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 双児宮の執務室で、カノンは黙々と報告書を仕上げていた。昨日まで携わっていた任務の報告書だ。別にとりたてて急ぐ必要もないのだが、他にすることもないので取りかかっているのである。
 備えつけの冷蔵庫は、侍従が用意した食物でいっぱいだった。欲しいものもなければ、したいこともないので、宮を降りて街へ向かう必要も感じられない。いつもカノンを振り回すミロが不在となれば、なおさらのことだった。
 カノンの出立前から、教皇の命を受けて、ミロは任務に出払っていた。任務地は、教皇と教皇代理、それにムウしか知らない。先ほど、ミロを探していた様子から察するに、アテナもミロの行方を知らないようだった。
 あらかた仕事にめどがつくと、カノンは万年筆を置き、大きく伸びをした。そろそろ昼食もとりたかった。
 今回の任務は、聖域の守護者たる黄金聖闘士が出陣しなければならなかったレベルなので、それ相応に骨の折れる内容だった。現黄金聖闘士で最強と名高いカノンですら1週間を要したほどだ。
 無事帰還を果たしたカノンの労を、教皇代理のサガは惜しみなくねぎらった。その一方で、性急に教皇宮から追い払われたという印象は拭えなかった。
 ミロの任務に関して、本心を言えば、カノンには腑に落ちない部分があった。サガは、ミロが長期任務に出ているのだと説明した。しかし、ハーデスの倒れた今、黄金聖闘士が出陣してなお1週間以上を要するような任務は、ほぼ皆無といっていい。その上、長期にわたって聖域を空けなければならないような任務をあのミロが進んで引き受けるとも思えない。ミロが天蠍宮を空けたがらないことは周知の事実だ。そのような仕事はたいてい、フットワークの軽いデスマスクや世間慣れしたアフロディーテに割り振られていた。
 サガもその自覚があるからこそ、訊かれる前にカノンを追い払ったのだろう。
 カノンはミロの不在が気がかりだった。スカーレットニードルによる断罪の件もある。カノンはミロに尽きせぬ恩義を感じていた。
 この聖域という場所で、カノンが親交のあるものは少ない。むろん、黄金聖闘士たちとは交流していないわけではないのだが、長期にわたって存在を秘匿されていた過去と、かつて海龍として敵対したという事実が交流の妨げとなっているのが現実だった。中にはミロのようにまったく意に介さないものもいる。しかし、それはほんの一握りだ。実兄のサガですら、カノンには腫れものに触れるようにして接する。
 「いや、兄だから、か。」
 小声でひとりごちたカノンは、まっすぐ近付いて来る小宇宙に真正面の扉を見やった。双児宮を通りすぎて他の宮へ行くものだとばかり思っていた人物は、カノンに用事があるようだ。扉が軋む音を立てて勢い良く開かれた。
 「デスマスク、何か用か?」
 カノンの問いかけに、デスマスクが肩を竦めてみせた。街からの帰りなのだろう、脇には食品店の紙袋を抱えている。
 そういえばデスマスクはひどく食にうるさいという話を思い出し、カノンはおかしく思った。カノンも海底での暮らしが長かったため、必要に駆られて料理を覚えたが、どうやらデスマスクはその比ではないようだ。
 カノンの視線から心中を察したに違いない。デスマスクは眉をあげると、本題に取りかかった。
 「今、ティーヴァに行ってきたんだが。」
 アテネからは53キロも離れている都市だ。
 「わざわざティーヴァまで行ったのか。ご苦労なことだ。」
 「俺たちにとっちゃすぐそこだろ。」
 デスマスクは肩を竦めてみせると、にやりと口端を歪めた。悪意は感じられないものの、人の悪い笑みだった。
 「アンタも行ってみろよ。たぶん、面白いもんが見れるぜ?」


 夕方には、カノンはティーヴァに到着していた。
 ティーヴァはアテナの管轄ではなく、他の神が支配する土地である。すぐそばには有名なキサイロナス山脈がある。聖域からそれなりに距離はあるが、デスマスクが言ったように、黄金聖闘士にとっては問題視するほどの距離でもない。カノンは知り合いに会うのを気兼ねして、小宇宙を抑えることにした。
 カノンはいつになく寛容な気持ちで、市内の大通りを歩いていた。
 人々の活気は、ギリシアの首都であるアテナと比べるべくもない。しかし、同じく神代の名残を強くとどめる聖域で生まれ育ったカノンにとっては、ティーヴァはどこか郷愁をくすぐる土地だった。巧く言い表せないが、聖域と空気が似ているのだろう。スパルトイという竜の歯から生まれたとされる、聖闘士とは別系統の戦士の存在も確認されていた。
 カノンは市の中心部までやって来ると、ズボンの尻ポケットに手を突っ込み、手書きのメモを引っ張り出した。そこには、デスマスクが面白いから行ってみると良いと笑っていた店の名が書き殴られていた。みみずがのたくったような字とは、このような字を指すのだろう。カノンは苦笑をこぼすと、店名を求めて辺りを見回した。
 カノンは知らなかったが、デスマスクによれば、先代のアテナに所縁のある酒場だという。何度か、アテナは当代の蠍座と共にその店へ足を運んだようだ。わざわざアテナが足を運んだのだからよほどの事情があったに違いない、と思いを巡らせるカノンへ、デスマスクは笑って手を振った。
 「前回の聖戦のスコーピオンは、たいそうな御人だったみたいだぜ。あとで、老師か教皇にでも聞いてみろよ。ああ、アンタだったらミロに訊けば良い。」
 とってつけられたデスマスクの台詞に、カノンの唇が知らず綻んだ。
 カノンが、それほど親交があるわけでもないデスマスクの酔狂に付き合ってみる気になったのは、ミロが不在でやることがなかったせいでもあったが、同時に、前回の聖戦で活躍した蠍座所縁の地を見てみたいという想いに駆られたからでもあった。
 スコーピオン――それは、カノンを断罪し、呪縛から解き放ったものの属する星だ。
 カノンは可能な限り、ミロのことを知りたいと思っていた。カノンのアテナへの服従が畏敬の念と義務によるものだとすれば、ミロへ寄せるこの情念は恋情に近かった。もっとも、ミロは同性だ。同性愛への嫌悪がないとはいえ、カノンはミロに劣情を押しつける気持ちはなかった。
 ようやく見つけた酒場は、まだ早い時間ということもあり、開店前だった。昼にはランチもやっているようだ。デスマスクはランチの時間帯に訪れたのだろう。夜の部は、18時から始めるらしい。
 手持無沙汰になったカノンは、時間の潰せる場所を探そうと店の入口へ背を向けた。
 そのとき、背後でからんというベルの音がした。
 店員が買い出しに向かうようだ。デスマスクが気に入りそうなブロンドの、すらりとした体つきの人目を引く女だ。あちこちに包帯を巻いている。黄金の髪のせいか、どこかミロを彷彿とさせる部分があった。
 もしかすると、デスマスクがこの店を勧めたのはこういう理由なのかもしれない。
 カノンはメモを尻ポケットへ押し込め、苦笑した。同僚にそんな心配をされなければならないほど、自分は女日照りだっただろうか。だが、最近、ミロのことばかり目で追いかけていた自覚はある。否定はできなかった。
 ともかく、どこか適当に時間を潰せる場所を尋ねるには、ちょうど良い機会だった。
 「そこのひと、すまないが。」
 「…えっ?」
 小さく息を飲む音がした。
 店員のひどく動転した様子に気を引かれて、カノンは女の顔を見た。今度は、カノンが驚いた。それは、よく見知った顔だったからだ。
 カノンは踵を返して逃げようとする女の肩を掴んで引き寄せた。
 「ミロ、お前がどうしてここにいる。それに、その体はなんだ?」
 10日ぶりに再会したミロは、ばつが悪そうに頭をかいた。


 話は半月前に遡る。
 アテナの護衛の任務についていたミロは、聖域へ帰還し、報告を済ませるなりベッドに倒れ込んだ。体がだるかった。吐き気もしていた。黄金聖闘士になってからはじめての経験だ。まだ小宇宙が制御できなかった子どもの頃を思い返し、風邪だろうか、と頭を悩ませながらミロは眠りについた。18時半のことだった。
 予兆は何もなかったという。
 翌日、起きてみると体調は回復していた。
 何ということはなかったのだろう。低血圧気味のミロは寝ぼけ眼をこすりながら、いつもの習慣で時間を確認した。早朝の5時だった。10時間半も寝た計算になる。
 ミロは自分の怠惰と不養生に呆れかえりながら、寝汗で張りつくシャツを脱ぎ捨てようとして、ある事実に気づいた。どういうわけか、シャツのサイズが大きくなっていた。いや、自分の身体が一回り小さくなったのだろうか。
 それに、この眼下にあるふくらみはなんなのか。
 「さすがの俺も焦ったな。」
 酒場のカウンターでコーヒーを落としながら説明するミロへ、向かいに座ったカノンは返した。
 「それはそうだろう。当然の反応だ。それで、原因は判明したのか?」
 「それがわかれば、このような苦労はしておらん。」
 あっけらかんと言うミロにカノンは驚いたが、もともとミロは、深く考えるより感性のまま生きることを良しとする人物である。女になってしまったものは仕方ないと肯定的にとらえている節があった。思いつめる傾向にあるカノンやサガにはとうてい真似のできないことだ。これが生真面目すぎるカミュやシュラであったら、どんな大惨事に発展していたかわからない。
 ミロがぼやいた。
 「教皇もサガもお手上げのようだ。書を解いてみても、このような事例はないという。あの読書家のサガがいうのだから本当だろう。仕方がないので、ムウには事情を説明して聖衣のサイズを調整してもらねばならなかった。」
 「聖衣を…?だが、まさかその姿でまとうつもりではないだろう。」
 カノンの問いかけを受けて、ミロが不機嫌そうに頬を膨らませた。黄金聖闘士に相応しく、古めかしい言葉遣いと態度を心がけているものの、こういうところは少し子供じみている。そのギャップがカノンにはなおさら堪らないのだが、まさか当人に言えるはずもない。
 ミロがカノンへコーヒーのマグカップを渡しながら言った。
 「馬鹿にするな。俺とて、ただ待機しているわけではない。それなりに働いてはいるのだ。」
 数百年前の蠍座のよしみでこの酒場に身を寄せてはいるものの、聖域の名代としてスパルトイと交流を図るなど、黄金聖闘士としての仕事はこなしているらしい。
 「しかし、最終的になぜか、封印されていた竜の討伐に乗り出すことになってな。やはり頭を使う仕事は俺向きではない。」
 そんなことを言いながらコーヒーを飲むミロに、カノンは苦笑を浮かべた。
 どういう経緯で竜を倒すことになったのかはわからない。しかし、きっかけは別として、竜との戦闘は確実に肉体労働の部類だろう。直接的な戦闘ならば、ミロよりもアイオリアやカノンの方が相性は良かったはずだが、負傷しながらもこなすところはさすが黄金聖闘士といったところか。
 不満そうに手首の包帯を撫でてから、ミロが頬杖をついた。
 「しばらくは長期任務という名目で通るが、それもいつまで隠し通せることかわからんな。まったく、デスマスクにばれたのが運のつきだ。あいつは絶対言いふらすぞ。」
 「だろうな。実際、俺もデスマスクに聞いた口だ。」
 「…もっときつく口止めをするべきだった。」
 ミロが剣呑に目を眇めた。いつの間にか、人差し指の爪が真紅に染まっていた。
 しかし次の瞬間には、一転して、明るい調子でミロが目を輝かせた。
 「だがな、この姿には色々特権もあるのだぞ!」
 くるりとミロが身を翻させた。回った拍子に黄金の髪が広がり、ふわりと甘い香りがカノンの鼻先をかすめた。心震わせる太陽の香りだった。
 カノンの胸中など露知らず、ミロは腰に手を当てて、ふんぞり返った。
 「俺を見てみろ。まず、あのスコーピオンだとは思わないだろう?」
 「…確かに、思わないだろうな。」
 血縁者でもいたのか、と思うことはあるとしても、本人だとは思わないだろう。みなが知っているミロは男なのだ。先入観とは思っていた以上に強いもので、カノンも、ミロがあれほど動揺を露わにしなければ気付けなかったはずだ。
 ミロが心底楽しそうに拳を振るった。
 「一般の生活など生まれてはじめてだからな。アテナをお傍でお守りできないのは心苦しいが、これはこれで楽しい部分もある。」
 「確かに、お前を見ていると楽しそうだ。」
 だからこそ、惹かれて止まないのだ。カノンは目を細めた。
 カノンにとってミロは眩しい存在だった。聖闘士という立場上、世界の闇を知らないはずがないだろうに、屈託なく笑うことのできるミロがカノンは羨ましかった。
 秘密を打ち明けるように、ミロが笑いかけてきた。
 「どうせ限られた人生だ。せっかく聖戦を生き抜いたのだから、楽しまねばな。」
 ミロの言うとおりだった。
 確かに、と再び連呼しかけたカノンは唇を閉ざすと、手に持っていたマグカップを置き、代わりに、ミロの手を引いた。男のときの手も好きだったが、それ以上に、いとおしさを募らせる白く小さな女の手だった。カノンは手の甲へ唇を落とし、ミロへ囁いた。
 「なあ、ミロ。今夜は空いているか?」
 ミロが居心地悪そうに自分の手を奪い返した。
 「空いているが…、それがどうかしたか?」
 「デートしないか。」
 もちろん、駄目もとでの提案だった。プライドの高いミロに、馬鹿にするな、と立腹される恐れもあった。いや、それしか考えられなかった。
 しかし、ミロは目を丸くしたあと、いかにもおかしそうに声を立てて笑った。
 「デートか!カノン、お前は面白いことを言う。男の俺相手にデートも何もないだろうに。」
 ミロはカノンの真意が本当にわからないのだろう。そうでなければ、情に篤く懐の広いミロがカノンの告白を笑い飛ばすはずがなかった。
 弁解するつもりで口を開きかけるカノンに、カウンターの上へ身を乗り出したミロが唇を弓なりにつりあげた。リストリクションをかけられたように、カノンの心臓が跳ね上がった。
 ミロの指先がもの思わしげにカノンの顎をなぞり上げた。
 「だが良いぞ。せっかくだ、お前がどうやって女を口説くのか参考にさせてもらおうか。」
 お手並み拝見だな。ミロの目が楽しげに光を放った。










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初掲載 2012年11月18日