店内ではきらびやかな光が忙しなく瞬いていた。夕方の穏やかな静けさが嘘のようだ。いまや酒場は喧噪に呑まれ、思い思い着飾った男女たちが夜のはじまりを祝っていた。
とてもアテナに所縁のある由緒正しい酒場とは思えない。しかし、生き残るためには変化を取り入れることも必要だったのだろう。
案内されるままカウンター席についたカノンは、落ち着きなく腕時計へ目を落とした。
幼少期を軟禁されて過ごし、その後十数年にわたり、世俗を離れて海底で暮らしていたカノンは、このような雰囲気に慣れていなかった。今から慣れるには、いささかとうが立っている自覚もある。正直、居心地が良いとは言いかねた。
時計の短針は10を指し示していた。ミロから聞いた話では、アガリはいつもこれくらいになるという。
本来、スパルトイとの任務を受けているミロが、酒場の手伝いをしなければならない理由はない。しかし、逗留させてもらっているのだから、と、手伝いを買って出るところがミロらしくもある。
カノンは我知らず安堵のため息をつくと、注文したビールを飲みながら、ミロの姿を探し求めた。
見つけるのは容易かった。発情期にある鳥のようにきらびやかな若者の群れにあっても、ミロの姿は人目を引いた。まとう空気自体が鮮やかな色を帯びているようだ。黄金聖闘士はみなカリスマ性を持っているが、ミロが放つものはそれとは少し違った。夏草の鮮やかさ、アンタレスの華やかさがあった。
カノンは頬を綻ばせて、手を振りながら小走りにやって来るミロを見守った。
「悪い、待たせたか。」
「いいや、ちょうど今来たところだ。」
実際、来てから5分と経っていない。
ミロはカノンの答に満足した様子で大きく頷くと、カノンの手を引いた。
「行くぞ。夜は短いんだ。」
カノンがミロに連れて来られたのは、今回の任務にあたって聖域から貸与されたというアパートの一室だった。さすがに、カノンを酒場に併設されている住いへ連れ込むのは気が引けたらしい。
最新式の一流アパートらしいが、聖域住まいのミロには手に余る部分が多く、業を煮やして酒場に住いを移したという話だった。
確かに、家事全般を侍従にまかせっきりのミロでは手に負えないだろう。最新機器など与えられたところで壊すのがオチだ。もしかすると、すでに壊したあとなのかもしれない。
黄金聖闘士の中には、聖域外にセーフハウスを持つものもいる。ジャミールやシベリアに拠点を置くムウやカミュを筆頭に、デスマスクやアフロディーテも所有しているようだ。同僚に気兼ねしなくて良いのだろう。
聖域に馴染み切れていないカノンは、今後のセーフハウスの存在も検討しながら、ジャケットを脱ぐミロを眺めていた。男のときはぴったりだったジャケットも、今ではずいぶんと袖が余るようだ。サイズが違うとわかりながらも着用し続けているのは、よほど気に入っているからかもしれない。
ミロはジャケットをハンガーにかけると奥へ引っ込み、缶ビールを手に帰って来た。
「とりあえず、乾杯するぞ。」
「異論はないが、何に乾杯する?」
「お前の瞳に、とでも言えば良いだろう。」
屈託なく笑いかけられたカノンは閉口した。
現実を直視する能力に長けている半面、ミロが夢見がちであることをカノンは知っていた。だが、このような冗談を戯れで口に出来るような男ではないはずだ。
カノンは頬杖をついて乾杯の合図を待っているミロへ懸念の眼差しを向けた。
「ミロ、お前…もしかして酔っているのか?」
よく見れば、少し顔が赤いようだ。仕事柄呑まされたのかもしれない。
しかし、カノンはこれまでも何度かミロと酒を交わしたことがあった。そのときの印象を口にすれば、ミロはどちらかといえば酒に強かったはずだ。
どれだけ呑んだのだろう、と、カノンが伸ばした手をミロは振り払い、不満に頬を膨らませた。
「酔ってなどいない。」
「酔っ払いはみなそう言うものだ。」
「俺は酔っ払いじゃない。」
だんだん子供じみてくるミロへカノンは苦笑をこぼすと、立ち上がった。ミロが目で問いかけてくる。カノンは子どもへしてやるように、ミロの髪を掻き混ぜた。
「ひたすら呑んでいるわけにもいかないからな。つまみを作ろう。冷蔵庫には何かあるのか?」
混ぜっ返された髪を梳きながら、ミロが不服そうに答えた。
「開けないからわからないが、それなりには入っているはずだ。オリーブは棚の中。それに、オイルサーディンの缶詰もある。」
自炊をまったくしないミロらしい答だった。酒場に逗留しているので、侍従が気を利かせていっぱいにしてくれた冷蔵庫の中身を把握していない、というのが実情だろう。
調理用具も一式揃えられているようだ。
冷蔵庫と棚を開けて中身を確認したカノンは、背後へ忍び寄って来たミロへ問いかけた。
「何かリクエストは?」
カノンの肩へ両手を置き、肩越しに冷蔵庫の中身を覗き込むミロが肩を竦めた。こぼれ落ちた巻き毛がカノンの項をくすぐり、熱っぽい吐息が耳を掠めた。
無自覚なのか、意図してのことなのか。ときおり、ミロは優越的立場にある捕食者の態度を取った。陽光の中で快活に笑いながら、その裏には、確実に死に至らしめる残酷な毒が潜んでいた。
この二面性は、蠍座の下に生まれたものの性質なのかもしれないが、非常に心臓に悪かった。万華鏡のように変わる表情を見るたび、カノンは否応なしにミロへ惹かれていくのだった。
表面上は平静を装うカノンへ、ミロは笑い交じりに応じた。
「カノンに任せる。お前が作るものは何でも美味いからな。カノンは知らないだろうが、俺は全幅の信頼を寄せているのだぞ。」
「…任された。」
その信頼を裏切る日は近いかもしれない。カノンは無頓着に背中へ押し付けられた乳房から逃れつつ、密かに瞑目した。
ピキリアにドマトサラタ。ティキサラタ。それに、ミロの好きな林檎。
急ごしらえにしてはそれなりの出来だろう。
出来栄えに満足し、調理した皿を手にリビングへ向かったカノンは、先に呑み始めていたミロの様子に眉をひそめた。
今や、ミロの顔はすっかり紅潮している。しどけなくソファにもたれかかりあらぬ場所を見やるミロの姿は、危険な色香を漂わせ、カノンの目に楽しく映ると同時に、毒でもあった。
カノンは嘆息をこぼして、ミロの手からグラスを取り上げた。
「お前はもう呑むな。」
ウーゾの瓶は半分に減っている。ミネラルウォーターが見当たらないので、割らずに呑んだのだろう。40度ある酒だ。勢いで呑むには、いささか度が強い。
苦言を呈すカノンを、ミロは悔しそうに睨みつけた。カノンは隣へ腰を下ろすと、ミロを正面から見つめた。ミロの様子が心配でもあった。
「一体どうしたんだ?今日のお前は少しおかしいぞ。」
沈黙が下りた。ミロが唇を噛んで、拳を握り締めた。その眼は怒りに似た強い意志できらきらと燃えていた。思わず目を奪われる、うつくしい眼だった。
だが、そうそう呆けているわけにもいかない。
今日のミロは、やはりどこかおかしかった。
カノンが諦めて先へ続ける前に、顔を俯かせて黙りこんでいたミロが勢い良く面を上げた。噛みつくような口ぶりだった。
「わかった。白状する。少し緊張して呑みすぎた。これで満足か?」
酔っぱらっているせいか、常ならば口にしないだろうミロの本心に、カノンは目を丸くした。
「…緊張したのか?」
「お前がデートなどというからだろう。」
お前がどうやって女を口説くのか、迂闊にも考えたせいだ。
ミロは文句を言いながら、傍らのクッションを抱き込んだ。そうしている様は、真相を知らなければ、不慣れな恋に恥らっている年相応の女にしか見えない。
カノンは込み上げる喜びに知らず微笑んだ。
プライドの高いミロは、自分から挑発した手前、引っ込みがつかなくなったのだ。しかし、単なる挑発であったのならば、ミロが緊張する理由はない。ミロはカノンが口にしたデートの意味を正確に理解しているらしかった。
カノンはミロの細い肩を抱き込むと、わざとらしく耳元で囁いた。さきほど店で呑んだビールの酔いが、今更になって回って来たのかもしれなかった。
「それは…嬉しいな。」
抱いた肩がおののいた。
緊張によるものか、それとも。
ミロは言葉を忘れた様子でカノンをまじまじと見つめ返した。やがて、その頬は林檎もかくやというほどに赤く染まった。
ミロはひどく動転した様子で、カノンの体を押し退けた。
「ええい、喜ぶな!俺まで恥ずかしくなるだろう!」
「何を恥らう必要がある。同性の俺相手に恥らう理由があるのか?」
「カノン…っ!」
上げ足を取られて悔しがるミロに、カノンは久しぶりに声を立てて笑った。
初掲載 2012年11月18日