それまでの半生、政宗は母に認められたい一心で生きてきた。その一心で伊達を盛り立て、そのために大阪夏の陣で、互いに想いを寄せ合っていた幸村を手にかけた。自らの手によってなされたその永遠の決別は政宗の心に強い後悔として残ったが、政宗には伊達当主として仙台を築き、整備していく義務があった。喪失によって生まれた虚無感は隠し切れるものではなかった。それは絶えず、政宗の心の中に巣食い、息衝いていた。しかし、政宗は無理矢理その感情を押し殺し、生き続けた。それしか政宗に出来る術はなかったためであった。
だがある日、空が赤く染まった。それは魔王遠呂智によって生み出された世界であった。そうして政宗は、突如、自らが手にかけた幸村と再会を果たすことになる。殺したいとおしむ男が、生きて、目の前にいる。しかし政宗はその、紅蓮の意志に燃える幸村の瞳を覗き込むことが出来ず、逃げた。幸村との再開という衝撃に耐え切れず、また伊達を生き延びさせるため、政宗は遠呂智軍に付くことを決定したのだった。無論、その決断には伊達家臣内でも賛否両論意見が出た。主の決定に従う者、あくまで義の道を貫く者。だが結局は家臣皆政宗に従ったのは、それだけ、皆が政宗を愛していたからだった。政宗はその家臣たちの思いやりに対して、すまなく思わないではなかった。これは己の勝手な感情から決めた大事である。しかし政宗はそう思いながらも、口を閉ざし、その想いを打ち明けることはなかった。反対されるのが怖かったのかもしれない。
幸村と相対するのが嫌で、そして母に認められたい一心で伊達の存続を図り遠呂智軍に付いた政宗は、やがて絶対的で揺ぎ無い遠呂智に強く惹かれる。それは政宗にとって、必然にも等しい現象だった。周囲に翻弄され、周囲の反応を窺い、そうやって生きてきた政宗とは正反対の遠呂智。揺らぐことを知ることが出来ぬ代わりに、揺らがずそこにあり続ける遠呂智の存在は、政宗の心を強く打った。幸村や慶次に抱いた感慨とは違った。神に接する無力な人間のような心境であった。一方、揺らぎ続け惑い続ける政宗に、遠呂智も興味を抱くに至る。人間としては強かであると形容される政宗。その小さな身体の何処にそのような力が漲っているのか、そのような大きな絶望が眠っているのか、何故家臣たちは政宗に希望を見出すのか。その矛盾に惹かれ、遠呂智は破格といっても差し支えないほどの厚遇を政宗に対して与えた。政宗はその信に応えようと、ますます遠呂智に惹かれていくのだった。その関係に、慶次は内心眉をひそめた。僅かばかりの興味と、それ以上の、打ち消せぬ不安。慶次は遠呂智が死を望んでいることを知っていた。死を望み、自らを討ち取ってくれる強者を求め、この世界を作り上げたことを知っていた。その最たる強者として、呂布はあれほどまでに厚遇されているのである。当然、政宗もそれを知っているはずであった。政宗では変えようもない程の死への願望を、既に遠呂智は抱いていたのである。遠呂智が死んだ後、はたして政宗はどうするのだろう。思って、慶次は更に不安を募らせるのだった。
この世界にやってきて、二年余りが過ぎた。離反した呉との間で行われた赤壁の戦いで、政宗は遠呂智を庇って背に重傷を負うこととなった。無論、それは遠呂智にしてみれば庇われるに値しない怪我であった。政宗もそのことを重々承知していた。しかし承知しながらも庇い立てした政宗に、遠呂智は首を傾げずにはいられなかった。妖の王たる遠呂智は、揺らぐことがない普遍の存在であるゆえに、人間の心の機微など察することは出来なかった。
「人間とはそういう衝動に襲われることがあるんですよ。」
肩を竦めながら、妲妃は尋ねた遠呂智にそう答えた。遠呂智にはわからなかった。遠呂智が強い衝動を抱いたことなど、かつて一度もなかった。衝動とは、その衝動に走らせる感情とは何なのか。だが、当然のように、政宗は黙して語らなかった。
意識を回復したという知らせを受け、遠呂智が政宗の元に向かうと、政宗は床から窓の外を見ていた。覗き込まれた空は紅く、血の色に染まっていた。強く香る軟膏に紛れながらも、微かに鼻をつく血の臭いに、遠呂智は赤壁で流された政宗の血を思った。幾重にも厚く巻かれた包帯の下に、刀傷と火傷の跡が隠されているのである。それは火に滾る刀を、政宗が背に受けたためだった。ふと、遠呂智はあの日の、焦げた肉の香りが鼻先を掠めた気がした。
「何故空を見ている。」
遠呂智の問いに政宗は目線だけで、遠呂智を見やった。
「この世界には雪がないのかと思うてな。」
「恋しいのか。」
「まさか。あのような国を閉ざし、死者を出すもの。ない方が良いわ。」
遠呂智は解せなかった。そのように言いながらも、政宗は雪が降らないことを哀しんでいるようだった。人間の表面と内面が必ずしも一致しないことは、絶えず遠呂智の興味を掻き立ててきた。妖にはそのようなことはない。妖は己の欲望に忠実であり、ゆえに、弱肉強食の原理がそのまま適応される生き物であった。遠呂智が魔王と傅かれるのには、それだけの、力と恐怖とが背景にはあった。
政宗の矛盾する発言に、遠呂智は更に政宗に対して興味と疑問を覚えた。同様に、憎みながら愛したり、求めたり。未だ短い期間だが、政宗はそのようなことが多かった。呂布は考えが妖に近く、慶次も己の享楽を第一に考えている節がある。他の強者たちも、己の信念に忠実である。遠呂智の接する人間の中で、一番、政宗が複雑怪奇な人格だった。遠呂智はこれほどまでに揺らぎ続ける人間を知らなかった。
「我の力で降らせてやろうか。お前の好きなときに、好きな場所へ。」
しかし、政宗は窓の外を見詰めたまま、遠呂智の方を振り返らない。政宗が答えぬので、遠呂智は疑問を抱いたものの、人間の心をどうしても理解できない妖の性ゆえに、答えは得ることはなかった。ただ小さな背に刻まれた広範囲に広がる傷が、消えれば良いと思った。無論、政宗はそのようなことを望まないだろう。遠呂智も、政宗の意に添わぬようなことは極力したくはなかった。遠呂智は黙って、空を仰いだ。結局、政宗の背から傷痕が消え去ることはなかった。
ようやく医師から出陣の許可が下りた政宗は、復帰を告げるため遠呂智の下へ会いに行った。遠呂智は、古志城の大広間で詰まらなさそうに頬杖を付き、何かを待つように瞼を閉ざして居た。
「遠呂智、」
「…政宗か。」
薄暗い部屋の中、爛と遠呂智の瞳が光った。
「治った。わしも次から戦に出る。」
「そうか。」
呟き、再び瞼を閉ざしかけた遠呂智であったが、ふと思い立ったように「あれを、」と告げた。示された指の先には、大きな箱が安置されていた。政宗が傍に居た折にはなかったはずの箱である。いぶかしみ遠呂智を見やる政宗に、遠呂智は言った。
「お前への褒賞だ。先の戦ではよくやってくれた。」
そのような褒賞が伊達ではなく政宗個人に贈られたことは、初めてのことだった。政宗は不信を募らせ、箱の蓋へと手をかけた。中には、華美な衣類や宝玉などが所狭しと詰められていた。掠奪品ではない。妲妃の進言により慎むこともままあるが、遠呂智は全てを焼き払い、薙ぎ払う。何より、そのように華美な衣類を身にまとう女など、敵方には無きに等しかった。慣れぬ大陸の衣服に、政宗は不信そうに遠呂智を見やった。さらりとした絹の手触りが、更に強く不信感を煽った。
「何じゃ、これは。」
努めて意識して出した声は、思いの外平淡だった。もう少しくらい怒りを滲ませて良かったのかもしれない。心中政宗はそう思った。
「女はそういうものを好むのだと妲妃が言っていた。」
「あれとわしを一緒にするでない。あやつは男を誑かして国を傾けたことで有名な悪女ではないか。」
政宗は不満そうに贈物を床へ放り捨て、部屋から立ち去った。遠呂智に対して失望こそしなかったが、呆れの色は無視できないほどに濃かった。馬鹿馬鹿しい、そう思った。残された遠呂智は床に投げ捨てられた贈物を眺め、ひそりと柱の影に溶け込むようにして立っていた妲妃へと、頬杖を付きながら言った。
「あれはおかしな人間だ。我にはわからない。」
玉が床を転がっていく。妲妃はそれを摘み上げ、瑕がないか光に翳し確認しながら答えた。
「人間なんてどれもそんなものですよ。単純で複雑で、脆いくせに強い。政宗さんは人よりちょっと、その特性が突出してるだけです。遠呂智様にはわからないでしょうけど。」
「何故そう思う?」
「だって、遠呂智様はわからないでしょう?人間の心なんて。でもそれは、遠呂智様に人間と共に在る選択肢が最初から与えられなかっただけの話で、遠呂智様のせいなんかじゃありませんけど。妖は、大抵そういうものです。」
「妲妃よ、お前はどうなのだ。」
妖でありながら軍師を気取り、人間の心を惑わし続ける妲妃である。人間の心の機微を知らなければ、知恵で人間を翻弄することなど出来はしない。目を眇め問う遠呂智に対し、妲妃は玉を握り締めた。
「私は違います。私はね、遠呂智様。そう願えば人間の味方であることもできたんですよ。でも、私はその道を選ばなかった。だって、妖なんてそんなものでしょう?それに、人に傷付けられるより自分で傷付く方が、憎しみも哀しみもなくて楽なんですもの。」
手の中の玉は小さく、妖の力を持ってすれば握りつぶせてしまうほど脆い。妲妃は、人間とはそのようなものだと思っている。玉石混合ではあるが、磨けば光る者もいる。ただし、瑕付いてしまえば終わりだ。内に抱いていた強い光は失われ、乱反射して拡散する。濁り、かつての輝きなど臨むべくもない。
手の内で玉を弄びつつ、妲妃は花のような笑みをこぼし、政宗が消えた方に視線を向けた。現在の政宗は瑕付いた玉なのだ。あれは一際大きな瑕が一つあるだけだからこそ、かえって痛々しく、また周囲を未だ惑わせるのだ。光り輝く玉なのではないかと。そうして引き込まれ、内に付いた大きな亀裂に気付いたときにはもう遅い。魅せられ逃げられなくなっている。
もう一度深くあの子が瑕付いたとき、周囲はどんな反応をするのかしら。思って、妲妃は微かに口端を歪めた。
「政宗さんも一緒ですよ。女として生きる選択肢がなかったから、今更、それを与えられても戸惑うだけ。傷付けられることが怖いから、自分から傷付いてる。」
ふと脳裏に、主に命じられ初めて騙した男の姿が思い浮かび、妲妃は自嘲気味に嗤った。
「ただそれだけの話なんですよ。馬鹿みたい。」
誰にも言わない。だが、あれは唯一、妲妃が愛した男であった。そして、それに恐れを抱き、妲妃が初めて逃げ出した男でもあった。
半年後、魏によって遠呂智は討たれることになる。遠呂智が待ち望んでいた最期は、存外呆気ないものであり、また凄惨なものでもあった。その訃報を耳にした政宗は、狂乱したかのようだった。時間稼ぎに宛がわれた兵を薙ぎ払い、撃ち払い、政宗は遠呂智の元へ走った。徒歩によって馬から落とされた際、足を折っていたが、その怪我も衝動の前には何の歯止めにもならなかった。政宗は見かける兵を尽く殺め、ひたすらに走った。跡には死体の轍が出来ていた。疲労困憊ながらも討ち死にする覚悟で死体の山を築き上げた政宗の我を忘れた様子に、政宗同様生き残ってしまった慶次は、眉根を寄せて得物を振りかぶった。衝撃が政宗を襲った。意識を失う寸前、政宗は慶次の悲痛な顔を辛うじて認識した。何故そのような表情をするのか、政宗にはわからなかった。返り血が隻眼に入り込み、世界が紅く染まった。
次に起きたとき、政宗は暗い部屋にいた。魏に捕虜として捕らえられていたのである。何故生きているのだろう、と政宗は暗い室内を見回し思った。遠呂智と共に死んだ方が楽だった。何故、生きてしまっているのだろう。炯々と目を光らせ、憎々しげに入り口を睨みつけた政宗の姿はまるで飢えた虎のようだった。
以降、何度も自害を計り見張りが付けられた政宗は、三成によって、慶次が懇願したため自身が生存していることを知った。政宗は多くの将兵を殺めたが、三成も以前の世界で交流のあった慶次の願いを無碍にもできず、このようにして人知れず生かしているらしい。はたして、魏の大将である曹丕はそれをどのように思っているのか。知れたら大事ではないのか。政宗は悪し様に言い、三成を激昂させ死のうと思ったが駄目だった。三成はそのような政宗の態度を鼻で嗤い、「無駄だ。」と告げた。
「そのような安い挑発、誰にしたところで効かぬだろうよ。頭に血が上りすぎているな。もう少し、頭を冷やしたらどうだ。とても、俺が煮え湯を呑まされ続けたお前の言動とは思えん。」
そして三成は部屋を立ち去り、再び室内に沈黙が満ちた頃。どのようにして侵入したのか、軽やかな足取りで妲妃がやって来た。久しぶりに政宗が目にした月明かりに、照らされた妲妃は此の世の者ではないかのようだった。
「遠呂智様は死ぬなって言ったのよ。忘れたの、政宗さん?」
凍えるような冷たい口調で、妲妃は政宗の舌を噛まぬよう付けられた猿轡を解いた。乱暴な仕草に、数度咳き込んでから、政宗は声を絞り出した。
「…、わしは聞いてない。」
「何言ってるの。遠呂智様が死にたがってたのなんて、最初っから、わかってた話じゃない。何をそんな、傷付いてるのよ。しかも慶次さんが折角助けてくれたのに、まだ死のうとするだなんて。」
「うるさい!黙れっ!」
「政宗さん。」
本当はわかっていたが、認めたくなかった。遠呂智の願いは自身の死、絶対の終わり、ただそれだけであった。対して、政宗は死ぬことを許されなかった。政宗には遠呂智の後を追うことすら、許されていなかった。それを正しく理解していたのは、遠呂智に盲目であった政宗ではなく、少し離れた場所から遠呂智の紡ぐ夢を見ていた慶次だった。目を閉ざし俯く政宗に、言い聞かせるよう妲妃が続けた。
「人は移ろうもの。だからこそ、私たちは誘蛾灯に引き付けられる蛾のように惹かれて傷付く。そして、だからこそ、私たちは神話の世界でしか生きられない。人間とある世界なんて、最初からどだい無理だったのよ。人の記憶は不確かで、留まることがないから。政宗さんもいつか、きっと、そのことを思い知るでしょ。」
そこでいったん区切り、妲妃は政宗の左目跡を眼帯上から優しく撫ぜた。ちりりと失った左目に痛みが走った。幻痛など、感じたのは久方ぶりのことだった。それは遠呂智に出会ってから、忘れていた痛みだった。
「遠呂智様のことを忘れないであげてね。それができるのは、遠呂智様のことを心底愛した、政宗さんと慶次さんしかいないんだから。」
小さく微笑い、妲妃はひらりと手を振ると踵を返し、扉へ向かった。扉の前で立ち止まり、一瞬、政宗を振り返った妲妃の顔は逆光で知ることは出来なかった。
「じゃあね。」
扉が静かに音を立てて、閉じた。
同時に、視界が黒く染まった。
微かな布ずれの音。鼻を掠める墨の臭いに、白檀の柔らかい香り。暗室の土臭さも空虚さも、何処にも感じ取れなかった。ふるりと睫毛が僅かに震えた。強く襲いかかる違和感。政宗が瞼を開けると、そこは見覚えのある場所だった。今はなき岩手沢城の執務室である。目の前には硯や筆といった、執務の道具一式が並べられている。政宗は睫毛を瞬かせ、立ち上がり、障子を開けた。外は白雲から雪が舞い降りている。
それは紅い空ではなかった。
「小十郎…、」
声は僅かに震えているようでもあり、またかえって平坦すぎるようでもあった。突然の主の気配の変化に、控えていた小十郎は僅かに眉根を寄せた。解せなかった。何故、政宗は絶望したかのように空を見上げているのだろう。
「今は、何年だ。慶長か、元和か。」
元和などという年号、耳にしたことはない。内心不安を募らせながら、小十郎は努めて平静に答えた。
「今は慶長五年三月七日にございます。」
その返答に、政宗は強い眩暈を感じた。関ヶ原の戦いが行われる、半年前の日付である。顔を歪め俯く主に、堪らず、小十郎が安否を尋ねた。
「…大儀ない。」
指で抑えつけた眦からぽたりと涙が零れ落ち、政宗は己が泣いていることを悟った。涙など、幸村を殺めて以来のことだった。政宗は鼻を啜り、言った。
「長い夢を、見ていた。」
叶わぬ夢だと知りながら、永遠を願った夢であった。
初掲載 2007年8月