早朝、麗らかな日差しが差し込む双児宮の執務室には、珍しくサガの姿があった。
双児宮を任されているカノンの姿はない。昨夜も姿が見えなかったから、外泊しているに違いない。
休暇中の弟が何をしようと勝手ではあるのだが、これほど兄が懊悩しているときに外出するとは何と身勝手なのだろう、という理不尽な怒りがサガの中で沸き起こった。
ここ半月余り、教皇代理として実質教皇の仕事を全て担っているサガは、ある案件で頭を悩まされていた。ミロの性別が変わってしまった件だ。
ミロたっての希望があったこともあり、教皇の許可を取りつけて、自体を秘密裏に処理しようとしたのがあだとなった。
ミロの姿が見えないことで、アテナも不審がっている。先日も、ミロの親友であるカミュからどうしたのかと尋ねられたばかりだ。まるで住処で獲物を待つ蠍のように、ミロが聖域から離れたがらないことは周知の事実だった。
デスマスクから向けられた、おかしがる目も気になる。実力主義のデスマスクはあれでもサガに固く忠誠を誓っているので、サガの決断に口を出すことこそしないが、何か感づいたのかもしれなかった。
固く口止めをしたムウが漏らすことはないだろう。しかし、多分に呆れを含んだその眼差しがばらせば良いのにと雄弁に語っていた。
確かに、ムウの言うとおりなのだろう。シュラの注進がひどく気にかかってどうにも衆目にさらしたくなかったが、秘密を己が胸に留めず、さっさと吐き出してしまえば良かったのだ。
もともと、神経の細い方だ。自意識過剰と言われようと、周囲から疑惑の視線を向けられているようで、ここ数日、サガの胃も悲鳴を上げていた。
サガは考えをまとめるために室内を歩き回った後、覚悟を決めると、カノンの服を無断で借用し、小宇宙を消した状態で双児宮を飛び出した。
ミロの了承を得ていない今、ことはあくまで秘密裏に行わなければならなかった。カノンの服を拝借したのは、見とがめられた際、言い訳が立つようにである。
しかし、解決の糸口が見つからない状況では、ミロのことをいつまでも隠し通すわけにはいかなかった。
わざわざ聖衣のサイズを調整し、黄金聖闘士としての任務に就くくらいなのだから、ミロも引退する気はないだろう。忠誠心の篤い男だ。当初こそ気が動転した様子だったが、サガであれば首をくくりたくなるような事態にも、今ではそれほど動揺しているようには見えなかった。
夜には、財団の長として世界中を飛び回っているアテナも到着するという。
そのときに、サガはミロのことを釈明するつもりだった。
辿り着いたティーヴァの酒場に、ミロの姿は見受けられなかった。
サガの登場に酒場の主は一瞬戸惑った表情を見せてから、それがかの教皇代理だとわかると、なぜか驚いた様子で、昨夜はミロがアパートに泊まった事実を告げた。
何か心変わりでもあったのだろうか。押し寄せる不安に、サガは眉根を寄せた。
ミロが自活をできないのは自明の理だった。
不可抗力で聖域から離れざるをえなかった身を慮って、冷蔵庫には食料を詰めてやっているが、自分で調理するくらいならばそのまま食べるだろう、という強い確信がサガにはあった。それくらい、ミロは調理場に立つことを嫌った。
最新の洗濯機の使い方や湯沸かしの方法もわからなかったらしく、壊したという報告があったので、せめて不自由なく暮らせるように、と、蠍座に所縁のある酒場を紹介したのだ。
サガは酒場の主へ礼を告げると、ジャケットを翻し、一直線にアパートを目指した。
酒場から10分もしない場所に、アパートはあった。聖闘士にかかれば一瞬の距離だ。
しかし、人目を慮って常人並みの徒歩でやって来たサガは、荒々しく玄関の扉を開けると、室内に踏み入った。
「ミロ、いるか?!」
サガが焦るあまりノックを忘れた事実を差し引いても、プライベートの限られている十二宮ではそれが常態だったので、誰もサガを責められないだろう。
リビングには、驚きに目を見張っているミロの姿があった。顔を洗ったばかりなのか、首にはタオルがかけられ、ヘアピンで留められた前髪はわずかに濡れていた。男のときのものをそのまま着用しているらしく、サイズ違いのシャツからはすらりとした形の良い足が覗いていた。
ミロの姿を扇情的と言い表すものもいるに違いない。実際、幼少から面識のあるミロだと知らなければ、大いにそそられたかもしれない情景だった。
しかし、女の半裸など、サガも女聖闘士で慣れている。
サガは構わずミロのもとへ近付こうとして、はっと息を呑んだ。
「愚弟よ、なぜお前がここにいる…!」
海闘士として海の藻屑と化しておれば良いものを。
歯噛みするサガの心を読んだカノンが、あからさまに顔を歪めた。
「それはこちらの台詞だ。それに、それは俺の服だろう。なぜお前が着ている?」
不承不承返すカノンは、寝起きだという事実を隠そうともしない。大きく欠伸をすると、酒が抜けきらない体を億劫そうに動かして洗面台へと消えた。
テーブルには、ウーゾの空き瓶が2本並び、ビールの缶が積まれてタワーになっている。
カノンとミロが酒盛りをしたのは、火を見るより明らかだった。
ぴしりと小宇宙のひずみを響かせて、サガが凍りついた。まるでフリージングコフィンをかけられたようだ、と、ミロは現実逃避しかける頭の片隅で思った。
ミロとカノンは楽しく酒を交わしただけだ。昨夜の言動を顧みるに、それ以上でも、それ以下でもない。多少口説かれ、スキンシップも過多だったが、道を踏み外したと怯えなければならないレベルでもない。こんなことは、飲み会では良くあることだろう。
だから、ミロ自身に決して疾しい思いはないのだが、サガが関わるとなれば別だ。絶対に話がややこしくなるに決まっていた。
何しろ、サガの思い込みの激しさといえば、アテナ抹殺を企むほどのものである。
現に、サガは顔面蒼白ではないか。
ミロの背筋を冷たい汗が流れ落ちた。根っからの楽観主義者であるミロにも、良い兆候とは思えなかった。むしろ、不吉の一言である。ミロは黙してサガの次の行動を待った。
千日戦争に陥ったかのような緊迫感が二人を包みこんでいた。
そのとき、ミロは知る由もないが、サガの脳内では、17日前の教皇宮でのワンシーンが何度も繰り返し上映されていた。
丁度、ミロがアテナの護衛役として聖域を離れる直前の出来事だった。
「サガ、あなたに知らせておきたいことがある。」
本性は女神とはいえ、現世ではまだ幼いところもあるアテナの相手をしていたサガは、アテナに断りを入れるとシュラを見やった。
サガに忠誠を誓う年中組の中でも、とりわけ忠義に篤いのがシュラである。無駄口の多いデスマスクや口が達者なアフロディーテと異なり、言葉少ななシュラは礼節を重んじ、本当に重要なことしか口にしない傾向にあった。
そのシュラがアテナとの会話に割り込んでくるなど、非常事態に違いなかった。
目で先を促すサガへ非礼を詫びてから、シュラは言った。
「話とは、あなたの弟のことだ。」
「愚弟がどうかしたのか?」
愚弟とは耳に心地よい響きではないが、サガにとってカノンはいつまで経っても愚弟なのだ。
興味津々の様子でこちらを窺っているアテナの手前、シュラは声をひそめて答えた。
「俺もとやかく口を出すつもりはないが、…早めに手を打った方が良いのではないか?」
「…何をどうするというのだ?」
シュラは驚きにかすかに目を見張ったあと、眉根を寄せた。
「サガよ、本当に知らないのか?あれほど一目瞭然ではないか。もう少しカノンに注意を払った方が良い。」
朴念仁と評される俺とて気づいたほどだぞ。
疑い深く真意を探ろうとするシュラの態度がじれったくなり、サガは先ほど以上の強固な姿勢で先を促した。
シュラは言い淀んだが、意を決したように口にした。
「カノンはミロに恋をしているだろう。」
晴天の霹靂だった。激しく小宇宙が揺らぎ、アテナに心配されるほど、サガは衝撃を覚えた。
色恋沙汰にとかく疎いシュラが見かねて注進に来るくらいだ。カノンはよほど淫らがましい邪な目つきでミロを見ていたのだろう。
悪を体現する愚弟が、サガの最後の良心であるミロにあらぬ想いを抱いているなど、到底許せるものではない。
だからこそ、ミロの性別が変わったときも、サガは努めて秘密裏にことを運ぼうとしたのだ。こうなることを恐れたからである。
別に、サガも弟が同僚と酒を呑むことを禁じるつもりはないのだ。むしろ口こそ出さないが、まだいささか浮いている印象のある弟が聖域に早く馴染めればと願っていた。
ときおり、死んでくれればどれほど良いだろうと頭を悩まされることがあっても、否応なしに気にかかる存在ではあった。
愚弟とはいえ、唯一の肉親なのだ。気にならないはずがあるまい。
しかし、と、サガは柳眉を逆立てた。サガの小宇宙が怒りに猛り狂った。
サガは愚弟に、同僚とこのような不埒な関係を築いて欲しかったわけではない。それも、サガが実の弟のように可愛がっているミロに手を出すなど言語道断である。獣のように襲いかかったカノンの魔手によって、罪を犯したサガへも分け隔てなく笑ってくれたミロは穢されてしまったに違いなかった。
すべて、己の短慮のなせる業だ。
何という事態を招いてしまったのだろう。サガは激しく懊悩し、滂沱の涙を流した。
「サガ、大丈夫か…?また余計なことを考えていないだろうな?」
わなわな打ち震えるサガの眼前で、ミロは手を振ってみた。だが、期待したほどの効果は得られなかった。
サガはわずかに足元をふらつかせてから、腹を決めた様子でミロの両肩を掴んだ。
「ミロよ、お前に話がある。」
「…出来れば聞きたくないのだが、そういうわけにもいかないだろうな。」
「お前を元に戻す方法が見つからない今、そういつまでもアテナに隠し立てするわけにはいかないだろう。お前の不在をアテナも不審がられている。もはや一刻の猶予も許されていないのだ。」
矢継ぎ早にまくし立てるサガの台詞が思っていたよりもまともな事実に、ミロは内心胸を撫で下ろした。
すでに、サガは涙していない。多少顔色が悪いものの、神経質で潔癖で絶えず胃痛に悩まされているいつものサガだ。
先ほどの滂沱の涙は幻覚だったのだろう、と、ミロは自分に都合の良いように解釈することにした。
「今夜6時、アテナが聖域へご到着される予定だ。そのとき、お前のことも話すつもりでいる。黄金聖闘士全員に説明するつもりだ。必ず、聖衣で来るように。」
有無を言わせぬ口調でサガが命じた。
「これは教皇代理としての命令だ。」
常になく威圧的な教皇代理の命を、ミロは黙って受諾した。
初掲載 2012年11月19日