ベルベットの布が敷かれ、両脇を純白のバラで囲われている。アフロディーテの守護する双魚宮から採取されたバラは沈静の効果もあるのか、芳しい香りにミロの心は強制的に落ちつかされた。
 青銅たちの憐憫の眼差しも、ミロは気にならなかった。
 昨日から、戸惑いだけがミロの心を占めていた。急に同性の同僚と結婚させられるはずになれば、それも仕方ないだろう、と、心情を吐露するミロにムウは言っていた。
 本当に、それだけだろうか。ミロは心配だった。不思議と、怒りや不満はわきおこらなかった。これは男として問題なのではないだろうか。
 しかし、そんなことを言ってももはやどうにもならないのだ。結婚に対して不満がないのならば、この結婚は最善とまでは言わないにしても、次善と言えた。
 ミロはわずかに顔を傾けて、祭壇で引き合わされたカノンを見上げた。カノンは緊張に身を固くしていた。小宇宙から察するに、不安でいっぱいのようだ。あのカノンが、とミロはおかしくなって、固く引き結んでいた唇を綻ばせた。神を誑かした男が結婚を怖がるなど、ありえない話だ。だが、実際に、カノンは何かを恐れているようだった。
 カノンの背後では涙脆いサガが早くも目頭を抑えていた。沙織は心底嬉しそうだ。
 カノンの隣に立たされたミロはシオンの宣誓を聞きながら、隣のカノンに一瞥投げかけた。
 『はなはだ不本意だが、まだ、相手がお前だという点で救いがあるな。』
 念話でぽつりと漏らせば、カノンが問うてくる。
 『それはどういう意味だ?』
 『少しくらい自分で考えろ。』
 最近は、自分でも何を考えているのかよくわからないのだ。問われたところで、ミロが答えられるわけもない。
 だが、ぽろりと漏れ出たこの言葉こそ、自分の本心なのだろう。
 もともとミロは、深く考えるより感性のまま生きることを良しとする人物である。女になってしまったものは仕方ないと肯定的にとらえていた。しかも、もう元に戻れないことが決定した今、わざわざ自らの身を嘆いて、悲観的になるだけ無駄だ。
 『…以前から思っていたが、俺の前だと、お前はさっぱり頭が働かないな。どういうわけだ?』
 益体のない応酬が繰り広げられる中、いつの間にか、教皇の説教は誓いの言葉へ移っていた。シオンが厳めしい顔つきでカノンを質した。
 「病めるときも健やかなるときも、死してのちも、愛すると誓うか?」
 「誓おう。」
 シオンの眼差しを真っ向から受けて、カノンが返答した。清々しいほど、迷いなどまったく感じられなかった。カノンは答えた後、ミロの目を覗き込んだ。唇にはかすかな自嘲の笑みが浮かんでいた。
 『日本では、男は恋をすると馬鹿になるというらしい。俺はその典型だ。』
 ミロは瞬き一つせずカノンを見つめ、ふっと口端だけで笑い返した。
 「…誓います。」
 「それでは誓いのキスを。」
 公衆の面前でキスをしなければならない事態に、カノンはひるんだようだ。小宇宙が乱れた。ミロは内心おかしく思いながら、つま先立ちで背伸びをした。
 唇が触れた。少し表面を押しつけるだけの、軽いキスだった。
 以前はほとんど差などなかった身長は、ヒールを履いても、こんなに差が出来てしまっている。ミロはそれを歯がゆく思いながら、カノンに笑いかけた。太陽のような笑みだった。
 『ならば、俺もその馬鹿の一人なのだろう。』
 何を、と思う間もなく、腰を引き寄せられた。予想していなかったので、呆気に取られもした。しかし、予想してしかるべきだったのかもしれなかった。
 新郎の噛みつくようなキスを受けたミロは、やがて瞼を閉じ、カノンの広い背中へ腕を回した。
 デスマスクの冷やかす声と、サガの号泣が二人のキスシーンを賑わわせた。










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初掲載 2012年11月23日