開かれた門から人々が入城してゆく。政宗はしばし立ち尽くして見送った後、一人、踵を返した。無事、昇山を果たした喜びに感極まっている人々が、それに気づくことはない。
全身、土煙の臭いが染み付いている。汗で項に張り付く髪も、この旅の間に幾分伸びたようだ。政宗は泥で汚れた袖口へ目を落とし、毛足を苛立たしげに摘むと、腹をくくったように裏口を潜った。
そこには、政宗の想像通り、まるで臣に仕える子弟のような形をした娘が、手拭いを手に待ち受けていた。年の頃、十八。些か花も恥らうような可憐さの中に、隠しきれない意志の強さが感じられるこの娘、名を、卑弥呼という。政宗に直々に仕える、女官の一人である。
卑弥呼は、政宗の頭の天辺から足の先まで検分した後、瓢国が王の妻、ねねを真似して顔をしかめた。卑弥呼は、敬意を込めて、瓢国の母、と呼ばれるこの女性に心底憧れていた。
「政宗ったら、またそない汚れて!不養生したらあかんて、何べんも言うたやないの!」
そして、その勢いで言う。
「妲妃ちゃんに怒られるんはうちなんよ?」
一瞬、政宗の銅の瞳に憐憫にも似た悲痛が過ぎった。
三年前、政宗の仕える奥国では乱が起こった。その乱で王たる遠呂智は誅され、麒麟につきものの女妖たる妲妃も落命した。
妲妃は死んだのだ。
黙り込んだ政宗の様子から、娘も、無意識のうちに己が口にした単語に気付いたのだろう。同時に、妲妃との日々を思い出したものか、僅かに目を潤ませて、視線を落としている。政宗は束の間落ちた沈黙を振り払うように、わざと眉間にしわを寄せて肩を竦めてみせた。
「馬鹿め、昇山の旅に養生も何もあるか。そんな風に気が利かんから、良い年頃のくせに、未だに男の一人も作れんのじゃ。大体、おねね殿を悪う言うつもりはないが、あの方を手本としておる時点で間違うておる。」
主を失ったためか、穢れに触れすぎたためか。再び成長を始めた政宗に合わせて、仙籍を抜けた卑弥呼の容姿は歳相応のものと化している。十五のときにこちらへ流れ、一年女仙として奥国に仕え、その後三年。確かに政宗の言うとおり十八という年は、あちらの世界のみならず、この蓬莱にあっても、嫁に行っておかしくない年頃であった。
「それでも、おねね殿はお主の年頃にはもうすでに秀吉殿と、…。」
そこではっとして政宗が見やると、卑弥呼は目を見開き、唇を慄かせていた。その頬が耳まで赤く染まっている。やりすぎた、と政宗が己の浅はかさを呪ったときには遅かった。常は明るく愛情に溢れているねねだが、ひとたび怒らせると、正しく雷が落ちるという表現そのままの悪夢が展開される。それは、桁こそ違えど、ねねに憧れる卑弥呼にしても同様のことが言えた。
政宗が娘を宥めようと手を伸ばしたのと、娘の引き伸ばされた唇から罵詈雑言が飛び出したのは、ほぼ同時であった。
散々卑弥呼に非難されながら、政宗がどうにか入浴を済ませ、ほうほうの呈で蓬山に設けられた自室へ逃げ込むと、何故か先客がいた。此処は、一体何時から自分の部屋ではなくなったのか。思わず嘆息する政宗に、男が片手を挙げてみせる。
「よう、政宗。邪魔してるぜ?それにしても、卑弥呼にやられてたなあ、ここまで聞こえたぜ〜?」
思い返して再び笑いが込み上げてきたのか、僅かに涙の滲む目を細めて噴出す男に、政宗は心底嫌そうに顔をしかめた。
男の名は、雑賀孫市という。南に位置する珠国の現在の王である。孫市が王と成り、十七年。努力の甲斐あって国政はそれなりに安定したものの、周囲が大国ばかりという状況にあっては、あまり評価されていない。孫市とは個人的に友好関係を築く政宗も、統治一千年に及ぼうとしていた国の麒麟である。孫市が立場の弱い民草や流民のため為した方策は別として、在位十七年という歳月だけを鑑みるのであれば、評価するに値しないと思っている。
それゆえ、本来であれば、このような場所に居て良いものではない。もっと、民のため、馬車馬の如く我武者羅に働いてもらわねば。
鬼のようなことを思った政宗が、そう指摘しようとしたとき、何かが腹部へ飛び込んできた。視界いっぱい、金が翻る。金毛をまとうことを許されたものなど、この世界にあって一種類しかない。仁愛を司り、民の代弁者たる神聖な獣、麒麟だ。
空を駆けるものの例に漏れず、麒麟の目方が軽いとはいえ、政宗も同じく麒麟である。それなりの衝撃を受けて胸を詰まらせていると、自らが招いた災難など露知らず、珠国が麒麟ガラシャが晴れがましい笑顔で政宗を見上げていた。
「政宗、会いたかったのじゃっ!息災であったろうか?」
「…たった今、息災でなくなったわ。馬鹿め。」
ガラシャに飛びかかられたせいで、腹が痛い。嘆息をこぼして妹分を退けようとする政宗の腕をしかと掴み、ガラシャが粟食った様子で問いかけた。
「な、それは大変なのじゃ!大丈夫か?政宗、待っておれ!典医、典医を呼ばねば…!」
一瞬の沈黙。どっと声を上げて笑い出した孫市に、つられて政宗も呆れから笑みを溢した。ガラシャはその反応が解せず、困った様子で、主君と友の顔を交互に見やった。
夜になった。無事昇山を果たした人々を歓迎する宴も一段落ついた今、城内は静まり返っている。それまで寝台に横になっていた政宗は音もなく立ち上がり、窓から抜け出した。
「小十郎。」
呼べば、御意と応えて政宗の影が揺らいだ。小十郎。それは、墨を流したような漆黒の身体を持つ政宗の使令である。無形とその特性ゆえほぼ全能に近い存在ではあるが、決して不死ではない。神仙が死に至ることもあるように、相応の武具をもってすれば傷つけることも出来る。
初めて、政宗が魅了した使令でもあった。捕らえてから、一千年以上の歳月を共に生きている。
「上へ。」
そう政宗が口にすれば、柔らかな闇が全身を包み込み、一瞬で屋根の上へ到着していた。星一つない闇夜だ。政宗は屋根に背から倒れこむと、大きく深呼吸した。
こうして無情にも広がる一面の闇を見るたび、政宗は亡き遠呂智のことを思い出す。そして、彼のことを最期の最期で見失った悲痛に胸を詰まらせる。だが、涙は出てこない。政宗の性は麒麟、民意の代弁者だ。暴虐の限りを尽くした王のため流す涙は持ち合わせていない。そのことが、尚更、政宗を自己嫌悪に陥らせる。
政宗は寝返りをついて、昼間、孫市に言われたことを思い返した。
「なあ、…いつまで、昇山に付き合うつもりなんだ?卑弥呼もガラシャも心配してる。別に、政宗が気にかけるこたないと思うぜ?」
王を持たぬ麒麟が蓬山にあるは道理であり、それを求めて民が黄海を渡るのもまた道理。その際に、幾人かの命が散らされようと、その原因は麒麟によるものとすべきではない。
政宗は左手で、腰元に結わえた宝玉に触れた。怪我を癒すのみならず、穢れを払う至宝の玉だ。奥国の宝でもある。
政宗はこれまでの生で、あまりに穢れと親しみすぎた。右目が崩壊した幼少期、死臭渦巻く城に在り続けた先年。長年を経て蓄積された穢れが、政宗の自律神経を冒し、本来ならば在らざるべき成長へと向かわせている。苦肉の策として、こうして玉に触れ溜まった穢れを少しずつ浄化することで、辛うじて、自壊を免れ再生へと向かっている。それが、政宗の現状だ。本来ならば、黄海などに身を置くべきではない。それは、わかっている。わかってはいる。
だが、孫市は知らないのだ。知らぬから、そのように政宗の安否を気遣い、慰めを口にする。しかし、真実を知ればきっと憤るだろう。見かけによらず意外と潔癖なところのある孫市のことだ、軽蔑するかもしれない。あるいは、友の心中を察して、憐れむだろうか。
先王崩御の折、他国から寄こされた増援の中に、政宗が新たなる奥王を見出していたと知れば。
王の着任が遅れれば、それだけ、民に辛苦を味わわせることとなる。国には妖魔が跋扈し、田畑は荒れ野と化し、人々の心も荒む。当然、黄海にあって命を落とすものの数も増す。それらの犠牲は、政宗個人によるものだ。事情を知らぬ孫市が言い置いたように、致し方ないことと割り切って良いものではない。
「…曇りなき心の月をさきだてて、」
浮き世の闇を照してぞ行く。
気付けば、かつて遠呂智に捧げた句が自然と政宗の唇から零れ出ていた。
政宗にとって、遠呂智との死別は、失道でかかる病よりも辛いものであった。あの離別から、三年。否、最後の一年も含めれば四年だろうか。
無二の主の名を呼びながら無邪気にその後を追いかける政宗を、妲妃が転ぶからと呆れた様子で注意する。それに対する反論が政宗の口を吐いて出るより先に、遠呂智が己の麒麟をその腕に抱き上げる方が早いのが常であった。何と、幸せな日々であったことか。決まって政宗は、先ほど口にしかけた不平など忘れ、遠呂智に抱きついたものだ。
あの頃は、一千年に届こうかという善政を敷く己の王が自慢で仕方なかった。政宗の小さな胸は常に遠呂智への誇りで満ちていた。全てが光に満ち満ちていた。遠呂智に付いてゆけば間違いなどあろうはずがない。心から、そう信じ込んでいた。
あの幸福が当然のものとして、政宗の傍らにあった日々から、未だ月日は四年しか流れていない。四年、それは長くも短い年月だ。実際、政宗は、あの幸福を過去のものとして割り切れずにいた。
恋に胸焦がす娘のように、あの日見た赤の名を紡いでみる。新たな王の名を、信繁という名を。
政宗を導く月は、最早ない。今や、政宗は己の心だけを頼りに浮き世の闇を行かねばならなかった。
初掲載 2009年10月12日