良い天気だ。秋の涼やかな空気の中、太陽の日差しが肌を熱してくる。これならば、洗濯物も良く乾くことだろう。幸村は物干し竿に布団を引っ掛けた後、隣に並べて洗濯物も干した。しわだらけになってしまったワイシャツも、床に丸まって落ちていたTシャツも、下着も、これにて一件落着だ。
幸村は僅かに頬を緩めて、ベランダにサンダルを脱ぎ捨てた。いつからか、洗濯物を干すのは幸村の担当になった。その間に、政宗が手際良く朝食を作っている。何とも幸福な週末形態だ。
最初は及び腰で泣きじゃくってばかりいた政宗も、最近では、幸村が誘っても警戒しなくなった。ここでしか手に入らないスイーツやゲームを餌に誘き寄せているためかとも思ったが、どうも、嬉しいことに違うらしい。政宗は明らかに、この奇妙な事態を受け入れているようだった。警戒心を持たぬさまが、幸村に言わせれば、ひどく甘い。甘すぎる。あの迂闊さで良くぞ戦乱を生き抜けたものだと心配にもなるが、それ以上に、その甘さに惹かれ、恩恵を受けている身である幸村には、その政宗の甘さが愛おしかった。
夏祭りの晩、下戸ゆえ酔い潰れてしまった義父は、幸村と政宗が出かけている最中義母にこっぴどくやっつけられたらしく、自らは飲まず幸村に酒を勧めるようになった。そうして酒を些か過ごした幸村が、義父に命じられマンションまで送りにやって来た政宗に、あからさまに行為を匂わす失言をしても、政宗は呆れたように幸村を一瞥するだけで、逃げようとすることはなかった。玄関先で掴んで引き寄せた手首が、まるで早鐘のように脈打っていたから、決して事態に慣れたわけではないのだ。キスをする瞬間、ぎゅっと瞑られて震える長い睫毛や眉間に寄せられたしわの、何と愛らしいことか。思わず低く笑い声を漏らす幸村の様子に、笑われたことを悟ると、政宗は毎回眦に朱を走らせて憤る。幸村はそんな政宗の暴言を吐く唇を奪って、玄関扉に背中を押し付ける。やがて、苦いと文句を告げる口から、甘い吐息ばかり漏れ出てくる頃には、勝負の行方は定まっている。もっとも、どちらも望む方向は同じなのだ。行き先は一つしかない。ただ、幸村はその一本道に、政宗への逃げ道を与えているだけだ。政宗は脇道を利用したことはないが、それが存在することは、政宗にとってかなりの精神的補助となるらしい。結果が同じならば、幸村は政宗のために少し手間隙をかけたところで損をすることはないので、喜んで幇助している。
昨夜は、絶え間なく降るキスの雨に痺れを切らしたのか、もはや一人では立っていられぬほど腰のくだけた政宗が、ぎゅっと掴んでいた幸村の二の腕から手を移動させ、首へと腕を絡めて先を強請った。初めてのことだった。政宗のスタンスは、常に、罠にはめられて他に逃げ場もないから仕方なく、というものであったので、このような真似をしたことはなかった。そのため、幸村の感動もひとしおだった。思わず立ったまま事に移ろうとする本能を必死に宥めて、お気に入りのお姫様抱っこで、ベッドまで政宗を運びきった己の理性を幸村は褒め称えてやりたい想いで胸がいっぱいだった。昨今良く耳にする「つんでれ」というのは、おそらく、政宗のことを指すに違いない。ベッド限定の、でれ、ではあるが。
幸村がダイニングへ戻ると、丁度、政宗が遅めの朝食をテーブルに並べ終わったところだった。この当たり障りない情景が、新婚らしくてこそばゆい。だらしなく頬を緩めきった幸村を胡散臭そうに見やった後、政宗はマグカップにブラックコーヒーを、グラスに牛乳を注いだ。政宗は前世でもあった身長差が、今生で性別が変わったことで更に広まったことに、内心腹を立てているらしく、躍起になって牛乳を飲んでいる。だが、直向な努力空しく、その栄養は一点に集中しているようだ。政宗が常々邪魔だと厭うているバストだ。
義父の必死の反対により、家でもスポーツブラを着用している政宗は、幸村のマンションでは面倒臭がってブラをつけなかった。違和感もあるし、居心地も悪いのだと言う。しかし、これが結構な目の毒なのだ。政宗がド派手な柄を好むので、幸村も意図してそのようなTシャツを取り揃えたのだが、それを勝手に漁ってきて政宗が着用する。そのことを、政宗に滅法甘い幸村がとやかく言うつもりはない。だが、自分の、明らかにサイズ違いの衣服を愛しいものが身に纏っている姿は、かなりの破壊力があった。繰り返すが、勿論、ノーブラだ。政宗は平時、サイズの合わないスポーツブラでバストを圧迫しているが、実際のところ、それなりのカップだ。グラビアアイドル並である。
昨夜のこともある。政宗は幸村に気を許してきたと見てまず間違いない。そろそろ、次の段階に持ち込んでも大丈夫だろう。
幸村は政宗の相向かいに腰を下ろした後、予てから気にかかっていた案件に取り掛かった。
「政宗殿、大変申し上げにくいのですが…もう少し、今生では女性だという自覚をお持ちになりませんか。」
「はっ、胸糞悪い。突然、何を言いおる。」
今生では女である事実を突きつけられただけで、今にも噛み付きそうな雰囲気を纏わせる政宗のことだ。こうなることは、幸村も想定のうちだった。散々良いように抱かれておいて今更何を、という呆れが幸村にはないでもないのだが、その事実をわざわざ突きつけて双方嫌な想いをすることはあるまい。幸村は神妙な顔つきで、政宗に提言した。
「政宗殿は、折角の長所を損ねておられます。」
「長所、じゃと?」
「政宗殿は何時如何なるときも、その類稀なる洞察力にて抜け道を探り、欠点を長所に変え、窮地を切り抜けていらっしゃいました。しかし、…僭越ながら言わせていただきますが、政宗殿は女子に生まれ落ちたという一面ばかり気になさって、その側面を見過ごしておられるように思うのです。武士が公家の格好をしたとて、何になりましょう。その逆も然り。彼らを滑稽と笑っておられたのは、当の政宗殿御本人ではありませんか。」
険を帯びていた政宗の目が、面白がる風に眇められた。こうなれば、幸村の勝ちだ。幸村は努めて穏やかな声調で続けた。
「この幸村、女子だからこそ得られる賛美や娯楽も、多くあると思うのです。」
幸村が政宗を連れてきたのは、誰しも一度は聞いたことがあるような高級ブランドランジェリーショップだった。幸村に唆されてショッピングにやって来たものの、早くも、政宗は及び腰である。いかにも高級な外観や、売り物がそうさせるのだろう。とはいえ、居心地の悪い思いをするのは、政宗ばかりではない。今にも背を向けて敵前逃亡しそうな政宗の手を掴むと、幸村は緊張した面持ちで店へ足を踏み入れた。
店の中は、絢爛、の一言だった。オーナーにしてデザイナーである妙齢の女性が、腰に手を当て、矢継ぎ早に部下へ指示を下している。幸村は入店直後に彼女を発見出来たことに、ほっと胸を撫で下ろした。正真正銘男である幸村と、内面は男のままである政宗。二人でいてこれほど居心地の悪い店もないだろう。
「伯母上。」
掴んだ手首が、ぎくりと強張ったのがわかった。幸村も、政宗が前世での知り合いに会いたがっておらぬことは重々承知だ。だが、これをクリア出来なければ、政宗を嫁に迎える幸村の野望が露と消えてしまう。幸村は安堵させるように政宗へ笑いかけた。ここで逃げられては、困る。
「おばっ…!…信繁、今度そう呼んだら、その口縫い合わせるわよ?」
ぎらつくような交じりっ気なしの殺気を滾らせて、現世での伯母が振り向く。途端、己の背の陰に隠れてしまった政宗を可愛いと思いながら、幸村は苦笑をこぼした。
「ひいさま、などと呼ぶのはごめんですよ。」
「私だってごめんだわ。帰蝶と呼んで頂戴。…それに、貴方は、貴方のひいさまを見つけたみたいだしね?ゆ・き・む・ら。」
そう言って、帰蝶――濃姫は面白そうに、現世での甥とその背に隠れている政宗とを交互に見やった。そして、ふと、一人ごちる。
「…小癪な口を塞ぐには、色々ばらすわよ、って脅した方が良さそうね。」
よほど、伯母と呼ばわれることが腹に据えかねていたらしい。幸村は警戒心も顕に、政宗の耳を塞いだ。段階を踏んで、やっとここまでこぎつけたのだ。こんなところで横槍を入れられて、散々、引っ掻き回されては堪らない。
「帰蝶殿。」
固い口調で窘める幸村に、濃姫は含みのある笑みを浮かべた。
「あら、何でもないわ。それより、買い物に来たんでしょう?丁度良いわ。私手ずから、コーディネートしてあげる。」
だが、次の瞬間、濃姫は鬼の如き形相でカップルを睨みつけた。
「リストと紹介状を書いてあげるから、其処を全部回ってきなさい。ヘアカット、メイク用品、衣服、靴。私の作品を身につけておきながら、そんな安っぽい格好なんて、私のプライドが許さないわ。」
元よりそのつもりでここに来たのだと告げたならば、政宗は顔を白くして憤ることだろう。これで幸村は心置きなく、怖い伯母のせいにして、政宗をショッピングに連れ回せるのだ。
幸村は緩みそうになる口端を叱咤して、神妙な面持ちでもっともらしく頷いた。
初掲載 2009年9月12日