伊達政宗が蜀からなる反乱軍に在籍するようになったのは、二月前のことだ。街亭にて、その親友である孫市が、命をかけて政宗を説得したのである。
そのとき、星彩は初めて政宗と顔を合わせることになったのだが、敵の総大将遠呂智のことを絶賛された挙句、その偉大さを理解しようともしないわからず屋め、と真っ向から政宗に非難されたらしい。その上、小僧に小娘と呼ばわれたことで、冷静沈着な見た目に反してその実短い星彩の堪忍袋の緒も呆気なく切れてしまった。元々、賢しげな顔をしていても、年相応に青いところのある二人である。辛辣な嫌味の応酬は次第に勢いを増し、悪辣な罵声へと変貌を遂げた。以降、祝融が呆れて仲裁に入るまで、それはもう、血を血で洗うような罵詈雑言が飛び交っていた、とは孫市談である。一週間後顔を合わせる機会があったのだが、そのときに星彩が珍しく感情も顕に鼻を鳴らして政宗の参軍を憤っていたので、関平も強く印象に残っているのだ。ああ、孫市殿の言っていたことは本当に違いない、と。それくらい、星彩の雰囲気はおどろおどろしいものであった。
星彩は小さななりで大層な口を叩く降将のことが気に喰わないらしく、それ以降も度々、日ノ本からなる反乱軍に身を落ち着けている関平の元を訪れては、文句を垂れた。犬猿の仲、とでも言うのか。それでいて、星彩は政宗と共感する部分も多々あるらしく、直江兼続のことを同じように厭うたり、意図せずして話題に政宗のことを挙げたりと、内心気に入っている様子でもあった。考えてみれば、あの曹操にも例えられる戦国の雄、それが伊達政宗である。あと十年早く生まれておればと嘆息されるほど、その才は冴え渡っている。武一直線の関平や蜀軍諸侯とは異なり、風雅にも通じ、詞や茶を嗜むこと甚だしい。同じく女の嗜みとして風流を好む星彩も、そのような同年の友を得て、嬉しくないはずがないのだ。幼馴染である関平も信長の元に身を寄せているので、なおさら、その情は深いものとなったのだろう。
そのため、不穏な噂が流れてきたとき、関平はすぐさま否定することが出来なかったのだ。
何でも、星彩は政宗と付き合っているらしい。修行馬鹿で、このような醜聞に長けているとは言い難い関平の耳に入るほどだ。最早、この噂は誰もが知るところとなっていると受け取って間違いではない。
星彩は趙雲殿に長年想いを寄せていたのではないのか。そもそも、親の取り決めた婚約者がいるではないか。こんなことなら某もちゃんと想いを告げておけば良かった。
というわけで、関平は取るものも取らず日ノ本軍を飛び出し、星彩の元へ駆けつけた次第である。
関平が急き切って真偽のほどを確かめに蜀へ赴くと、星彩と政宗は二人きりで、政宗に割り当てられた部屋の房に篭っているという。あっけらかんとそうのたまう孫市に、関平が目を剥いて驚いたのは言うまでもない。年頃の男女が昼中から房に篭っている。それも、方や婚約者のある年頃の娘だ。むしろ、何故これほどまでに孫市はその異常な事態を受け入れておれるのか、関平にしてみればその方が疑問である。これで何か不義密通でもあろうものならば、義父や殿らに合わせる顔がない。関平はざっと顔を青くして、再び走り出した。その背を追いかける孫市の制止にも、今や反感が募るばかりだ。友が道を踏み外そうとしたら、その過ちを正すのが、友であろうに。何故、孫市はその道理をわかっていないのか。関平も少し頭を冷ましてみれば、一途に趙雲を慕い続けている星彩が急に政宗相手に恋愛対象を切り替えることなどありえようはずもないのだが、二人きりで房に篭っているという聞き捨てならない台詞を聞いた直後である。何故もっと星彩や政宗のことを信頼してやらなかったのか、と関平を糾すのは酷というものであろう。
そのような事態であったので、関平も内へ声をかけるでもなく、不義あらば糾弾する心積もりで勢い良く二人の篭っている房の扉を開いた。
置かれた白い湯船には、金木犀が散りばめられている。その隣に置かれた大陸風の大きな寝台には、入浴直後なのか、乳白色の背を晒して腰掛ける娘の姿がある。星彩、と名を呼ばわりかける関平に、濡れた髪を拭いていた娘が背後を振り返った。はらりとこぼれる明るい色の髪に、人違いと悟って関平が絶句する。と同時に、何故此処におるのか、と羞恥心を欠片も見せずこちらを見やる娘があの政宗と知って、関平は目を丸くした。嘘だ、冗句だ、それとも夢だろうか。目の前の現実を否定したいあまり、無意識ながら、思わずまじまじと見つめていたのだろう。その頭に、背後から鉄製の水差しが振り下ろされた。鈍く響く痛みに殴られた箇所を押さえ後背に目をくれれば、眉をひそめた状態の星彩が立っている。
「関平、どうして此処にいるの?」
答える隙を与えず、星彩がどのようにこの状況を理解したものか、水差しに注がれた清酒を関平の面に吹っ掛けた。
「…最低ね。」
誤解だ、と関平が弁解する暇もない。星彩が軽蔑も顕に、腕を振り被る。もう一度下された鉄槌に、関平の意識は霧散した。
関平の耳にひそひそと談議する声が入ってきたのは、それから、四半刻経った頃のことである。所々、娘特有の異性の無知を嘲るような笑い声も盛り込まれている。はて、此処は何処だろうか。どういうわけか、後頭部もずきずき痛み、辺りにはむっとするほどの酒の匂いが立ち込めている。さては、呑みすぎて倒れでもしたものか。関平は曖昧な記憶に頭を悩ませながら、見慣れぬ部屋の床から上半身を起こした。良く目を凝らせば、家具こそ違うものの、蜀が拠点とする成都城の客室のようである。見覚えのある部屋の造りにそう判断して、関平は何故このような事態に見舞われているのか、飛んでいる記憶を呼び戻そうとした。
そのとき、配慮一つ見せず、扉が開かれた。無遠慮に入る者に視線を投げかければ、星彩と政宗である。関平は一瞬にして、己が何故このような目に陥っているのか、理解した。同時に、意識をなくす前に見たものも思い出して、自然と頬も赤らんでしまう。対する娘たちはと言えば、関平が気を失っている間何を話し合ったものか。星彩の目には呆れと面白がる色が濃く、先に見せた蔑みが形を潜めている。一方、政宗は物思う様子で、床に座り込んだままの関平を見下ろしている。その値踏みするような視線にたじろぎながら、関平も負けじと見上げ返す。不可抗力にせよ肌を見てしまった手前、謝った方が良いのではないかという考えが頭をもたげたが、反感の方が関平の中で勝った。関平、星彩、政宗は同年である。関平は同年でありながら、戦場に名を馳せる日ノ本の雄たる政宗に深く興味を抱いていた。親交があるという幸村や孫市に訊けば、武一辺倒の己とは異なり、風雅も解する心を持ち合わせているというので、その興味たるや並々ならぬものがあった。それが、女子だったのだ。無論、関平も浅はかではない。性が男ではないからといって、侮る気や蔑むつもりはない。娘御の中にも、星彩のように武に秀でたもの、月英のように智に優れたものがあり、そのまた逆も然りである。だが、好敵手と認めてきたものが女だったことに対する理不尽な怒りは収めようとしても収まらず、結果、反感となって関平の中に残った。
どういう次第か、政宗はそれを興と捉えたようである。克ち合った視線を逸らそうともせず、鼻で笑った。かつて星彩が度々息巻いていた、あの、見るものを馬鹿にした笑い方である。それを初めて目の当たりにした関平は、内心息巻いたが、早とちりをして部屋に押し入った手前、ぐうの音も出ない。元々が、純真で晩熟なところのある関平である。阿国に頻繁にからかわれることからもわかるように、異性の扱いなど長けているはずもない。女子と正面切って見詰め合うなど、土台無理なのだ。関平は政宗が年頃の娘であることを思い出すなり、耳まで赤くして目を逸らしてしまった。肌着一枚纏っただけの政宗の、白い背がちらついて、脳裏から離れない。
俯く関平の耳に、星彩の溜め息が届いた。
「もう行くわ。それほど暇じゃないの。政宗、後は任せたわ。」
「せ、星彩!」
後に政宗と二人きりで残される気まずさから助けを求める関平に、星彩が無情にも告げる。
「見られたのも見たのも、私じゃない。煮るなり焼くなり好きにしたら?」
そう言って、星彩は政宗の顔を窺うと、部屋を出て行った。後に残されたのは、被害者と加害者である。あれほど矜持が高い政宗が相手だ。まさか浮気現場を押さえに来たと言えるでもなし、申し開きは出来ないだろう。貶されるか、殴られるか。歩み寄る娘を見上げながら腹をくくる関平に、政宗はさぞ可笑しそうに口端を吊り上げた。
「酒臭い。」
それは、星彩に清酒を吹っ掛けられたせいだろう。転がされている間に乾かなかったようで、未だ関平の襟首と胸元はぐっしょりと濡れている。肌に張り付いて正直気持ち悪いのだが、状況が状況ゆえに、口に出せるはずがない。唇を引き結ぶ関平の手を引いて、政宗が言った。
「まだ風呂も温かい、入るが良い。その間に、わしが事情を説明してやる。」
関平は好敵手と見定めた政宗と、それ相応の付き合いをしていた。二人で他愛もない年相応の話題に花を咲かせもしたし、薄着で訓練を重ねもした。しかし、今や政宗が娘であることを関平は知っているのだ。異性の前で入浴するなど、とてもではないが出来る気がしない。だが、政宗は一向気にした風もない。政宗が以前と全く同じように接してくる手前、自分だけ気にしていることを表すのも躊躇われて、関平は逡巡した後、渋々上着だけ脱ぎ捨てた。酒の匂いが染み付いているのは、顔を中心とした上半身である。何も、全裸になって入浴する必要はない。一瞬、異性の浸かった湯を用いることに躊躇を示してから、関平は顔を洗うと、手渡された手拭いを湯に浸し、それで首や胸を拭い始めた。
そのような関平を眺めながら、寝台に腰掛けた政宗が曰く事情を物語る。
「星彩が劉禅の許婚であることは知っておろう。だが、星彩が趙雲に長らく恋していることも。」
関平の目も節穴ではない。星彩が趙雲に想いを寄せ続けた歳月の分だけ、関平も星彩を見続けてきたのだ。知らぬはずがなかった。だが、星彩が近い将来劉禅に嫁ぐことを承知していたために、互いに募らせた想いを告げることはなかった。何れの恋も実るはずがない。片恋で相手を困らせるよりは、道義に反することに悩むよりは、と、関平も自らを慰めて、口を閉ざしていたのだ。そのため、今回の虚偽の噂を耳にして、どうしても理性的にものを考えることが出来なかった。
「遠呂智によって、世界が混ぜ返させられたであろう。それでな、このわしと、賭けをした。」
「…賭け?」
問いかける関平の背後で、政宗は寝台から立ち上がったものか、ぺたりと素足で床に触れる音がした。
「責務を果たそうと努めてきたが、仮に、もしも、それを放り出して自由に生きていたならば、どのような未来が待ち受けていたのであろうか?折角世界が違えたのじゃ、試さぬことには詰まらぬ。」
そこで、政宗がくつりと笑った。思いの外近くに聞こえた笑い声に身を硬くする関平の肩に、ふわりと柔らかい掌が置かれる。鼻先を甘い金木犀の香りが掠めた。
「はたして、趙雲が星彩を子供ではなく女と認識するのが早いか、女を捨てたわしが在りえた生を取り戻す方が早いか。」
どくどくと柄にもなく心の臓は高鳴っている。すぐ傍に迫っている危機に、関平は唾を呑み込んだ。阿国に迫られる以上にこちらの方が実際的で恐ろしく、後ろを振り返る勇気すら起こらない。ぱさり、と衣擦れの音が響くとなれば、尚更である。身じろぎ一つせず固まる関平の首に白いかいなが回され、頬に爪がかかった。無理やり振り向かされ、見るまいと強く瞼を瞑れば、渇き切った唇に温もりを感じた。濡れた音を響かせて、それが離れる。
「まだ、酒臭い…ちゃんと湯浴みせぬからじゃ。」
物憂げな声と共に、関平は熱い吐息を唇に感じた。ふいに脳裏に蘇る白い背中に、ぞくりと怖気にも似た何かが背筋を駆け抜ける。それらを全て見透かしたように、政宗が笑った。
「大丈夫じゃ、初めてくらい優しゅうしてやる。」
初掲載 2009年8月17日