第二話 私のジュリエッタ・グイチャルディ


 あたしはジークの家へ猫に会いに行く。
 猫はあたしの防波堤だった。言い訳、口実、盾、何でも良い。あたしにとって、いつしか猫はそういうものになっていて、あの家に行く理由はいつの間にかすり替わっていた。
 勿論、あたしの猫好きは変わらないし、変わらないからこそネコンドーも発展している。それでも、格闘技以外に興味を持つものが出来たのも事実で、けれどそれにあたしは目を向けまいとしていた。恋愛に現を抜かすなんて、そんな女らしいこと今更するには気がしけるし、第一、あたしのプライドが許さない。あたしは男と渡り合いたい。女の地位で満足したくない。女らしくすることと男と競い合うことは決して対立事項ではないと、牛乳は言っていたけれど、事実はそうだとしてもあたしはそれを受け入れられない。
 区別と差別の違いが、正直良くわからなくなっている。その点だけは自覚がある。
 そんなことを、窓から見える無駄に青い空を睨みつけるようにして、あたしは思っていた。場所は新白連合の本部。呼び出した当人は気にした風もなく、パソコン画面に向かって時折独り言や笑い声を洩らしながらキーボードを叩いている。そんな後姿を見ながら、魔王というか悪魔だ、と内心あたしは思った。
 「それで、新島。何の用なわけ?用事がないなら帰りたいんだけど。」
 良い予感がまったくしない。案の定、人をおちょくるような嫌な笑みで「悪い悪い。」と振り向いてから、急に真面目な顔で言った。
 「実は、今日ジークが帰って来るんだ。お前には教えておこうと思ってな。」
 「…何で、あたし?」
 「そりゃあもう、俺を慕うジークを無碍に出来るわけがないだろう。あいつの、」
 しかし、顔にはしっかり面白そうだからと書いてある。
 最後まで言わせまいと蹴りつけた足をささっと避けて、「施錠は頼んだぞ!」と新島は叫ぶとどこかへ去った。あたしは攻撃対象を失って、仕方なしに足を下ろした。
 あいつ、本当にしぶとい。卒業するまでに、いつか絶対に仕留めてやる。


 その日、そういう経緯もあって、あたしはジークの家に行くつもりはなかった。
 実際、親に心配されないぎりぎりまで外で遊び倒して、それから帰路に着いたのだ。時刻は遅いし、同じ町内といっても、馬鹿みたいにでかい屋敷ばかりあることもあって、あたしの家とジークの家は距離を隔たっている。
 まさか、会うなんて思わなかった。
 ジークはあたしの姿に気付くと、帽子を取って「奇遇ですね。」と軽く頭を下げた。
 「…どうしたのさ、こんな時間に。」
 「飛行機が遅れまして。」
 「あ、そう。」
 見てみると手にはキャスターつきの鞄もある。新島のこともあって、まさか待ち伏せ、と思ったのは流石に穿ちすぎだったようだ。自意識過剰すぎる、とあたしは恥ずかしくなって、赤くなった顔を逸らした。
 もしかしたら、新島はここまで計算していたのかもしれない。
 ここで別れるのもかえって変だし、と言い訳のようにもごもご呟いて、あたしがジークの横に並んで歩き始めると、しばらくしてからジークは言った。
 「それはそうと、こんな夜更けにレディが一人歩きなど、危険ですよ。」
 「それ、あたしのこと馬鹿にしてんの?」
 男に勝ちたいあたしにとって、女らしくされるのは何より応える。それがジークなら尚更だった。眉間にしわを寄せて、ちょっときつい口調で問うと、ジークはいぶかしむように首をかしげた。
 「馬鹿に?おかしなことを言いますね。貴女の実力は、一緒に戦った私が一番知っています。ただ、心配しているだけですよ。」
 言葉を失くすあたしを畳み掛けるように、ジークは続けた。
 「恋しい女性の心配をすることは、おかしいですか?」
 そりゃ、おかしいよ。前後の会話からすると、あたしが好きな相手みたいじゃない。
 怒った風でも、からかう風でも良い。ただそう言って、あたしが馬鹿にされていると思い込んでいる様子で会話を打ち切ってしまえば良かったのに、それが出来なかった。
 思わず立ち止まるあたしに合わせて、ジークも進むのを止めた。沈黙が重い。何か言えば良いのに。混乱していて、何をどう言ってかわせば良いのか、そもそも立ち止まってしまった時点であたしはかわせない事実に気付かずに、散々答えあぐねていた。
 ふっとジークが夜空を見上げて、楽しそうな響きで呟いた。
 「今宵は月が綺麗ですね。月光が、まるでベートーヴェンのピアノソナタを思い浮かばせて…ルツェルン湖の小舟を揺らす月光のような。」
 そんなことを言われても、あたしには月光という曲がどんなものなのかも、ルツェルン湖がどこにあるのかも、それがどういう情景なのかもわからなかった。いつもそうだ。あたしはジークの奇天烈な言動に振り回されてばかりで、一度だってやり返せた例がない。空から降ってきたり、試合の途中で急に寝たり、告白まがいのことをしたり。嵐のような奇行に呆気に取られているうちに、気が付けば主導権を握られて、物事はどんどん進んでいる。
 「あたしが、」
 苛立ったあたしの声色に、ジークが空から視線を戻した。
 「あたしがバルキリーだからってブリュンヒルデとは限らないし、あんたがジークフリードだっていうなら、向こうでグズルーンでも作りなよ。折角留学してるんだしさ。新白連合のことも忘れて、音楽に没頭して。」
 あたしだって元ラグナレクだ。北欧神話のさわりくらい知っている。ジークフリードはバルキリーのブリュンヒルデと恋に落ちるかもしれない。でも、策で忘れ薬を飲まされて、グズルーンと結婚するじゃないか。あたしもまんまと策にはまってそんな女の兄貴と結婚するのは嫌だし、あたしがしたところでそれは喜劇だ。どうせ、後ろで新島が糸を引いているのだろう。
 第一、あたしたちがどれだけ頑張ったって、新白連合も所詮は子供のお遊びだ。高校生という枠を飛び出して世界に飛び立てば、小さな世界は必要ない。他に楽しいことも沢山あるだろう。何といっても、ジークには大切な音楽がある。その将来の前に、格闘に明け暮れた過去なんて要らないじゃないか。
 あたしの非難に、ジークは不思議そうに目を瞬かせた。
 「あれは叙事詩――フィクションですよ。」
 まさか、こいつにそう冷静に指摘されるとは思わなかった。絶句するあたしに、ジークは返した。
 「仮に貴女がブリュンヒルデでも、私は忘れ薬を飲みません。飲んでも、貴女の奏でるメロディーを忘れられそうにはありませんよ。貴方はブリュンヒルデというより、」
 ふいに逸らされたジークの視線の先を追えば、そこには綺麗な月があった。ジークは嬉しそうに月を一瞥してから、あたしの手を取って跪いた。
 「ジュリエッタ・グイチャルディです。私の不滅の恋人よ。」
 落された口付けに、手を振り払ってやれば良かった。あたしは動揺していてそうすることすら思い浮かずに、目を見開いてジークを見ていた。
 「送ります。夜はレディにとってやはり危険ですから。」
 眠れるブリュンヒルデを守るヴォーダンの槍もあっさり打ち砕き、ジークフリードはそうのたまった。あたしはただ手を引かれるまま、歩き出した。払い除ければ良いのに、そう、この手を振り払って逃げ出せばまだ間に合うんじゃないか。ならば、そうすべきだ。そう思ったけれど、出来なかった。
 裏腹に強く握り締めた手は、悔しいくらい、ピアニストらしく大きくて指の長い手で、男のものだった。


 それから三日後、新白連合の面子に迎えられ、慌しくジークは向こうに発った。新島が旗を振らせるのが恥ずかしくて、見ていられなかった。
 そして、あたしは飽きず繰り返し一つの曲を聴いている。
 ちらちらと月明かりが照らすような、情熱的で、悲しさを帯びていて、どこかあの夜を思わせるピアノソナタ――『月光』。
 ベートーヴェンは年下の恋人ジュリエッタ・グイチャルディにこの曲を贈ったらしい。CDを借りたときに、無駄に雑学の豊富な坊やが得意そうに説明してくれた。
 ジュリエッタ。シントラーという研究家が、ベートーヴェンの不滅の恋人と称した少女。
 あたしは目を固く瞑って、気がつかない振りで月光を耳にする。












「ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」
「月光」という標題は、ベートーヴェンの死後、1832年に
ルートヴィヒ・レルシュタープが第1楽章について、こうコメントしたことに由来する。
BGM : ワーグナー『ニーベルンゲンの指輪』・ベートーヴェン『月光』
初掲載 2008年1月5日