窓辺で花瓶に挿した風車がからからと音を立てている。
政宗は注文票を記す手を休めて、つと頬に触れた。研磨されていない曇った鏡に、ぼんやりと自分が映っている。赤い髪に隻眼、白いばかりで女らしさのまるでない貌だ。あのとき触れた指の冷たさを思って政宗は瞼を閉ざした。
重労働などしたことがなさそうな肉刺一つない、自分と比べるべくもない美しい手。
あれから二ヶ月半が経った。三成は何を思って己の頬に触れただろう。頭を振ると、政宗は瞼を開けた。今は仕事中だ。上の空で居る暇などない。
最近、町では辻斬りが横行している。若い武士が刀の試し斬りをしたようなものではなく、明らかに手練の仕業だった。被害は既に並々ならず、幕府は面目を守るため、手当たり次第にそれらしき者を取り調べている。
江戸の検挙率は非常に高いが、それは拷問で無理矢理自供させたものも含まれている。
道場に張り紙を配り、刀を差した浪人をしょっ引く中で、岡っ引きの孫市は渋面で知り合いの幸村と政宗に、決して嫌疑がかかることのないよう再三にわたって言い渡した。二人とも手練だ。流石に俺では収拾がつかない大事件だから、と悔しそうに眉間にしわを寄せていた。孫市はだらしない外見からは想像もつかないが、真面目な気質で賄賂も受け取らず、極貧生活を暮らすような男なのだ。軽犯罪者とも持ちつ持たれつの関係で情報提供など協力をしてもらう程度には人望もある。それゆえに、尚更、何も出来ない己の不甲斐無さが身につまされるのだろう。
そのため、夜の外出が控えられ、現在夜の江戸は江戸であることを忘れたかのようにひっそりと静まり返っている。歓楽街には閑古鳥が鳴き続けるため、経営が立ち行かなくなりつつある店もあるらしい。常連客の左近が頭を掻いていた。彼もまた、それだけが理由ではないが、外出を控えた者の一人だ。
そんな事情の中、夜の分まで昼に仕事が回り、政宗は休む暇もない。ただでさえ今は師走だ。年越しの金さえ持たないその日暮らしの者が多い中、石田屋では資金力のある大店の主や武家とも商売をしている。信用のある家には現金買いでなく、掛売り掛買いが通例である。その後払いの代金の請求日が今月末の大晦日だ。こちらからの支払いに関して資金繰りに困ることはないが、返済を取りあぐねることがないよう、手代の左近は奔走している。その皺寄せが、政宗や他のところに来る。ただでさえ寝る暇もないほど忙しい中、夜に外出出来ない事態に、更に目が回りそうな多忙になっている。
そういえば、仕事に忙殺されて、ガラシャの元にも最近行けていない。あの妹のような娘は寂しがっては居ないだろうか。
気に掛かったが、政宗は再び注文票に取り掛かった。
その夜の訪問者は思いがけないものだった。ガラシャは政宗の姿を見て取ると、嬉しそうに駆け寄って抱きついた。
「ガラシャお嬢さん…どうしてここに。」
「政が会いに来てくれないから、妾から来たのじゃ!」
現在、辻斬りが江戸を騒がせていることをガラシャは知らないのだろうか。箱入り娘ゆえ、知らないのかもしれない。老若男女隔てなく斬って回る辻斬りだ。実際、道に立っていた夜鷹や風呂帰りの母子が殺されている。
「そういえば、変な白塗りお化けにあったぞ。ァ千代たちが助けてくれたのじゃ!」
辻斬りだ。もし助けが入らなかったら、と肝が冷えてガラシャを掻き抱いてから、ようやく、政宗はァ千代なる人物を見た。女だ。腰に刀を下げている。
「辻斬りは仲間が追っている。運が良かったな。危ないところだ。」
得意先の娘に何かあっては申し訳が立たない。二の句を告げない政宗の代わりに、向かった左近が礼を言ってから、ァ千代という女に切り出した。
「それで、大坂にいらっしゃるはずの立花様が何故、こちらに?」
「最近、江戸に手練の辻斬りが出ると聞いた。京に拠点を構えていた人斬り佐々木小次郎ではないかと思い、義弘と武蔵と共にやってきたのだ。私たちは幕命で奴を追っている。」
幕命。その単語に政宗はきつくガラシャの衣を掴んで、顔を俯かせた。背筋に冷たいものが走る。気付かれただろうか、いや、気付くはずがない。藩は事実を必死に隠すはずだ。何より、政宗の面がこの女に割れているとは必ずしも言い切れない。
政宗は一縷の望みに縋って、ガラシャに抱きつき顔を隠した。ガラシャが不思議そうに抱き返してくる。
ァ千代が言った。
「そこの御仁、少し、顔を貸してもらおうか。」
政宗は諦めて顔を上げた。じっとりと掌が濡れていた。
政宗は大名家の長子として生まれた。幼名は梵天丸。初めから男としての生き方しか知らず生きてきた。武芸に優れ、勉学に励み、才に恵まれた殿だと持てはやされて生きてきた。
その人生が掌を返したように変わってしまったのは、一年前のことだ。鷹派の家臣が反旗を翻し、父を討った。彼らはすぐさま処断されたが、擁護する者がいなくなったことで政宗の立場は危ういものとなった。政宗には弟が居た。彼に家督を譲るのが正当だろうというのが最も出た意見で、家を継ぐためだけに育てられてきた政宗にも、御取り潰しになるよりは、と尤もな意見に思えた。まさか、結果、自分が命を狙われる立場になろうとは思いもよらなかった。
己の存在自体が御取り潰しの要因に成り得る事実を、政宗は見落としていた。女の身でありながら、家督を継ごうとした。それは、幕府が介入するには十分な問題だった。
家人に見つかれば殺される。幕府に捕まれば家が取り潰される。
武家との結婚を機に辞めた侍女を頼って出て来た江戸は、騒々しく喧しかった。それでも必死に、侍女から送られた手紙を頼りに探し当てた住所は既にもぬけの殻で、差配人には、家が落ちぶれたのだと聞かされた。人に頭を下げることになれない武士の妻が、夜鷹として立つことは一般的だった。夜鷹の大半がそのようにして落ちぶれた武家の妻子だ。彼女もその道を違うことなく辿ったのだと知り、視界が真っ黒に染まった気がした。
すぐそこにひたひたと死は迫っている。
いずれ死ぬ身だ。いっそここで尽きるのも、政宗には悪くないように思えた。少なくとも、家は安全なままだ。
そう思っているときに、ねねに拾われた。どれだけ身を粉にして尽くそうとも返しきれない恩だと思った。慣れない生活に苦労もしたが、かつてないほど幸せだった。
勘定を終え、店の様子を覗きに向かった三成は眉をひそめた。妙な空気が漂っている。その中に居るはずのない明智の娘後の姿を見て取って、尚更わからず、三成は心中首をかしげた。
政宗の姿が見えないことに気付いたのは、左近に声をかけられてからだった。
初掲載 2007年12月27日