「そうだ。ジークが帰ってきたぞ。」
あたしの家ガ所有する廃ビルで、昔みたいに、宇喜田と武田と話し合っていたときのことだ。新島はニタアリと人の悪い笑みを浮かべて、あたしの顔色を覗うようにわざとらしく言った。全く前触れのない何気ない風な切り出しでいながら、新島らしいあまりにわざとらしい言い方だったので、あたしは嫌な予感がした。
「今日も猫に会いに行くんだろ?」
そう言って、新島はまたニタアリと笑った。
寒気がしたのか、あたしの隣で武田が腕を擦りながら、「晴れているのに、おかしいなあ。」などと外を見ていた。つられて見ると、空は憎らしいくらい真っ青だった。
何故か、宇喜多の顔も真っ青だった。ケケケと新島が笑った。
猫に会いに行くようになってから知ったのだけれど、ジークの家はあたしの家に近かった。茨で垣根が作られた西洋風の大きな屋敷は、ヨーロッパからわざわざ運んで建て直したものらしい。あたしの家も大概だけれど、ジークと、それにハーミットの家は段違いの豪邸ぶりだ。城と呼ぶのが相応かもしれない。
そんなあたしたち三人が住む町は金持ちの家ばかりが密集している場所で、大きな屋敷があちらこちらに建っている。金持ちのお嬢さんであるなど何となく恥ずかしいので、周囲にばらしたいとは思わない事実をこっそり打ち明けると、ジークは「ご近所さんですね。」などと嬉しそうに笑っていた。
そんなあいつが、帰ってきた。
道中、何か土産でも持って行くべきなんだろうか、と思ってから、それは違うんじゃないかとも思って首を振った。土産を貰うのはあたしの方だ。
ここ数ヶ月、ジークはヨーロッパに住んでいる。音楽の特待生として、とうとう留学したのだ。以前からチベットにふらりと出かけて音信不通になったりとおかしなやつだったけれど、これだけ長期間見かけないのは初めてで、正直戸惑っている。そりゃ、まあ、前から仲なんて良くなかったわけだし、こうして話すようになったのも猫がいるからだけど。
一方、あたしだって将来のことを考えなくちゃ、と思いつつ、だらだらあたしは学生をしている。高校生ってこういうときに便利な肩書きだ。
渡された合鍵で開けるまでもなく、玄関の扉は開いていた。
「ジーク、邪魔するよ?」
爺やも出て来ない。良いのかな、なんて後ろめたさも感じながら、あたしは足を進めていった。
ピンと音が聴こえたのは、あまりに静かだったからかもしれない。静けさの中に映えるような、小さな音。それがふっと届いて、あたしはそちらに向かうことにした。
案の定、ジークはそこにいた。まともな恰好で、足元にはあたしの可愛い猫たちも纏わりついている。こんなに可愛がっているのに、たまにしか会えないジークの方に懐いているなんて、憎らしい子たちだ。でもそこが可愛らしい。
「帰ってきたんだってね。新島から聞いたよ。」
「我が魔王とは連絡を取り合っていますからね。」
「知ってる。DオブDで連絡が取れなかった教訓からだろ?」
ピン、とまた小さく音がした。さっきよりもしかしたら大き目かもしれない。そっと爪弾かれたピアノの響板の上に乗り上げて、あたしの猫がにゃあと鳴いた。
沈黙は決して嫌いじゃないけど、久しぶりのそれに少し当惑もした。何を話せば良いんだろう。
「ねえ。」
猫の隣に頬杖を着いて、あたしはジークに頼んでみた。
「何か弾いてよ。」
てっきり断られるものだと思っていた。理由は簡単だ。弾かなきゃならない理由がない。あたしだったら断ってる。それをジークは気にした風もなく、「良いですよ。」と軽く答えた。
「何かリクエストはありますか?」
そんなことを訊かれても、了承すら予想してなかった。大体、音楽なんてわからないし、興味もない。だから、新白連合なんてのに無理矢理組み込まれてしまうまで、あたしはジークを馬鹿にしていた。
正直、あたしは困ってしまった。
「何か、…あんたの好きな曲でも良いし、得意のオリジナルでも良いしさ。」
ピン、とまた音がした。今度は具合を確かめるような力強さで、僅かに目を眇めてから「では」と言うと、ジークは椅子を引いて腰を落ち着けた。
それは聴いたことがない曲だった。淡々とした基調の上で、たんたんと音符が弾んでいる。細波が突然白波に変わり、大きなうねりは起こる前に掻き消えた。柔らかく響く音は優しくて、目を逸らしたいくらいどこか甘ったるい。
そして、おしまいは呆気に取られるほど唐突だった。
「聴いたことがないけど、これ、何て曲?」
ジークがこんな曲を弾くなんて意外で、少しだけ興味が湧いた。もっと壮大で重厚な、良く知らないけど、ワーグナーとかベートーヴェンとか、そういう哲学的なものを選ぶのだと思った。それなら、あたしは呆れたように笑って、「あんたらしいね。変わらない。」なんて、猫に意識を移しただろう。
「未完なのですが。」
ジークはピンとピアノを鳴らして、そこに目を向けたまま、何気なく言った。実際、あいつにしてみたら何でもないことだったのだろう。
「貴女と居るとこんなメロディーが溢れてくるのです。」
視線を落とすと、足元でにゃんと小さく猫が鳴いた。
あたしはどうしたら良いのかわからずに、何度も瞬きをするだけだった。
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初掲載 2008年1月5日