誰かと肌を合わせるとき以外布団で寝るものではない、と、政宗やその従兄弟である成実が師事する虎哉禅師は口煩く言った。それは、戦乱の世に生れ落ちた武将たるもの、眠りに就くときであっても緊張感を抱いて然るべきである、という教えであるものと思い込み、長らくその指示に従ってきたのだが、成る程、師匠が言っていたのはこういうわけであったか。
政宗は今更ながらに師匠の教えの裏側に気付き、夢現に長嘆した。これは、布団で横にならねばやってられない。全身を隈なく支配する疲労に、身を起こすのも億劫だ。節々が反乱を起こしたかの如く痛む。腰や足の付け根など、況や、である。そのとき、ふとある疑問を覚えた政宗は、半刻前まで関平の居た辺りを一瞥して、首を捻った。それとも、男は違うのだろうか。どうも不勉強で分からない。だが、今の政宗は逃げ去る気力すら湧きそうにないほど疲弊している。それだけは事実だ。だが、何時までも寝ていて良いわけでもないと判断して、寝台でまどろんでいた政宗は上半身を起こすと、一つ伸びをした。全く、慣れないことはするものではない。さらりとした感触をさせて、素肌の上に掛けられた白布がずり落ちる。生来の気遣いを発揮して、逃げ去った関平が掛けていったのだろう。お優しいことだ。しかし、そんな彼に対して、身を通じた女子を一人置き去りにするものではないと、どうして誰も教えられなかったのか。あるいは、と政宗は敷布団を汚す赤を見て、苦笑いを浮かべた。自身の為したことを直視することを恐れてか。
「馬鹿め、逃げられると思うてか。」
未だ内股もしとどに濡れている。疾うに冷め切った湯船で洗い流そうと思い寝台から立ち上がった政宗は、顔をしかめ押し黙った。貧血を起こしたらしく、強い眩暈がする。原因は明白なのだがどうも腰の座りが悪く、足の付け根にも違和感を禁じえない。今日は、急ぎの執務があったろうか。政宗は逡巡した末、溜め息を溢すと寝台へ逆戻りした。仮にあったとしても星彩が巧くやるであろう、という信頼があった。体はそれから洗えば良い。
政宗が星彩と賭けをしたのは、一月前のことである。
星彩は趙雲を長らく恋い慕っていたが、親同士の取り決めた婚姻ゆえ、想いを告げることあたわなかった。星彩も浅はかではない。己の片恋を押し付けて、劉家に長らく仕える趙雲に居心地の悪い思いをさせたくなかったのだ。同時に、想いを告げることで、趙雲に距離を置かれてしまうことが怖かった。そのため、星彩は諸感情を鉄面皮に押し込めて、冷たい口調で誤魔化して、恋心を閉ざした。だが、政宗は目敏くその心情を読み取り、思うまま指摘した。惨い所業とはわかっていたが、どうしても口を挟まずにおれなかった。政宗もまた、負う責務ゆえ、女子としての生を捨てざるを得なかったせいだ。責務に翻弄される星彩の姿に、己を重ねずにいられなかった。しかし、星彩からしてみれば、政宗の節介は大きなお世話と言うものだ。それゆえ二人の間では口喧嘩が絶えず、修練場で鍛錬と称して取っ組み合いの喧嘩をすることも間々あった。それが次第に情を交えていき、戦友という形に収まったのは何時のことか。或る日、ぽつりと星彩が漏らした。
「受け入れてもらえなくても良い。それでも、やっぱり、私は趙雲殿に想いを伝えたい。」
渡し回廊で立ち止まり、鍛錬場へ向けられた星彩の眼差しは、兵士に稽古をつける趙雲へ直向に注がれている。木々を介して青く染まった陽光を受ける星彩の横顔は、恋に胸焦がす女のそれだ。一瞬、政宗は返答に詰まった。果たして、星彩は答えを求めているのだろうか。
「政宗はどうなの、あったかもしれない可能性に賭けてみたくないの?」
星彩が趙雲から目を離し、政宗を見つめてくる。
あったかもしれない未来なんて、私は要らない。私は、今ある道を生きていく。そう言って、誰よりも仮定を拒む現実主義者の星彩が、限りある可能性を目の前に並べられて信念を曲げた。途方もない、限りない可能性など夢幻でしかない。手を伸ばせば届くか、否か。際どければ際どいほど、可能性というものは何故か胸焦がすのだ。政宗は口を引き結んだ。あれほど慎重な星彩が博打するなど、滅多に見られるものではない。其の覚悟は、他者が邪魔して良いものではないだろう。そして、共犯という形であるが、その腹をくくった星彩に政宗は助力を乞われているのだ。
「わしは…、」
ごくりと湧いた唾を飲み込み、政宗は真っ向から星彩を見つめ返した。否やはなかった。
星彩の願いは、趙雲に想いを告げることである。報われなくとも良い、ただ、子供ではなく女として接してもらいたい。見てもらいたい。認めてもらいたい。一方、政宗の願いは、子を孕むことであった。誰の子でも良い、ただ、なるべくならば実直なもののふの子が良い。母として、きっと己の幼少期の分も愛情を注いでみせよう。軽薄な政宗の願いに、一途に一人の男を慕い続ける星彩は眉をひそめて不理解を顕にしたが、止めはしなかった。誘う候補が幸村であったからだろう。星彩が趙雲に良く似た気質の幸村を買っており、それゆえ邪魔されないことを承知の上で、政宗も候補を幸村に絞ったのだ。
だが、あれから一月経った今日。露払いのため流布させた己と星彩が出来ているという噂を信じたらしい関平が、政宗の房に駆け込んできた。政宗が女子として幸村を誘惑しようとした初日のことだった。飛んで来た夏の虫は、葱を背負っていたとでも言うべきか。生真面目そうな態度、すぐ熱情に流されそうな若さ、戦場に馳せる武勇。どれを取っても、合格点だった。政宗は関平とも同年として付き合いがあったので、彼が星彩に想いを寄せていることも知っていた。星彩の恋の成就を補佐するのにも、丁度良い。だから、幸村から急遽矛先を変えて、抱いた。抱かれた。単純な理屈である。
それが今更ながら後悔となって胸に去来するのは、あまりに事の最中、関平が熱の篭った眼差しで政宗を見つめていたためだろう。状況に流されたのか、熱に浮かされたのか。雰囲気に呑まれるなど、愚かでしかない。だが、戦場にあっては窘めるべき欠点が此処で、政宗の心を貫いた。
「かような顔、反則であろう。」
再び眠りにまどろみながら、政宗は唇を噛み締めた。青く、猪突猛進で、それゆえ取り繕う芸当を知らない関平の情動に流された顔が忘れられない。しかし、政宗は結局、関平が土壇場で逃げなかったのは、生理的な問題であることを承知している。何故ならば、政宗は関平が星彩を恋うていることを知った上での行為だったからだ。歪む顔を手で覆い隠し、政宗は脳裏から消え去らない影に呻いた。策士策に溺れる、とはこのことか。政宗は失念していた。誰よりも愛情に飢え、愛情に弱い、それが表面を取り繕う己の本質であった。だから、関平の心が星彩にあることをわかっているのに、惹きつけられる。わかっていたのに、惹きつけられてしまった。
「…馬鹿め、今更逃げられぬのはわしも同じじゃ。」
政宗は強く目を瞑り、誘う眠りに身を委ねた。無理矢理体を繋げておいて、勝手を言っているとは重々承知だ。だが、どうせ逃げ去るならば、残り香も記憶も何もかも関平は持ち去ってくれれば良かったのだ。そうすれば、これほど悔いることもなかった。
初掲載 2009年8月17日