式は大盛況だった。とはいえ、カノンとミロのキスシーンがやりすぎだったのは事実だ。
式の後、天蠍宮でミロはシオンから大目玉を喰らったが、カノンはアテナに呼ばれていたため難を逃れた。もしかするとシオンは、カノン相手には何を言ったところでどうにもならないと諦めていたのかもしれない。その分もがみがみ言われるミロにしてみればたまったものではないが、公衆の面前でキスシーンをやらかしたのは自分である。
総合的に見て、デスマスクやサガの反応は非常に好意的なものだった。女聖闘士たちの黄色い悲鳴も、良い方だろう。しょせん他人事と捉えているシャカや、何が起こっているのかよくわかっていなさそうなアイオリアもおおむね好意的だった。
しかし、もともとミロは男だと知悉している男聖闘士たちの反応には、とてもいたたまれないものがあった。眉間にしわを寄せて瞑目したシュラや、手元の料理をフォークで突き回しているカミュが、その代表だった。生真面目な彼らの心中は、察するにあまりある。
素直に自分の非を認めたミロは、ウェディングドレスのまま、シオンの説教にうなだれていた。幼少期のトラウマというものは、そうそう追い払えるものではない。両親のないミロにとって、シオンは誰よりも恐ろしい存在だった。
縮こまるミロを見かねて、童虎は助け船を出してやった。
「まあ、シオン。そう起こってやるな。ついつい浮かれてしまったのじゃろう。若い連中にはありがちなことじゃ。」
「しかし、童虎よ。」
「それに起こってしまったことはしかたない。」
滅多にない祝い事に、いつになく童虎も浮かれているようだ。手に持ったシャンパンをシオンの胸に押しつけ、呵々と笑った。
「それより呑んだらどうじゃ。たまにはわしの酒に付き合え。」
「…わかった。先に行っていろ。すぐ追いつく。」
シオンは適当に童虎をあしらってから、背後でほっと胸を撫で下ろしていたミロを睨みつけた。ミロは背筋を伸ばした。幼少期も、おかしな言動をするとこうして小馬鹿にしたような眼差しを向けられたものだった。
シオンはじろじろとミロを眺め回したあと、ミロの顎を掴みあげ、ミロの顔を凝視した。緊張に、ごくりとミロの咽喉が鳴った。
「ミロよ、良いか。これは教皇命令だ。」
一瞬前までの粘着質な視線が嘘のようにやけにあっさりミロを解放したシオンは、ミロに背を向けてから、肩越しに一瞥投げかけてきた。
ミロの胸は騒いだが、そういう予感は概して遅すぎるものだ。
「2ヶ月の暇をやる。」
シオンは頭を振り、前言を撤回した。
「いや、任務と言った方がお主の気に召すだろうな。良いか、これは任務だ。2ヶ月、猶予をくれてやる。その間、この天蠍宮にこもり、是が非でもカノンの子を孕むように。良いな?」
良いな、と問われても、良いはずがない。
「は…はあ?教皇よ、あの。」
「うろたえるな、小僧!」
シオンの十八番に、否応なしに、ミロの身が竦んだ。びびるミロの肩に両手を置き、シオンがミロを取り巻く状況を説明した。
「…良いか?アテナが固く信じられている今、あの馬鹿がアテナに言ったことはすべて事実でなければならん。お主には何としてでも懐妊してもらわねばならんのだ。」
無情な説明だった。先日まで男だった自分にすぐさま孕めとは酷な仕打ちである。言葉を失うミロへ、やけにしんみりした調子でシオンが告げた。
「お主にとっても過酷なこととわかっている。しかし、これも、アテナがお主に託された運命だ。二ヶ月のうちに、死んでも成し遂げるように。」
それ以上は、誤魔化しようがないからな。
そう言い捨てて去っていくシオンの背へ追いすがるように伸ばしたミロの手は空を掻いた。ミロは為すすべもないまま、無情にも閉ざされた扉を前に絶句していた。かちりと施錠の音が耳に届いた。
カノンが天蠍宮に姿を見せたのは、日付けが変わった頃のことだった。カノンはミロの姿が見えないことにずいぶん気を揉んでいたのだが、サガやデスマスクの酒を拒むことも出来ず、アテナの熱烈な祝福を受けながら、ついさきほどまで呑まされていたのである。実を言うと、カノンは一刻も早くミロの許へ向かいたかったのだが。
カノンは愛するミロの姿を求めて、天蠍宮の中を彷徨った。
シオンの説明では、ミロはカノンの訪れを待っているとのことだった。どういう意味なのか問い質そうとするカノンへ、シオンは思わせぶりな視線を向けた。内心、カノンはどぎまぎした。結婚したばかりの夫婦がすることなど、一つしかないではないか。
しかも、カノンの勘違いでなければ、ミロはカノンに恋をしているらしいのだ。ひどくもったいぶった婉曲的な答だったので、確信は持てなかったが、その確信は今夜得るつもりだった。
高鳴る鼓動を鎮めるため意図的に深呼吸を繰り返していたカノンは、覚えのある真紅の小宇宙に惹かれて、寝室へと向かった。
天蠍宮の寝室には、これまで何度か足を運んだことがあった。珍しくミロが呑みすぎて潰れたときに1度、それから、朝に弱いミロを心配して起こしに向かったことが何回か。
ミロが寝室への侵入を許す存在は、自分か親友のカミュだけだと、カノンは自負していた。何しろ、ミロの縄張り意識はおそろしく強いのだ。聖域からめったに出ようとしないのも、ここに原因があるらしい。
賑賑しい雰囲気を持つ半面、ミロは意外と持ち物が少なく、宮の中も簡素に保っている。他の十二宮の主たちに比べ、従者が極端に少ないわりにいつ来ても綺麗に片付いているのは、ものが少ないからだろう。自宮へ蔵書をため込み続ける親友と違い、ミロ自身はものに執着するということがないようだった。歴史を重んじるミロは、天蠍宮を簡素に保つことは、天蠍宮を守って来た歴代の蠍座たちへの礼節と捉えている節があった。
カノンは息を殺して、寝室の扉を開けた。鍵がかかっていることに少し引っかかりを覚えたが、あらかじめシオンから鍵を持たされていたので、想像以上にミロは縄張り意識が強いらしい、とその程度の感想しか抱かなかった。いまだかつて覚えたことのない緊張に、口から心臓が飛び出しそうだった。
寝室には、いつもどおり、酒の詰った小型冷蔵庫と読みかけの本が2・3冊。
それから、先代のアテナが愛用していたという貴重な椅子が1脚。
そして、ベッドの上にうつ伏せた花嫁。
カノンは無言のまま、花嫁に近付いた。寝息が耳に届いた。どうやら寝ているようだ。カノンは落胆を覚えると同時に、ほっと胸を撫で下ろして、手のひらの汗をスラックスで拭った。
寝るのに邪魔だったのか、ウェディングドレスは椅子の上へ脱ぎ捨てられ、陽に焼けた肌が惜しげもなく晒されていた。枕に顔を押しつけているので息苦しいのだろう。カノンはふがふが言っているミロを仰向けにしてやり、ジャケットを脱いで隣に寝そべると、頬杖を突いた。
だいぶきこしめしたらしい。ミロはとても酒臭い上に、肌が林檎のように色づいていた。床に並ぶウーゾの空き瓶の本数から察するに、自分の許容量以上のアルコールを摂取したようだ。ミロが聖闘士だったから良いようなものを、常人ならば、急性アルコール中毒で死んでいるかもしれない量だった。
もしかして、自棄酒だろうか。
カノンは不安に駆られ、ミロの顔を覗き込んだ。そうでなければ良いのだが。しかし、今回の件で全面的にミロに迷惑をかけている自覚はある。
「…せめて俺が女になれれば良かったのだろうがな。」
カノンは小さく呟きながらミロの髪を梳いた。自然と欠伸が漏れ出た。この二日間振り回され、酒を飲まされ、カノンも疲れていたのだ。カノンはミロの身体を抱きよせて瞼を閉ざした。夢心地にミロがカノンの首に腕を回してくる。カノンはこの上なく幸せだった。
別に、カノンは体の関係がなくても良かったのだ。
ただ、そばに、ミロがいてくれさえすれば、それだけでカノンの心は救われたのだから。
明け方、ミロはトイレに行きたくなり目が覚めた。呑みすぎたせいで頭はひどく痛んでいた。
ミロは温い布団から出たくないと思いながら、意志の力で上半身を起こした。そのまま小用を足し戻って来たミロは、寝ぼけ眼のまま布団に潜り込み、熱源に身をすり寄せてから、はたと気付いた。
何だこれは。
他人から指摘されるまでもなく、自分がおそろしく縄張り意識の高いことをミロは自覚していた。常々、カミュにも呆れまじりに嘆息をこぼされるのだ。その自分が、たとえそれが獣であったとしても、他者の侵入をまったく気に留めないなど非常事態だった。
ミロは熱源から距離を置き、まじまじとそれが何であるのか眺めた。見覚えのある海色の髪に、シャツ越しにもわかる引き締まった体躯。カノンだった。ミロは肩透かしを喰らった思いで、眉根にしわを寄せ、カノンの鼻をつまんだ。
「なぜ、お前がここにいる?」
鼻をつまんだまま上下に振ると、迷惑そうにカノンが瞼を開けた。
「初夜に新婦といて問題でもあるのか?おい、止せ。鼻がもげる。」
「ふん、そんな鼻もげてしまえ!」
ミロはぶつくさ文句を言っているカノンを意に介さず、再び上半身を起こした。低血圧と二日酔いが相俟って、まだ頭が正常に働かなかった。ミロは寝ぼけ眼を擦り、カノンを詰問した。
「お前、俺が寝ている間に、よもや変な真似などしていないだろうな?」
「ずいぶん信用がないものだな。」
寂しげに笑うカノンに、ミロの胸がちくりと痛んだ。一体、どういうわけだ。ミロはいぶかりながら、胸元を抑え、不思議そうに見つめて来るカノンへひらひら手を振った。
「…冗談だ、忘れろ。俺とて、お前がそんなことをするとは思わん。悪かった。」
落ち着きないミロに、カノンが言う。
「いや、別に良いんだが…お前、どうかしたのか?」
「何だ?」
「やけに俺のことを意識していないか?」
ミロはかける言葉を失った。しかし、誰よりもプライドの高いミロのことだ。まさか、カノンと寝なければならない事態に懊悩したあげく、酔い潰れて寝てしまい、こうして今もその事実を引きずっているなど言えるはずもない。ミロは声を大にして否定した。
「そ、そんなはずがあるまい!あってたまるか!」
「…そうか?ならば、良いのだが。」
「そうだ!」
全力で否定されるとかえって怪しいものがある。カノンは口端に笑みを湛えたまま、ミロの言葉をあえて追求せず、ミロの身体を抱き込んだ。
ぎくりと腕の中の身体が強張った。
カノンはミロの顔を覗き込み、言い含めるように囁いた。
「ミロ、俺はお前が嫌がることを強いるつもりはない。お前が俺の気持ちを受け入れるのに時間がかかるのならば、喜んで待つつもりだ。何を吹き込まれたのかは知らないが、ふたりでゆっくり進んでいけば良いではないか。」
本心からの言葉だった。
カノンにとってミロは珠玉の光だった。ミロがミロでなくなる危険を冒すくらいならば、カノンは喜んで教皇の命を蹴るつもりだった。
ミロはカノンの台詞に丸くした目を、疑い深く眇めた。険のある眼差しだった。どうしたのだろうとカノンが問いかける前に、視界が回っていた。
眼前には天井が広がっていた。
どうやらミロに覆いかぶさられているようだ、と悟るのに、そう長くはかからなかった。ミロはいやに攻撃的な目つきでカノンを睨みつけたかと思うと、唇に噛みつくようなキスをした。昨日、カノンがしたものの反復のようなキスだった。カノンは動転した。
ミロは最後にカノンの唇を舐めてから、唇を離した。獰猛な肉食動物が、狩りで仕留めた獲物に与える死のくちづけのようだとカノンは思った。いや、蠍の毒針というべきか。
ミロはカノンの耳元に唇を落としながら、囁いた。
「待つ…?待つだと?お前にとって俺はその程度の価値なのか?」
咽喉元に息を吹きかけられ、カノンはぞくりとした。
「ミロ、」
上半身を起こしたミロが、カノンの胸元へ人差し指の爪先を立てながら宣言した。真紅の宣告だった。
「惚れたのなら、全力で振り向かせてみろ。俺が欲しければ、全力でぶつかって来い。お前の惑いなど、俺が掻き消してやる。」
ミロならば、言葉に違わず、掻き消してくれるのだろう。
カノンは両手を伸ばし、ミロの身体を掻き抱いた。しだいに空が明るくなり、鳥の音が響き始めるころだったが、二人は気にしなかった。狭いベッドを軋ませながら、必死に唇を貪った。
ただ夢中で抱きあった。
こうして、カノンとミロの新婚生活は順調に滑り出した。サガの先走った発言どおり、二人の間に子どもが出来る日も近いようだ。確かな筋に聞いた話では、アテナは早くも出産祝いを悩み始めているとのことである。
ところで、聖域育ちの聖闘士は小宇宙の制御に長けているのが通例だ。それは、小宇宙の機微から心情を悟られてしまうからであり、敵に動揺を悟られないためだった。
同じ聖域育ちとはいえ、陽光の下できちんと教育を受けたミロと、存在を秘匿され、悪感情以外知らずに育ったカノンとでは、ずいぶん違いが出るものらしい。
カノンの色惚けた小宇宙のせいで教皇の元に苦情が入り、カノンとミロが十二宮から追い出され、ティーヴァに拠点を移すのはまた別の話である。
初掲載 2012年11月24日