玄関にある鏡の前で、おかしくないか点検する。思わず、彼女の口から舌打ちがこぼれた。今日から家庭教師が来ると言うので、母親に制服をまとうよう命じられたのだが、この女物のスカートというやつは股がすうすうしてどうにもいけない。大体、自分には家庭教師など不必要なのだ。実際、その証拠として、彼女は全国でも十指に入る成績を取り続けている。五指、でないのは、日本史の成績が足を引っ張っているせいだが、だからといって彼女がそれを苦に思ったことはない。日本史は決して勉強すまい、と誓ったのは、彼女自身なのだ。
ピンポンとインターフォンが鳴る。母に急かされた彼女は、家庭教師を精神的ストレスであちらから辞めさせる嫌な覚悟を決めると、玄関の扉に手をかけた。
伊達政宗。
それが彼女の現世での名前である。伊達家の嫡子と生まれた彼女は、戦国マニアの父親に「伊達といえば、政宗。」という何ともわかりやすく理不尽な理屈でもって名付けられた。噂で耳にする限り、父は、女児にその名をつけることに、些かの躊躇いも抱かなかったらしい。親戚一同揃って止めたらしいのだが、産んだ母親が止めなかったので、結局この命名で決まったのだとか。
彼女はこの名をつけられたことに感謝している。前世と同一のその名は、すんなり彼女の耳に馴染んだ。彼女は自らの名を違うことなく、受け止めることが出来た。しかし、一方で、大変な迷惑も被っている。せめて違う名であったならば、女としての今生を前世とは別物なのだと捉えることが出来ただろう。結果、彼女は性同一性障害というありがたくもない認識をされて、この17年の歳月を生きてきた。勿論、身だしなみには人一倍煩い政宗である。正装をしろ、と言われれば、スカートも穿きこなす。だが、どうにも女装しているようで気味が悪い。私服着用可の高校を選んだのは、そのような理由からだった。
母が勝手に政宗の家庭教師を申し込んだと判明したのは、昨夜のことである。話を聞いてみると、母の教え子たちの間で、家庭教師に教わっていることが一種のステータスになっているのだとか。母の勤め先は、公立小学校である。教え子は小学生である。それを、高校生の娘で置き換えて考えるってどうなのだ、と、思わず政宗は頭を抱えてしまった。だが、相手は天然で、その上子煩悩だ。政宗も経験上、母親に文句を言ったところで流され、あまりにきつく言おうものならば、涙ぐまれてしまうことを知っている。ぐっと文句を堪えて、悪気はないのだと己を納得させるしかなかった。
それから、一晩。とうとう家庭教師がやって来る日になった。母は近くのケーキ屋でシュークリームを購入し、いそいそと先生に出す差し入れに余念がない。政宗には、母の無邪気な企み「もしかしたら、うちのまーちゃんも、格好良い先生が来たら女の子らしくなるかもしれないわ。」が手に取るようにわかったのだが、敢えてそれを口にしなかったのは、「わかってるなら、頑張ってね。まーちゃん。」と励まされる未来が読めていたからである。
そして、一応学校で指定されている制服をまとって、政宗はチャイムに促されるまま玄関扉を開けた。
一瞬の沈黙。
何も見なかった振りで、政宗が再び扉を閉めようとすると、がっと勢い良く靴が差し込まれた。こういうキャラだったろうか。違和感を覚える政宗の腕は、ふるふると頼りなく震えている。こういうとき、女の身体は不便だ。十センチしか開いていなかった扉が、力ずくで、見る間に隙間を広げていく。
「お久しぶりです、政宗殿。お会いしたかった。」
にっこり笑う男とはおよそ頭一つ分、身長差がある。前世では、三、四寸の差だったはずだ。今生でのその差を苦いものとして見上げながら、政宗は低く呻き声を漏らした。
「……わしは会いとうなかったがな、幸村。」
これでは、今までの苦労が水の泡だ。政宗は長々と溜め息をこぼし、扉から手を離した。力で無理矢理押し開かれるならば、抵抗したところで無駄だ。政宗は、無駄は極力しない主義だった。
「元気そうじゃのう。相変わらずか?」
そう言って、政宗が見上げると、幸村は目を眇めてはにかんだ。
「そう仰る政宗殿も、お元気そうで何よりです。またずいぶん、愛らしくなられましたね。」
「はっ、戯言をほざくでないわ。馬鹿め。」
家の中に入れ、母に挨拶させてから自室へと上げる。その途中、階段を上っているところで、政宗ははたとある事実に気付き、不審げに後背の幸村を一瞥した。
政宗は今生で女に生れ落ちたと、知られたくなかった。前世の知り合いは軒並み、遠ざけてきた。街で見かけても素通りし、極力見咎められないよう、振舞ってきた。前世と今生とでは、男か女か、独眼かそうでないか、それらが顕著な身体的特徴となって現れているため、自分から声でもかけない限りまず間違いなく、あの政宗だとはわからないだろう。そのような打算も多分にあり、実際、その作戦は今まで成功を収めてきていた。
何故、幸村は自分のことを政宗として認識出来たのだろう。玄関を開けたら居た幸村に、政宗が咄嗟に取り繕うことが出来ていなかったとしても、それしきのことで政宗だとわかることはないはずだ。それとも、それは政宗の誤認だったのだろうか。とするならば、作戦の変更を考慮しなければならない。
自室到着から五分後に、母が早々に差し入れを置いて出て行き、ベッドに腰掛けた政宗は手持ち無沙汰に、アイスティーを飲んでいる幸村を見つめた。勉強する気にはなれなかった。前世の知人たちの話を聞く気にもなれなかった。会えないものたちの話など、恋しさが募るだけだ。結局、政宗はいくらか躊躇った末、ベッドに両手をついて身を乗り出した。
「のう、幸村。お主は今までどうしておったのじゃ?今は何をしておる?」
話題に困ったという理由もあったが、それ以上に、本心から幸村の今生の話を聞きたかった。自分同様様々な苦労を負ったのか、様々な幸福を知ったのか。
「私は…、」
そこで言葉を区切り、幸村がにっこりと笑った。心底嬉しそうな、思わず、見たものが感銘を覚えるような笑顔だった。
「私は、政宗殿を探しておりました。本当に…、お会いしたかった。」
初掲載 2009年8月30日