第二話 (文未満)   タイムパラドクス


 半年が過ぎ、九月になった。それまで不穏なほど沈黙を守っていた政宗は、突如、徳川に反旗を翻し、取り囲まれ窮地に陥っていた三成を救出させた。遣わされた黒はばきに三成は不信の色を隠せなかったが、劣勢に立たされた今、藁にも縋る思いで伊達の援助を受け入れた。そうして黒はばきを派遣する一方で、政宗は最上の援軍に向かった長谷堂にて上杉を救援した。その報告を受けた家康は、伊達に因縁の相手である最上の救援に向かわせたことを呪った。家康は知らなかったのである。政宗が裏切ったのはそのような理由からではない。政宗が西に味方したのは、三成に天下を治めさせる、ただそれだけの理由だった。
 長谷堂城で再会した慶次は、遠呂智のことを覚えていた。その事実にあれは決して己の見た胡蝶の夢ではないのだと、喜びと悲しみと空しさを感じつつ、政宗は小さく自嘲の笑みを浮かべた。であれば政宗に、遠呂智に生きる気力を起こさせるだけの力がなかったことも、事実なのである。それがまた苦しかった。
 「なあ、なんで急に豊臣を援けたんだ?」
 静かに戦況を見守る政宗を見下ろし、慶次が問うた。それは敵味方問わず、誰もが抱いた疑問だった。政宗は鼻を鳴らして答えた。
 「わしたちを…遠呂智を破ったのは、あやつじゃ。ならばわしの夢、あやつに托そうかと思う。」
 「空しくなっちまったのかい?」
 「…。」
 押し黙った政宗に、慶次は心中溜め息を吐いた。
 「自暴自棄になったって、遠呂智は、喜びゃしないぜ。」
 応えず、政宗は無言で立ち去った。遠ざかっていく政宗の背は、重責を負っているとは思えぬほど薄く小さい。そこから、遠呂智を庇った証である傷痕が消えていることを、慶次は薄々察していた。慶次自身、遠呂智の世界で負った怪我が全て消え去っていたためである。結局、遠呂智の存在は政宗と慶次の中にしか残っていない。そのことを思い、慶次は嘆息した。それまで、母の愛を乞う、ただその一心で生きてきた政宗は、あの世界で遠呂智という新たな核を得た。しかしそれを奪われ、慶次以外の誰も、政宗の核を為した遠呂智という存在を知らない。
 「…遠呂智も、もう少しうまくやれなかったのかねえ。」
 慶次は頭を掻きながら、遠呂智が生き延びた仮定の未来を思った。無論慶次は、遠呂智が死を欲してあの世界を作り上げたことは知っていた。遠呂智が死ねばあの世界も消えるであろうことも知っていた。それゆえに慶次は、束の間の夢と遠呂智の味方をしたわけである。しかし。
 楽しい夢の覚めた後は、ただ、辛いだけだ。現実から夢に逃げた者にとっては、尚更。
 慶次の吐いた溜め息は、時を同じくして上がった勝ち鬨の声に紛れて消えた。


 戦は西軍の勝利に終った。秀頼の補佐役として摂政の座に就いた三成は、伊達の動向に困惑していた。利権争いに乗り出してくるかと思いきや、当主の政宗が早々に奥州に引き上げてしまったのである。豊臣政権での地位争いに関しても不干渉を決め込み、ただ、奥州に手を出さぬよう命じ、半年前から仙台に築城する計画を立てていることを告げ立ち去った政宗を、関ヶ原以前政宗のことを利に群がる犬と言って憚らなかった兼続もまるで得体の知れぬものを前にしたような顔つきで見ていた。あまりにも予想外だった。では何のために政宗は、徳川を裏切り豊臣に助太刀したのだろう。裏切り者という汚名を被ってまで行ったそれは、到底、益が見込めるとは思えない。思案した末、三成は伊達の動向を探るよう、幸村を奥州へ派遣することにした。幸村は、秀吉の死後は一切接触を絶っていたものの、それ以前は政宗と仲が良かった。
 訪れた幸村に、政宗は、覇権争いについてどうでも良さそうに答えた。些末なことに煩わせるなとでも言いたさそうな態度は、まるで人が変わってしまったようである。これでは兼続の困惑ぶりも無理のないものだと思いながら、幸村も不信感を抱かずにいられなかった。否、それは不信というよりもむしろ不安というべき感情であった。
 「政宗様…大丈夫ですか?」
 思わず発した幸村の問いに、政宗は答えはしなかった。ただ、伊達は不干渉に徹することを告げた。些細な手伝い程度であれば手を貸してやっても良いという言葉と、それを実際文字にした三成宛の書状を持たされ、幸村は用件が済んだなら出て行くよう命じられた。応接間を出て行く間際、幸村は政宗の方を振り返った。政宗はそ知らぬ顔で、ぼんやりと空を見上げていた。放心したような姿に、ちりりと幸村の胸は痛んだ。何があったのだろう。しかし、幸村に問いかけは許されていなかった。やがて夕日の光がゆっくりと差し込み、応接間を朱に染めた。その色は、政宗の求める紅とは異なるものだった。
 それから半年。上杉を離れ一人放浪の旅をしていた慶次は、綱元の派遣した黒はばきの長から、それまで不審なまでに沈黙を守っていた政宗が荒れているという連絡を受けた。政宗が心を許した慶次なら、何とかできるのではないかという打診である。流石の三傑も理由がわからず困惑し、手を焼いている風であるという長の説明に、慶次は奥州へ向かった。
 「まるで…徳川家康公の比喩した人食い虎のような有様で。」
 その表現が気になった。
 三傑は諸手を挙げて慶次の訪問を出迎えた。政宗に関しては、匙を投げざるを得ない有様であるという。三傑をしてそう言わしめる状態を、実際見に向かった慶次も流石に閉口せざるを得なかった。政宗は苛立っていた。そしてそれ以上に、絶望していた。更に、三成に天下を預けた後、最早自分にすべきことはないと襲い掛かった無気力感が拍車をかけていた。身なりは清潔で華麗である。しかし衣服から覗く政宗の腕は折れそうに細く白く、こう言ってしまえばなんだが、華奢なあまり深窓の姫様を見ているような気分だった。食事も満足に取らず、という小十郎の言葉が思い出され思わず顔をしかめる慶次を、ゆるりと政宗は振り返った。覇気の欠片もない顔だった。
 「…。慶次か、よく来たな。」
 「どうしたんだい。片倉さんたちもすごい心配してたぜ?」
 尋ねる慶次に束の間黙し、やがて政宗は唇を開いた。
 「何故…、何故、あやつは何も残さんかった。見よ、この通りじゃ。庇った傷も消えておる。」
 肌蹴られた着物から、傷一つない白い背中が覗いた。まるで名残を惜しむように、政宗はその背を軽く撫ぜ、俯き唇を噛み締めた。目に剣呑な色が浮かんだ。
 「周囲の者は何も覚えておらん!その上、あの世界のもの何ひとつ、残っておらぬ!」
 叫び、胸倉を掴み上げてきた手を、慶次は振り払わなかった。怒りと見紛う悲しみに、我を忘れ殺気を撒き散らす政宗の剣呑すぎる剣幕に、慶次は眉をひそめた。その、胸倉を掴む細腕がただひたすら痛々しかった。政宗の腕はこれほど細く、無力だっただろうか。慶次の知るその腕は、天へと差し伸べられたものだった。何を言うべきかわからなかった。わからぬまま、慶次が口を開く寸前。折り悪く幸村がやって来た。先の政宗の様子と届いた噂に不安を覚え、幸村は再び奥州へやって来たのだ。そうして慶次が先客であるという事で隣室で待っていたのだが、政宗の突然の大声に驚いて様子を覗きに来たのだった。二人の会話に踏み込むのは気が引けたが、小十郎からは、何かあった場合止めてください、と頼まれていた。そして恐る恐る声をかけ、室内を覗いた幸村は、政宗に姿に目を見張った。政宗の年の頃、立場、また当時の常識を鑑みるに、それはありえないことだった。背の半ばまで下ろされた衣から、白い柔肌が覗いている。幸村はそれまで、愚直なまでに戦一筋に生きてきた男である。当然のように思考が停止した。
 「も、申し訳ありませんでした!」
 考えるより先に襖を閉め、幸村は脱兎の如く走り出していた。
 途中、動揺の余り転んだらしく、遠くで大きな音が立った。小さく舌打ちした政宗が、慶次の胸倉から手を離し、苛立ちのまま乱暴な手付きで胸元を掻き合わせた。その様子に、慶次は困って頭を掻いた。心中、どうしたら良いのかわからなかった。たとえいくら付き合いが長いとはいえ、三傑より長いということもない。このような状態の政宗に相対したのは、慶次も初めてだったのである。


 翌日。政宗の見舞いを一日延ばした幸村は、政宗との対面で、前日のこともあり少し目が泳いでいる。一方、政宗はそ知らぬ顔で、用件を尋ねる。口ごもりつつ体調のことを伺う幸村に、政宗は大儀ないと答える。しかし、常の明るさや闊達さの欠片も見えない政宗の返答はとても信じられるものではない。妙に殺気立ち苛立っている政宗は、いつか家康が評した、人食い虎、そのままの姿だ。不穏で、逆撫でしたらどうなるかわかったものではない。伊達三傑ですらもなるべく沈黙を守ろうとしているのは当然のように思われた。そのことをどう言及したものか、むしろ、口にすれば逆鱗に触れてしまうだろうかと思い、幸村が言いあぐねていると、慶次が部屋に訪れる。
 「ちょうど良い機会だ。少しは気晴らしに遊んできな。」
 幸村に政宗のことを任せて、反論する政宗の首根っこを掴んで、部屋から追い出す。政宗がむくれながらも怒らないのは、慶次だから。子供の頃を思い出すのも一因。遠呂智のことを覚えている己以外の唯一である人間であることも一因。しかし、やはり剣呑な目付きでぶつくさ文句を言うのは、不機嫌だから。そんな政宗と共に遊びに行って来いと命じられた幸村は、正直、対応に困る。ちらりと見上げた空からは、今年初めての雪が降り始める。
 それ以降、毎日毎日、部屋に篭ろうとする政宗を慶次が首根っこ掴んで無理矢理室外に追い出し、幸村に任せるようになる。任せられた幸村は、急に積もった雪のため西に帰ることも叶わぬまま、政宗の相手を務める。努めて政宗の機嫌を直そうと頑張るのだけれど、政宗は鬱々としたり苛々したりと手に負えない機嫌のまま。政宗の機嫌のままに翻弄される幸村は、正直、困惑と憔悴で精神的に疲労の色が濃い。しかし、元々想いを寄せていた相手、しかも今までは互いの立場上全然接触できなかった相手といれるので、幸村はそれだけで疲れを忘れられるほど嬉しさを感じる。政宗はそんな幸村が不可解でたまらない。前は好きで共にいたくてたまらなくて、結局、母を選んで殺してしまった相手だったはずなのだけれど、遠呂智を知った今となっては、幸村では色褪せて見えた。心変わりした自分を不思議に思いながら、政宗は必死に自分の相手をしようとする幸村を物好きなものだと評価する。放っておいて欲しくてたまらず、近寄るもの皆傷付けそうになっては傷付けるのが嫌で追い払ってた頃に比べれば、格段の進歩。慶次は沈黙を守り、ただ静かに動静を見てる。
 春先になっても雪は深いまま。幸村は未だ西に帰れぬまま、奥州に滞在している。大分落ち着いてきたとはいえ、政宗は未だ気難しいまま。今日もまた慶次に部屋を追い出され、寒い中、政宗は幸村と共に外出する羽目になった。いつも邸の付近のみ散策していたので、少し遠出してみることにすると、ぽこぽこと雪だるまが大量に出来ている。雪がずっと降っていて溶けないので、雪だるまも毎日増え続けているらしい。作ったのは、子供たち。政宗のお陰であの子供たちも生活できているのだと微笑む幸村に、政宗は数度睫毛を瞬かせる。何故忘れていたのだろう。政宗は子供たちに視線を向け、小さく嘆息する。自分が今までひたすらに走ってきたのは、母を振り向かせたいだけではなかった。自分を信じてくれる部下や民を守るためだった。何故、忘れていたのだろう。
 「あ、雪が止みましたね。」
 幸村の言葉に天を仰ぐと、降り続けていた雪はようやく止み、雲間から青空が覗いていた。
 翌日から政宗は執務に精を出すようになる。この一年ほど、政宗に代わって伊達三傑が仕事を執り行っていたので、三傑は政宗の態度の変化に喜ぶ。我武者羅に城や町や区画を整備し、民を慮る政宗の様子に少しの不安を抱えつつも、幸村は雪が止んだので西に帰る。五月、奥州に遅い桜の季節がやって来る。










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初掲載 2007年8月