第四話


 灯り一つ点さない部屋の中で、政宗は布団に包まっていた。空いた隙間から、三成の点した火が線になって部屋に差し込んでいる。
 寝たのだろうか。まだ宵の口だ。いぶかしむ三成の視線の先で、政宗がもぞりと身じろいだ。
 昼、左近には再三言われていた。これ以上政宗を無視しないこと、刺激しないこと、話し合うこと。政略結婚だ、話し合いも何もあるまい。向こうだとてそれは了承済みだろう。そう言う三成に、左近は頭を掻き、嘆息した。これだから坊ちゃんは、と舌打ちされたような気もするが、三成が咎め立てする前に、左近は言った。
 「そうやって頑なな態度取るから、今みたいなことになってるんでしょうが。」
 無視しない、刺激しない、話し合う。それらを胸中で反芻しつつ、三成が神経を撫でないよう静かに近寄ると、政宗が小さく唇を開けた。頼りなく伸ばされた腕。
 「………つ。」
 耳慣れない名に、とっさに、それが伊達家家臣の名であるとは気付かなかった。
 怒りに視界が赤く染まり、伸ばされた政宗の手首を掴み、布団に押し付けていた。


 望まれない婚姻だった。政宗は初めからそれを承知していた。三成が見向きもしなくても、平気だった。伊達の名を捨てた己にはそれだけの価値しかないことを、左近やァ千代が何と言おうと、政宗は誰より理解していた。
 だから夢に逃げた。夢に見るのは、大体が嫁ぐ前のことだった。伊達政宗として、誰からも望まれていた頃の夢。景綱が居て、成実が居て、綱元が居て、皆が居た。何より、昭光が居てくれた。
 七歳のとき、一度だけ、政宗は伊達を捨てたことがあった。連れ出したのは、父の実弟である石川昭光だった。
 誰かを頼っての旅だったらしいが、詳細に関しては未だに知らない。昭光が口にしない限り、政宗が尋ねることはないだろう。また、政宗が尋ねでもしない限り、昭光も口割ろうとはしないだろう。その旅の最中、昭光は度々、実家を狂っていると評した。お前は姫なのに、と哀れむように言っては、道々、風車や簪を買い与えてくれた。二束三文のそれらは、風が吹くたび頼りなく揺れた。
 汚らわしい子。一つ目の化け物。お前さえ居なければ――
 痘瘡を患って以来投げかけられた母の言葉は覚えていた。綺麗なべべの裾を掴んで、おかしくないかと尋ねるたびに、昭光は政宗を抱きしめて、嫁に貰いたいくらい愛いぞと笑った。その声は微かに震えていた。
 そんな中、彼に会ったのは、西でのことだった。
 梅雨草の咲き乱れる侘しい寺に通りかかったとき、天からぱらぱらと雨が落ち始めた。その頃には既に、政宗も己が追われる身であることは察していたが、叔父は政宗の小さな手を引いて、風邪を引くからと寺の老僧に雨宿りを乞うた。
 ふと視線に気付きそちらを見やると、年の頃十三、四の少年がこちらを見ていた。はっと息を飲むほど顔立ちの整った、見目麗しい少年だった。
 一瞬詰まってから政宗は笑いかけたが、少年は顔を背けると、何処かへ走り去ってしまった。それきりだった。
 汚らわしい子。一つ目の化け物。お前さえ居なければ――
 結局、昭光は気を利かせただけで、自分は醜い容姿なのだ。脳裏に過ぎったのは、愛らしいと噂の田村の姫だった。そのような娘と彼は恋に落ちる。相手は決して、自分ではない。
 つきりと胸に痛みが走った。
 その後、一月もしない内に二人は伊達に連れ戻された。伊達お抱えの忍軍団、黒はばきによる捜索の結果だった。それから父と叔父は仲違いし、月日は流れ、戦になった。
 人質に取られた父は叫んだ。自分も小次郎も何もかも、政宗の踏み台でしかないのだと。父は、確かに昭光が評したとおり狂っていた。盲目に、政宗の将来を信じていた。
 女として生きる道はない。
 ふと思い出したのは、かつて西で見た少年だった。政宗は引金を引かせた。血飛沫を上げて、父が、畠山義継と地に倒れこんだ。耳鳴りがして、視界が真っ赤に染まった気がした。
 その人取り橋の戦いで、昭光は敵の味方をした。伊達を捨てれば女に戻れる。昭光は政宗にそう説いたが、政宗は女になりたくなかった。
 元々、相手が多勢だった。父を殺めた錯乱もある。指揮は激情に任せたものになり、戦は紛うことなく、伊達が劣勢だった。多くの家臣を失った。
 昭光の放った黒はばきが工作をしたと耳にしたのは、後年のことだ。そのときは、何があったのかわからなかった。
 冬の寒さといつ襲われるともわからない恐怖に眠れぬまま夜を過ごし、朝になった。化かされたような気分だった。連合軍が忽然と姿を消していた。佐竹氏の総将帥義政が家臣によって刺殺されたと知らされたのは、岩角城へ下がってからのことだった。
 あれから、昭光は小田原攻めで所領を没収され伊達に戻ると、政宗を陰に日向に支えてきてくれた。遅参の責めを寸でのところで逃れ帰還したときには、政宗の青白い顔に全て察知したのか、昭光は無言で頭を撫でた。
 初恋だった。初恋の彼だと一目でわかった。
 彼は気付かなかった。当然だ。目を背け逃げ出すほど醜い女をわざわざ覚えている謂れはない。
 夢の中で、政宗はあの日のように、昭光に抱きつき子供のように泣きじゃくっていた。人気を感じ目覚めたときも、己を覗き込む者を昭光だと信じ込んでいた。
 自分にとって、本当の父のような人。
 「………つ。」
 手を伸ばして呼んだ名に、彼は一時目を丸くした。まるで傷付いたような瞳に、あ、と思う間もなく、腕を掴まれ、乗られていた。
 「――それが他家との婚姻を忌避する理由か。」
 とっさに意味がわからなかった。
 「左近やァ千代と話したそうだな。俺に離縁されても構わないが、他の誰にも嫁ぎたくないと。ならば、現状の方がましだと。そいつが、その理由か。」
 「三成様、何を、」
 「白々しい、とぼけるな!」
 政宗は初めて、これほど取り乱した三成を見た。袂が割り開かれ、未だ幾分冷たい春の空気に身が震えた。震えたのは、悲しみゆえかもしれない。
 「それほど、」
 何が気に触ったのだろう。三成は舌打ちをして身を引くと、苛立たしそうに部屋を出て行った。政宗は黙って天井を仰いでいた。
 自分が泣いていることに気がついたのは、随分、時間が経ってからだ。政宗は声を殺して泣いた。










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初掲載 2007年12月24日