傍白:2   十二国記パラレル


 令乾門の前には、すでに昇山をせんとする人々が集い始めている。
 遥か天空からそれを見下ろしていた政宗は、人目に触れぬ場所へ己を降ろすよう、自らの使令、成実へと命じた。成実は、政宗が若かりし頃に居止めた妖魔である。地にあっては並ぶもののない俊足を誇る白虎は、空を駆ける術も身につけており、その性は妖魔というよりも騎獣に近い。もっとも、それは政宗が使役して以降の話である。人を喰らってはならぬという主君の厳命に従い、成実が人食い虎としての獰猛な本性を隠しているだけである可能性も十二分にあった。
 「わかっておるな。」
 何をと言わずとも、成実が頷く。
 『無論。』
 こうして、政宗が黄海の旅に加わるのも、幾度目のことか。
 その度に、政宗は、己が使令を旅団の護衛として用いた。強い妖魔の存在を嗅ぎ取れば、雑魚は恐れを抱き近付こうとしない。政宗は、妖魔のその習性を利用したのだ。しかしその半面、政宗は旅の安全を確保することに傾注するあまり、使令の姿を見られる危険も冒していた。
 それは、正体を伏せている政宗にとって、命取りともならない軽率な行動であった。先王が誅されて、四年。当時、奥国において身近なものを亡くさなかったものは皆無に等しい。そのような流れにあって、先王が一千年にも及ぼうという長い歳月に亘って善政を敷いたという事実は人々の心になく、ただ、最期の無惨な崩御ばかりが鮮明に焼きついている現状である。それは、先王を選び取った麒麟の能力に対する疑念へと通じ、ひいては、新たな麒麟への熱望へと通ずる。
 はたして、人々が自らの心の動きを意識しているのか、定かではない。こうして昇山の途に着くからには、認めまいとするだろう。だが、いざとなれば何とするかわからない、それが大衆である。危地と知ってわざわざ身を投じる政宗の愚行は、彼に仕えるものや他国の王麒麟らにしてみれば、許されるものではなかった。
 しかし、この昇山の旅は、その犠牲は、政宗の勝手から生じているものである。政宗が遠呂智に替わる新たな王の存在を受け入れれば、あの日見止めた男の名を告げれば、生じない犠牲である。麒麟の性は、仁。政宗が少しでも犠牲を減らそうと心を配るのも当然ではあったが、伏せられた真実を知るものは、政宗をおいて他にいない。
 成実を含める使令らが内心ではこの旅に賛成しかねていることを、政宗は知っていた。
 「…労をかける。」
 宥めるように毛並みを撫でれば、咽喉を鳴らして成実が応える。甘えを許されていることを承知の上で、政宗は地へ降り立った。
 昇山の旅団は、その目的ゆえに殆どが未知の人間で形成されている。しかし、危険に満ちた黄海を渡るにあって剛氏を雇うはもはや常識であり、そうして雇われたものの中には政宗の既知も多い。一千年以上もの間要求され続けた流麗な立ち振る舞いを政宗が今更変えることは不可能だが、ここ一ヶ月慣らしたがために多少擦り切れた衣服が、その姿だけでも凡庸にさせている。政宗は労せずして、門前に集う一行へ溶け込むことが出来た。
 政宗に話しかけてくる剛氏の中には、政宗がまるで彼らの仲間であるかのように対応するものもいる。黄海や昇山、その過程で出没する妖魔に関して、博識を誇る政宗に畏敬の念をもって接するものもあった。
 その剛氏との交流の端々に、政宗が新たな王ではない事実に対する落胆を見て取り、政宗は居たたまれなくなった。麒麟である政宗が王と成ることは絶対にない。そして、新たな王が選任される可能性も、限りなく、無きに等しい。あのものは他国に属するものだ。斐王の寵深く、向こうにあって仙籍も取得し、何一つ不自由ない日々を送っていると伝え聞いた。あのものの状況が三年前と変わっていなければ、奥国で昇山を試さねばならぬ理由など一つたりともない。
 「まあ、藤次郎殿も王になれなかったからといって、そう気に揉むものでもない。藤次郎殿が仕官してくれれば、大事はないだろう。これ以上、心強いことはない。」
 そう的外れな慰めを口にしていた剛氏の頭領佐助が、口を閉ざして僅かに目を細めた。人々の中に既知を見出したらしい。珍しい奴が来た、と無言で漏らす口元と固定されたまま動かぬ目につられ、政宗が後ろを振り仰いだ。
 雑踏の中、女の明るく澄んだ声が響く。姦しい笑い声は、これから対峙する危険を匂わせぬほど喜びに満ちている。
 だが、その声も政宗の耳には届かなかった。高鳴る鼓動と強まる耳鳴りに、麒麟の摂理に抗い認めまいとする政宗の意思が呆気なく押し潰された。一瞬で、世界が色を変えた。
 その場には、居るはずのない男がいた。遠呂智に替わる当代の王、信繁が。
 政宗はただ声もなく、信繁を見つめていた。


 旅を始めて、一週間が経った。
 夜の帳が落ちた世界は、妖魔のものだ。政宗は木に背を凭れかけ、膝に顔を埋めた体勢で、必要最低限焚かれた火を眺めていた。火は誘蛾灯と同じく、妖魔を呼び寄せる働きをする。だが、人は炎なしでは、黄海にあって生き延びることが出来ない。自らを滅ぼすと知りながら、生きるため為す。為さざるを得ない。それは、この世界の王制が孕む矛盾に似ている、と政宗は思う。
 人々は王無しでは生きられない。王が居ない国は荒みゆく一方だ。土壌は荒れ、妖魔が跋扈する。だから、人々は仕方無しに王を選出させる。しかし、期間に差異はあっても、王がもたらす結果はいつでも同じだ。全てがいたちめぐりで、常に徒労に終わる。それでも、大衆は不都合な事実に気付かない。否、気付かない振りをする。
 そのように翻弄され愚かで悲しい民が、哀れながらも癇に障る。後年、すでに穢れに蝕まれていたのであろうが、政宗の女妖妲妃が癖のように口にしていた。王や麒麟の犠牲の上に成り立つ恩恵を当然のものとして享受し、そのありがたみに気付かない、義務には目を瞑る。あろうことか、謀反まで企てる。
 『あたしたちの、』
 憤りも顕に、妲妃は言ったものだ。
 『あたしたちの…遠呂智様の、政宗の数百年の苦労も知らないで、「王だから、麒麟だから、為して当然」なんて、何て厚顔なの…っ!』
 麒麟である政宗は、民衆を厚顔とは思わない。ただ、憐憫の情が胸を刺す。今では、それ以上に空しさが募るばかりだ。
 遠呂智の最期が脳裏を過ぎり、政宗は口惜しさに唇を噛み締めた。あの、遠呂智でさえ失道したのだ。一千年の善政を経てなお、ひとは、道を過つのだ。政宗は焚き火に照らされた男を一瞥した。況や、半世紀も生きておらぬ一介の将兵如きが、道を踏み外さぬはずがない。
 清浄とは言い難い環境に些か肉の落ちた腕を伸ばし、政宗は己の影をなぞった。小十郎、と自らの使令筆頭に呼びかける。昨日、今回の旅で初の怪我人が出た。飯炊きとして連れてこられた貧民の女だった。これ以上の犠牲者を出さないため、政宗が周囲の徘徊を命じれば、御意と応えて小十郎の気配が消えた。これで、もう懸念することはない。政宗は小さく嘆息をこぼし、膝に額をつけて瞼を瞑った。
 どうして、読み違えたのだろう。大衆の心は風前の灯火の如く揺れ動き易いものであると、何故学ばなかったのか。
 これで、もう犠牲者は出ずに済むはずだったのだ。本当は。


 「わしのせいじゃ。」
 決して、謝罪したかったわけではない。災厄の原因である政宗が失われた命に償うことなど、ありはしないのだ。
 それでも自然と溢した台詞に、信繁が荷から顔を上げた。大妖に襲われた別隊を助けに向かうべく支度を整えていた信繁の表情は、何時になく固い。民を犠牲にした悲痛と無二の存在を失うかもしれない恐怖から何を言うべきかわからぬ政宗を見る信繁の眼には、いぶかしみが強く浮かんでいた。
 「何故、藤次郎殿がそう仰られるのか、私には分かりません。」
 「…わからぬのも無理はない。」
 お主が王であると信繁に告げることが出来たならば、王に成ってくれと縋ることが出来たならば、どれだけ政宗の責は軽くなるのだろう。最近、頓に浮かぶ考えが政宗の心を揺さぶった。
 此度の昇山の一行に、どうも王が居るらしい。その噂は既に他国の王に伝わっているらしく、毎回この時期になると黄海で修行に励む稲の言動も、些か偵察めいて来ている。剛氏たちが王に違いないと見定めているとおり、信繁こそが王である。稲が、その噂を聞き及んでおらぬはずがなかった。
 だが、政宗にはささやかなりとも矜持がある。遠呂智が斃れたあの場に居た信繁を、恃むことを良しとせぬ反感がある。どれだけ足掻いたところで、半世紀も生きておらぬような一介の将兵風情が遠呂智に勝るはずがないという諦念がある。
 それでも、信繁が救ってくれるかもしれないという希望を捨てきれない。
 政宗を形作る麒麟の浅ましい本質が、信繁を求めている。政宗は強く唇を噛み締めた後、信繁を真っ直ぐ睨みつけるようにして見詰めた。
 「のう、信繁。わしは言うたことがなかったな。わしは、以前、お主を見たことがあるのじゃ。以来、わしはお主のことを認め難く思ってきた。憎んでこそおらぬが、苦々しく思うておった。お主らの…お主のせいで、わしの生は転変してしもうた。」
 「藤次郎殿…?」
 「政宗。」
 遠呂智と妲妃にのみ許した名を、自然と唇が紡いだ。
 卑弥呼を初めとして、孫市やガラシャも政宗をそのように呼ぶが、あれは政宗が許可したわけではなく、遠呂智らの真似をして勝手に呼んでいるのだ。近習や官らは、一千年の時を生きる現在最古の麒麟政宗を神格化して梵天と呼ぶ。それ以前を知るものは、藤次郎という、本来であれば蓬山で生れ落ちたときにつけられるはずであった名で呼ぶ。麒麟、丞相、奥麒、奥台輔。呼び名は数あれど、政宗を政宗として呼んだのは、政宗が呼ばれたいと願ったのは、彼の王であり彼の女妖だった。掛け替えのない、大切なものたちだった。共に道を歩むものたちだった。
 全て過去形で、完結したはずだった。その決意を変えさせたのは、信繁だ。
 苦渋に、胸が詰まる。それが遠呂智との決別を意味することを知りながらも、政宗は囁いた。
 「政宗じゃ、わしの名は。」
 どう受け取ったのであろう。信繁があるかなきかの微笑を浮かべ、政宗に応じた。
 「私は、幸村と呼ばれておりました。今では、呼ぶものもありませんが。」
 幸村が大槍を担ぎ、騎獣へと跨る。咄嗟に、政宗は行くなと縋りそうになった。奥国の、民の、政宗の最後の希望、それが幸村なのだ。幸村が政宗の王と成る天命であれば、此処で死して良い道理がない。
 「…死にに行くつもりなど毛頭ありませんが。」
 不安に苛まれている政宗を安堵させるためだろう。そのように言い置いて、幸村が告げる。
 「生きて再会した暁には、幸村、と。政宗殿にそう呼んで頂ければ幸せに存じます。」
 幸村。そのように呼ぶことで繋ぎとめることが出来るならば、喜んで政宗はその名を呼ぶだろう。だが、政宗は呼ばなかった。麒麟の性は仁。本当に国のことを思うのであれば、死地に向かう幸村を引き止め、代わりに己の使令を向かわせるべきなのだ。政宗とて、それはわかっている。しかし、絶対者である王の意思に抗える麒麟など居ない。晩年遠呂智がもたらした災禍のように、例えそれが滅びしかもたらさぬ道であろうとついてゆくのが麒麟である。
 幸村が奥国の王と成る天命であれば、このような場所で落命するはずがない。政宗は黙して、幸村の出立を見送った。











>「傍白:3」へ


初掲載 2009年10月18日