茶請けに出された大量の饅頭を見て、左近は帳簿から顔を上げた。
「明智様のところに薬を届けて来たのか。」
「はい。」
「ガラシャお嬢さんの相手も、もう少ししてくりゃあ良かったのに。」
明智の箱入り娘が政宗を気に入っていて、薬を届けに行く度に遊び相手をさせられることは周知の事実だ。その分、ガラシャの父親光秀からは金も弾んでもらっているし、土産に持たされる大量の甘味を店の者は皆楽しみにしている。何より、廻船が出たばかりで仕事が特にない今の時期は、店に居ても暇だろう。そのため、誰が咎めるわけでもない。
そう思って左近が言うと、政宗は生真面目な様子で首を振った。
「いえ、そういうわけにはいきません。給金を貰っているのですから。」
そのひょうしに、ガラシャに抱きつかれたのか、ふわりと白粉の甘い香りが漂った。
左近は薬問屋の石田屋に仕える手代である。石田屋が出来た頃から居る古株で、ある程度以上の権限がある。しかし、女将の采配に口出しするほどの権限はない。大坂に本店を構える大旦那や、支店の石田屋を任されているやり手と噂の若旦那でさえ、無理なのだ。手代ごときが出来るわけもない。
その女将ねねが、冬にふらりと政宗を連れてきた。政宗はおそらく武家の人間だろう。身のこなしに隙がなく、洗練されている。しかし浪人というには年若すぎるし、そのときは身なりも良かった。幼少時に痘瘡で患った、と後に知った左目は絹の布で覆われていた。絹など高級品だ。その上、口調も古めかしく堅苦しかった。そのため、良家の出ではないか、というのが手代として人を見る目を鍛えてきた左近の見解である。
だが、通常大名家の人間が廻船問屋に来ることはない。
それでも、よろしくお願いします、と深く下げられた頭に帰る場所がないのだろうなと察した左近は、笑って政宗の肩を抱いた。そのときに、あれ、と内心首を傾げた事実があった。その事実は口に出さなかったが、道理でねねが連れてきたわけだと納得しもした。
「この子を左近の下に付けたいんだけど。」
「俺の下に、ですか?」
「読み書きも算術も出来るし、頭も良いし、なるべくなら内の仕事が良いんだけど。」
曖昧にかわされたねねの返答に、左近は政宗に視線を向けた。確かに利発そうな顔だ。良家の出ならば、町人の流儀は仕込まねば駄目だが、ある程度に基礎は出来ているだろう。そう判断して左近はそれを了承した。
男のなりとはいえ、流石に男の仕事を任せるわけにはいかないだろう。しかし、だからこそ女の仕事も出来かけるのか。
そう思ったが、口には出さなかった。
その政宗はこの半年で、驚くほど仕事を吸収して立派に独り立ちしている。元々利発で飲み込みが早いというのもあるが、決して帰らないという決意が政宗を躍起にさせたのだろう。頑張るなと内心感心しながら、左近はある事実に気がつき、日めくりを見やった。木曜だ。
「そういえば、今日は真田の日か。」
真田は街にある道場の通称だ。本当は武田道場という名なのだが、師範が三年旅に出てくると言い残して、この丸二年それきり音沙汰もないので、今は真田で通っている。真田は師範代を務める武士真田幸村の苗字である。
性がばれると危惧しているのか、政宗は酒もやらないし、当然女遊びもしない。唯一の気晴らしが剣の稽古だ。健全なものだと両方嗜む左近は思う。その上、周囲に気を使ってか、早めに上がる道場のある日は決して外で暇を潰さない。暇であっても、何か見つけては仕事に励む。それを承知しているから、ガラシャも無理に引き止めなかったのだろう。
「それじゃあ、幸村に宜しくな。饅頭も持っていけ。道場の子らが喜ぶだろう。」
幸村は若旦那の友人だ。道場には近所の子供も通っている。
そう言えば、政宗は深々と頭を下げた。
点されている明かりに、三成はいぶかしんで足を止めた。
三成は石田屋の若旦那である。その美貌から恋い慕う女は星の数だが、袖にした女も数知れず、男の妬み嫉みも同様で、その上、一言多いので敵も多い。しかし出来る男なのは確かである。
その三成が大旦那から任された石田屋には、風呂がついている。その方が毎日湯を浴みに行くより安上がりだったというのもあるが、大坂から頻繁に遊びに来る大旦那が三度の飯と同じくらい湯浴み好きなのだ。女遊びを隠すためだろう、というのが三成の見解である。
その風呂の明かりが点いている。時刻は酉の刻。決して遅いというわけでもないが、もし灯りの消し忘れだとすれば油の無駄だ。普段は使用人の棟になど来ないので、三成はそれが毎週のことだとは知らなかった。
女だろうかとは思わなかった。三成は声もかけず、風呂の戸を開けた。白い煙が立ち昇る中で、大きな目を零れ落ちそうなほど見開いて、見慣れた貌がこちらを見ていた。女将の薦めで入って半年ほどだが、左近の下で中々に良い働きを見せている小僧だ。名は確か、政宗と言った。
そういえば、毎週幸村のところに稽古に出ているという話を思い出し、政宗か、と声をかけようとして、三成は言葉を失った。胸は隠されているが、肩から尻にかけて丸みを帯びた白い身体は男のものではない。
「入っていたのか。」
それだけ告げて戸を閉めてから、三成は小さく舌打ちをした。この事実を、店に入れたねねや上司である左近が知らないはずがない。あれだけ有能な者を何故、と政宗をねねが本店ではなくこちらに入れたことを度々不思議に思っていたが、それもそのはずだ。大旦那の女癖の悪さにねねは日頃から悩んでいる。そのねねが自分から新たな悩みの種を撒くはずがない。
しかし、ねねに文句を言えるわけもない。三成は左近にあたることに決めた。
左近に会うのは翌日になった。仕事がないので、女郎屋へ遊びに出ていたようなのだ。薬の保管庫で三成が詰め寄ると、左近は管理票を書き留める手を休め、呆れたように片眉を上げた。
「それで、それだけ言って立ち去ったんですか。若旦那。」
「何か問題でもあるか。」
「いや、まあ、あっちも下手に指摘されるよりはその方が良いかもしれませんけど。」
言いよどむ態度に睨み付けると、左近は困ったように頭を掻いたが、それ以上感想は洩らさなかった。言っても無駄だと判断したのかもしれない。三成には自分が正しいと思い込むところがあった。その上、女にはつれないと有名な色男だ。これでは恨みを買うのも致し方ない。
左近の予想通りその日の内に、左近の元に政宗が訪れた。開口一番、政宗は言った。
「お暇した方が宜しいでしょうか。」
「何でそう思う。」
そう問い返すと、政宗は真意を見透かそうとするようにまじまじと左近を見つめてから、いえ、と言って、ただ黙って頭を下げた。左近はその柔らかい髪を安堵させるように掻き混ぜた。
「そういえば今夜の花火は見に行くのか?」
「行きません。一応、ガラシャお嬢さんには誘われていますが。」
「遠慮せず、行って来たら良い。」
居る気配は微塵もないが、好いた男と行っても良い。ガラシャと行くのも面白いだろう。何しろ、金の工面は向こう持ちだ。政宗はそのせいで気が引けるような人間ではないし、金持ちには気前良く奢らせるべきだ。その上、ガラシャを通じて親交を深めた岡っ引きの孫市も同行するだろう。
しかし、政宗は頼りなく左右に首を振った。
「いいえ。良いんです。」
その返事に、無理に勧める必要もないかと、左近は思った。花火にかこつけてやって来るような人々の中に、昔の知人でも居るのかもしれない。そうであるとするならば、左近には誘うも出来ない。どちらにせよ、今宵は贔屓の遊女のところで酒盛りだ。花火に連れて行けるはずもない。
一応、今夜はどうするのか尋ねてみると、政宗は普段と同じく仕事でもしていると受け答えした。花火だろうが、関係ないらしい。生真面目すぎる返答だ。
ふっとそのとき、左近はねねの望みを悟った気がして、思わず小さく笑みを零した。
大きな音が立った。
天上では火の花が煌いている。橋の上で押し合い圧し合いする人々を一瞥し、三成は隣の政宗を見やった。政宗は一人日誌をつけていた。
「貴様は行かないのか?」
「…私はあまり興味もありませんので。若旦那こそ行かないのですか?」
「俺も興味はない。」
そう答えてからふと興を覚えて、三成は政宗に視線を向けると言った。
「見に行くか。店の船着場なら良く見えるし、人も居ないだろう。」
曖昧な顔で政宗が頷いた。若旦那の誘いを断るのも悪いと思ったのかもしれない。些末は気にせず、三成は政宗の細い手を引いた。
水面に花火の光を弾く川には、赤い風車がゆらゆらたゆたっていた。誰かが橋の上から落したのだろう。娘のなりをして行けば、政宗も誰かにそれを贈られたことだろう。仕事も文句なしに出来るし、ざっくばらんに切られた短髪や隻眼が難だが器量も良い。剣術のせいか薄い身体は肉付きが悪いが、それでも女だ。抱きしめれば、男よりは柔らかいだろう。
何となく面白くなかった。ついと手を伸ばして風車を抓み、水を切ってから三成が差し出すと、政宗は困ったように眉尻を下げたが、黙ってそれを受け取った。
再び空で花火が音を立てた。
それを映して緑に染まる政宗の頬に、何故だが、口付けたいと三成は思った。
初掲載 2007年12月26日