いちごまるごと 第三話


 その日、政宗と星彩は在りし日のように渡し回廊から鍛錬場を眺めていた。星彩の眼差しは面白がる風に眇められ、我武者羅に身体を動かしている関平へと向けられている。関平が何を思って、あるいは何を気に留めまいとして鍛錬に走っているのかなど、星彩にも政宗にも手に取るようにわかった。大方、一昨日、政宗と寝てしまった件についてだろう。関平の誠意が星彩へ注がれていることを知っている政宗は、些か憮然とした様子で柱に身を預けた。
 「何を拗ねてるのよ。」
 「…拗ねてなどおらん。」
 隣で星彩が溜め息を溢した。くすぐったそうな笑いの気配と物言いたげな様子に、政宗が視線だけで先を促す。
 「生真面目だって承知した上で関平を選んだのは、政宗よ。」
 星彩の目が、渡し廊下の向こう側から来るものたちの姿を捉えた。途端、稚気を宿らせた眼差しを怪訝に思い、横目に一瞥投げかけた政宗も、書簡を手に談話している趙雲と姜維の存在に気づいた。星彩が第三者の到来に気付いていない素振りで、先ほどの台詞の続きを口にするべく唇を開く。一瞬、政宗は慄く唇に躊躇いを見て取ったが、腹をくくった様子で星彩は爆弾を投下した。
 「責任を取って、結婚して。傷ものにしたのは、政宗よ。」
 ばさりと書簡の落ちる音がした。趙雲と姜維が激しく動揺した風に固まって立ち尽くしている。政宗が故意に広めたあの噂を聞き及んでいたのだろう。政宗は二人から見えぬよう僅かに口端を吊り上げて笑うと、星彩の腕を掴み引き寄せた。咄嗟に対応できず身体の均衡を失する星彩が、政宗の腕の中へと倒れこんでくる。
 「貸し一つじゃな。」
 趙雲たちからは、若い恋人たちが口付けているように見えるだろう。種は蒔いた。この後どう調理出来るか、それは星彩の手腕次第だ。戦友の茶気を違わず読み取り、その犯行を手伝い、悪戯っぽく笑う政宗に星彩がしれっと答えた。
 「嘘言わないで、これで帳消しよ。だって、一昨日の借りを返してもらっただけだもの。」
 とうとう堪えきれず低く笑い声を漏らすと、政宗は身を翻し、渡し回廊の柵を飛び越えた。向かう先は、関平のいる鍛錬場だ。星彩の言うとおりであれば、良し。そうでなければ、と政宗は込み上げる苦さを押し退けるよう、無理矢理笑った。
 そうでなければ、この身は破滅だ。


 鍛錬場では、関平が孫市相手に手合わせをしていた。たまたま鍛錬場に居合わせただけなのだろう。お世辞にも、孫市の態度は熱心とは言えない。そもそもが接近戦に不向きな孫市は、政宗の到来に目を輝かせた。
 「おっ、丁度良いとこに来たな。どうせ暇だろ?関平の相手していけよ。」
 顎で示された関平が、孫市の呼びかけた相手を確認すべく肩で息つきながら後背を仰いだ。途端、強張る身体が顕著に関平の心のうちを表している。挑発的な視線を向ける政宗と身の置き場に困った様子で目を泳がせる関平の態度をいぶかしんだらしく、孫市が怪訝そうに首を傾げた。元々敏い男だ。一瞬で一昨日の件に思い至っただろうが、敢えてそれには触れず、口端を緩めた。
 「じゃ、後は政宗とやれよ。俺もう帰るわ。」
 関平の縋る眼差しに気付かぬ素振りで、孫市が踵を返した。脇を通り過ぎる際、頭を軽く叩かれた政宗はそれが上手くやれよと言われたようで、微かに苦笑を溢す。確かに、それが神であれ友であれ、今は誰かの祈りが必要だ。
 孫市の気配が完全に遠ざかる。政宗は腕を組み、わざとらしく嘆息した。
 「二日も猶予をやったのじゃ。そろそろ逃げ回るのにも飽いた頃であろう。どうするか、決めたか?」
 「せ、拙者は…。」
 動揺を隠そうともせず、関平が続きを失する。政宗も無理に促すでもなく、気長に先を待った。一秒、二秒。その時間をやけに長く感じた。
 きっかり三秒間を置いて、関平が唾を呑んだ。意を決して、覚悟を口にする。
 「…拙者は、他に好きなひとがいる。そんな気持ちのままで政宗と、…その…する、のは、そのひとにも政宗にも不義だと思う。」
 「……つまり、わしを傷ものにした責任は取らないと?」
 感情の読めない目で低く呟く政宗に、関平が土下座せんばかりに頭を下げる。
 「す、すまない、政宗っ!別にお前を嫌いなわけではないしむしろ好きな方だが、しかし、それでも拙者は自分にもお前にも不貞を働きたくないのだ!」
 一秒、二秒。先ほどよりも重苦しい沈黙が、二人の間に横たわった。千秋にも感じられる長い三秒の後、政宗が溜め息混じりに関平の肩に手を置き、面を上げさせた。そもそも、政宗が無理矢理関平を押し倒し喰らったのが始まりである。常識的に考えれば、咎められるべきは政宗の方だろう。
 促され、恐る恐る顔を上げた関平に、政宗がにっこり花のように微笑んだ。
 「とりあえず一発殴らせよ。」


 先ほど見た光景に関してどう切り出したものか、互いに目で相談している趙雲と姜維を傍目に、渡り回廊から鍛錬場を眺めていた星彩は頬を緩めた。その様子を不思議に思い、視線の先を窺った姜維が沈鬱そうに瞑目する。思い切り殴り飛ばされた関平を見て、関平が星彩に想いを寄せていることや一昨日粟を食って駆け込んで来たことを思い出し、流れる噂の真偽を誤認したのだろう。その目が早くも、劉禅にどのように真実を伝えるか、策士のそれになっている。傷物の娘を国主に宛がいたがる臣などおらぬし、そうでなくとも、姜維は星彩に好意を寄せており、その意思を尊重している。双方の思惑からして意に副わぬ婚姻を、まとめるはずがない。
 最早、こうなれば姜維は味方だ。星彩は微かな笑みを湛えたまま、趙雲を振り仰いだ。
 「丁度良い機会だわ。趙雲殿、話があるの。」
 種は蒔いた。芽吹かせることにも成功した。
 後は、花実を咲かすだけだ。


 衝撃が走った。
 咄嗟に受身は取ったものの、体重を乗せた不意打ちを完全に殺せるはずもない。歯で口内も切ったらしい。関平は己の上に馬乗りになった政宗を見上げた。見下ろしてくる独つ眼は、滾るような殺意と底冷えのする孤独で揺らめいている。
 「貴様のせいでわしは身の破滅じゃ、馬鹿め。」
 胸元を掴む手が微かに震えている。呻き声が泣き声にも聞こえて、無意識のうちに、関平は宥めるよう政宗の頬へ手を伸ばしていた。
 「政宗…。」
 ゆっくりと盛り上がり縁いっぱいに溜まった涙が、限界を突破しようとしている。
 「素直に頷けば、その程度の男と捨て置けたものを…むしゃくしゃして敵わん。」
 政宗は関平が星彩に想いを寄せていることを知っている。その想いを殺してまで、政宗と寝た責任を取ると言ってくれれば、それだけでどれだけ政宗は関平を見損なうことが出来たか。嗤うことが出来たか。
 今更ながらに、政宗は、一昨日星彩が蛮行を止めなかった真相に思い至った。政宗は女であれなかった生を悔いている。だが、女として在らなかったために、女として在るとはどういうことか男の理屈で考えてしまう。散々突かれて、隠していた本心を暴かれた星彩なりの意趣返しだろう。星彩は政宗の理性を吹き消して、本能で女を体感させた。関平を信頼して任せ、こうして見事、政宗を恋の荒波に突き落とした。
 最早、恋心を切り捨てる機会は失われた。政宗は押し寄せる後悔に唇を噛み締めた後、気丈にも笑った。
 「…もう何もかも手遅れよな…。憎むなら、己を怨め関平。わしを本気にさせた貴様が悪い。」
 胸倉を掴み上げ引き寄せ、同時に身を屈める。ぱたりと眦を零れ落ちた涙が、相手の頬を濡らす。
 噛み付くように奪った口付けは血の味がした。











初掲載 2009年8月29日