昇山   十二国記パラレル


 幸村が蓬莱と呼ばれる地に流されたのは、まだ幼少の折である。
 武家の次男坊として生を受けた幸村は、丁度母に手を引かれ、山を越えていた。祖父の代から与している名家が、天下を争う戦に破れた直後だった。戦の前、もしもの際にはと託された父の一言で、母は他家に与することを決めた。迷う間にも、敵の魔手は伸びてくる。母は武家の嫁として一族を纏め上げ、援助を乞うて山越えを決行した。天変地異が起こったのは、山頂に辿り着いたときだ。轟と吹いた暴風に足を縺れさせ、崖を下った。咄嗟に差し伸べられた母の手が、幼子との離別への絶望に見開かれた眼が、断片的に記憶に留まっている。
 次に目を見開いたとき、幸村は既に蓬莱に在った。黄海の生まれで、今は斐国に草として飼われている仙、くのいちに拾われたそうだが、直後襲い掛かった発熱ゆえか記憶は曖昧だ。己の顔を覗き込む仮面の男を、赤鬼と呼んで笑われたことを覚えている。これが真田幸村と、斐国が王、武田信玄の出会いであった。
 それから、三十余年。幸村は信玄から信の字を頂戴し、信繁と名を改め、武芸に励んでいた。二十三の折に幸村が信玄の勧めで仙となったのは、その方が都合が良いためだ。幸村の生れ落ちた世界と蓬莱とでは、言葉が違う。子供ゆえか、元々の才ゆえか、幸村は飲み込みが早く、瞬く間に読み書きを覚えた。しかし、周囲が仙ばかりの王城を住まいとする状況にあっては、発声の方がいまいち上達しなかった。仙籍の脳は、言語を言語としてではなく、意思疎通を図るものとして無意識のうちに修正をかける。そのため、幸村は信玄に命じられ人里に下りるまで、己があちらの言葉を使い続けていることにも気付いていなかった。これには、信玄も苦笑した。今更、幸村に一から発声を覚えろというのも酷な話だ。幸いなことに、幼子であった幸村も十分成長し、仙籍に入り成長が止まっても不便しない年齢となっていた。その上、幸村は容姿が変化したことで、胎果であったことも露呈した。胎果というのは、蓬莱で生まれるべきところを、誤ってあちらの世界へ生れ落ちてしまったものを指す。幸村はこれにあたり、一月も経つ頃には、父に良く似ていると評された面影がなくなってしまった。信玄はこれも天の采配と捉えて、幸村を己の手元に置き、仙籍に入れたのだった。
 はたして、信玄が何を思って胎果を引き取ったのか、本当のところを幸村は知らない。額面どおり、本当に興と捉えての行動かもしれない。それまでの長きに亘って冷遇される傾向にあった海客や山客、胎果を優遇した奥国に倣ってのことかもしれない。奥国は治世一千年にも届こうかという大国であり、王麒麟共に胎果が務めている。そのため、それら異世界から流れてきたものに対して比較的優しい策を講じることで有名だった。だから、信玄はこれも縁起物と認識し、奥国の長寿に肖ろうとしたのかもしれない。
 その大国奥の国境がふいに鎖されたのは、昨年のことだった。訝る信玄ら、他国の王の元に奥麒が床に就いたらしいと噂が流れてきたのは、一ヶ月後のことだ。国内では虐殺が繰り広げられているらしい。名君として名高い奥王、遠呂智が失道したという報は瞬く間に広まった。乱心、の一言で済ませるにはあまりに情け容赦ない殺戮だった。
 刻々と時間は流れてゆく。その間にも民は蹂躙され、滅ぼされてゆく。救いの手を差し伸べたいのは山々だが、他国の境界を侵せば、これすなわち、己の死に通じる。天の綱が定めるところを、一介の王が犯して良い道理がない。失道の果て、遠呂智は滅ぶだろう。だが、それまで、奥国に残されたものたちを見殺しにするのはあまりにも酷だ。
 奥国の臣民に助けを乞われるに至り、信玄は苦肉の策を講じた。懐刀である幸村を斐国にあっての職務から解き放ち、旅券を持たせ、一個人として奥国に向かわせたのだ。元々、幸村は胎果であり、あちらに流されたがゆえに、何れの生まれかはっきりとしないところがある。そして、まず、斐国の生まれではなかった。幸村は以前信玄から下賜された仙も斬れる武具を手に、騎獣を駆って奥国へと旅立った。
 信玄は直接奥の国政に介入したわけではないという体裁を取り繕っただけだ。もしかすると、天の綱に触れ、死するかもしれない。それを知っているのは信玄と、此度の騒動にあたっては奥の隣国ゆえ何処よりも気を揉み、友同様の策を選択した越国が王、謙信であった。彼らに仕える麒麟であった。
 幸村は何も知らされていなかった。己の主ならば上手くやるものと、盲目なまでに信じていたのだ。その腹のうちの覚悟を知っていたならば、提言したであろうに。もっとも、幸村の提言如きで信念を曲げるような二方でもなく、また、幸いなことに杞憂で終わったが。
 幸村は己同様、他国から寄せ集められた胎果や海客を率いて、死臭漂う城に踏み込んだ。廊下、個室、あちこちに死体が転がっていた。腐臭は何時から撒き散らされているのだろう。飛び回る蝿を払い除け、幸村たちは進んでいった。奥国にあって幸村たちに許されたことなど、数え切れるほど少ない。そのうちの一つが、失道ゆえの病魔に冒されている麒麟の保護であった。
 麒麟の確保が何より優先される状況にあって、恩を仇で返すような心地だ、と誰かが呟いた。それは、誰もが思うところであったろう。彼ら異世界の徒が優遇されるに至った発端は、奥国が王、遠呂智にあった。しかし、今はただ遠呂智を滅ぼすために、幸村たちはここに在る。また、胎果にとって冬の時代が来るのだ。口に出さずとも、誰もが思った。
 奥麒が保護されたのは、四半刻の後だった。見つけ出したのは、昨年までこの国に仕えていた前田慶次だという。今は遠呂智を斃すべく向かった部下から託されたという麒麟は、兼続の腕の中で毛布に包まれている。
 「痩せ衰えているのだ。」
 誰にともなく呟き、兼続が唇を噛み締めた。毛布から覗く手は小さく、骨が浮いている。年の頃、十半ばに達しない外見を持つ子供のものにしては、あまりに痩せ過ぎている。雪の如き肌という表現があるが、正しく、雪の如く白く血の気のない肌であった。
 「早く、治療を受けさせなければ。この地ではあまりに血が流れすぎた。仁徳を司る麒麟にとって、在るだけで障る土地だろう。」
 麒麟が亡くなれば、王である遠呂智は死ぬ。それは奥国の国民に、一時の勝利をもたらすだろう。だが、新たな麒麟が王を選任する歳へ成長するまでの間、王の不在がもたらす荒廃に耐えねばならない。兼続の発言に、幸村も頷いた。
 元々、今回の目的は、遠呂智討伐ではない。他国の息がかかった兼続や幸村が王を倒せば、天の綱に触れるとも分からない。その大業は、黄海の生まれゆえ国に戸籍を持たぬ慶次に任せ、幸村は麒麟を保護出来たことで良しとせねばならなかった。
 良しとせねば、ならなかったのだ。




 奥王遠呂智が崩御してから、四年の月日が流れた。四年の月日は短いようで長い。王を亡くした国が荒れ果てるには十分な長さだ。
 武芸一辺倒に傾きすぎたため、三年の暇を命じられ、諸国を巡るよう促された幸村が、奥国を訪れたのは必然であった。幸村は常に、かつて己が踏み込み結果的に終わりを下した奥国が気にかかっていた。何より、最後に見た奥麒の痩せ衰えた手が忘れられなかった。
 昇山を試みようと思い立ったのは、奥国の現状に胸を痛めたためだ。雑草すら伸びない畑は手入れされることもなく、放置されている。妖魔が出没するためか、立ち並ぶ家の悉くに檻が巡らされ、昼にあっても閑散としていた。
 幸村は豊かさの象徴であった頃の奥国に訪れた経験がない。しかし、いまだかつて、斐国や越国でこのような光景を眼にしたことはなかった。これこそが、王を失くした国の惨劇なのだろう。
 罪滅ぼしの念がなかったといえば、嘘になる。実際、蓬山に足を向けさせた第一要因は、奥国の現状に対するある種の責任感だった。幸いなことに、幸村は胎果ゆえ、生まれが不明だった。一縷の望みと手を伸ばすにはあまりに頼りないが、もしかすると、奥国の生まれかもしれない。少なくとも、王となる可能性は皆無ではなかった。
 蓬山には麒麟がおり、王の到来を待っている。中には稀ではあるが、自ら地上に降り立ち王を探す麒麟も在るらしい。珠麟がこれに該当するという。そして、ただびとであった遠呂智を王に戴いたとき、奥麒もそうしたのだと伝えられている。蓬山の周囲には黄海が広がり、黄海に通じる門はこの世界に四つある。門はそれぞれ年に一度しか開かず、今日は、その一つ、令乾門の開かれる日だった。
 元来黄海の生まれであるくのいちの先導もあって、幸村の昇山は順調に進んだ。何より、妖魔の出現も少なかった。無論、犠牲者は皆無ではなかったが、現状として一名だ。それも、命ばかりは取り留めている。ただでさえ犠牲者が少ないと言われている例年に比べても、この結果は異常だった。
 鵬翼に乗ったのではないか、と、くのいちが幸村に告げたのは、黄海に繰り出して一週間後のことだった。深い闇の中、妖魔を呼び寄せぬよう最小限焚かれた火を照り返し、欄とくのいちの眼が光っている。
 「鵬翼?」
 「王が居る昇山は、他に比べて順調に進むんです。」
 そこで人の悪い笑みを溢し、くのいちが身を乗り出した。
 「もしかしたら、その王は、信繁様かも〜?って、皆言ってますよん?」
 「…私はそれほど徳のある人間ではない。」
 第一、罪滅ぼしの念があっての昇山に徳も何もないように思われ、本心からそう告げる幸村の言葉に、くのいちは嘆息した。
 「ま、誰だって最初は、自分が王になるなんて思ってるわけじゃないですけど。そう思ってる奴は大概違いますもん。」
 その言いように幸村は内心溜め息を吐き、反論を探すべく首を巡らせ、木に背を預けて瞼を閉ざす青年を見やった。
 「あの方はどうだ。藤次郎殿など、破格の器ではないか。」
 藤次郎と呼ばれる銅の髪を持つ青年は、人に命ずることに慣れ切ったもの特有の傲慢さと指揮能力の高さを備えていた。王たる器とは幸村のような武人ではなく、あのような者を指すのだ。幸村は藤次郎の才を買っていた。まるで庭を散策するかのような軽い足取りで、迷いを一切見せずに進む藤次郎のことを、愚かと悪し様に呼ぶものもあったが、何故か、藤次郎の選んだ先には危険がない。先に何が待ち受けているのか知っているかのようだ、と驚嘆に眉をひそめて口にしたのは何れの剛氏であろう。だが、藤次郎にあっては本当に、先のことが寸分の狂いなく読めているように幸村は思った。
 寝言だろうか、微かに唇が言葉を紡いでいる。微笑ましく見守る幸村の視線の先で、一瞬、ぞわりと藤次郎の影が揺らいだ。
 昇山は大業である。鵬翼に乗ったと評されるほど安楽な過程と言っても、やはり、想像以上に疲労が蓄積していたらしい。目を瞬かせる幸村の耳に、くのいちの呆れ声が届いた。
 「藤次郎は絶対違いますよ。だって、毎回この旅に加わってる面子の一人だって聞きましたもん。幸村様ったら、知らないんですか〜?ちょっと間抜け☆ま、失敗して王の選から外れてるのに毎回旅に加わるなんて、変わってますよね。佐助なんかは、王への仕官を狙ってるんじゃないかって言いますけど、あの態度じゃちょっと…ね〜?」
 佐助とは、今回の昇山に加わっている剛氏の一人である。剛氏間での情報交換は旅の常らしく、くのいちは度々佐助から今回のように情報を仕入れてきていた。くのいちは情報を収集する術に長けており、幸村も大変重宝する部下だったが、得た情報が必要とされる事態まで隠し持っている傾向にあった。今回も、幸村は例に漏れずくのいちからその報を受け取っていない。それにもかかわらず馬鹿にされ、憮然として叱ろうとする幸村を制し、くのいちが口元へ手を当て首を傾げた。
 「…そいえば、佐助といえば…、今日仕入れた情報なんですけど、奥麒に御目文字の叶ったものはいないそうですよ〜?随分穢れた場所にいたみたいだし。…もしかしたら、本当は既に亡くなっていて、蓬山が秘匿してるだけかも…、な〜んて?まあ、不穏ですよねぇ。」
 それは、剛氏の間で実しやかに流れる噂だった。その情報を知らされた幸村は眉をひそめると、物思うようにくのいちとの間に焚かれた薪を見つめた。あの童の姿をした麒麟が、亡くなった。実際に先の奥王崩御に立ち会った幸村には、その噂をきっぱりと否定する術がない。麒麟と聞いて幸村が常に思い浮かべるのは、美麗な青年の形をした斐麒高坂や一年前拝謁を賜る機会を得た珠麟ガラシャではなく、毛布から覗く小さな手だった。今なお、あの痩せ衰えた腕が強烈に記憶に留まるがゆえに、幸村が否と言い切れないのも仕方ない話ではあった。事実、麒麟の治癒を司る神仙女カでさえ、匙を投げたと聞く。女カは、一堂に会した信玄含む他国の王麒麟らにこう言ったらしい。これほど穢れ切った麒麟ならば、治療するよりも見限った方が早い。王を亡くし女妖さえ失った麒麟など、死なせてやる方が情けというもの。後十年も経てば新たな麒麟が王を選定する儀に移れるであろうから、と。
 思いの外、考え事に傾注していたらしい。くのいちの寝息が耳に届き、幸村は小さく嘆息した。明日の出立も早い。幸村は毛布を引き上げた。
 あの童が落命した。噂に過ぎなければ良いと、心から思った。


 翌朝、幸村は騎獣の綱を引き、泥道を歩いていた。今は僅かに泥を残すばかりのこの道は、本来は、橋をかけねば渡れぬほどの大川であり、数年に一度氾濫することもある昇山にあっても五指に入る危険地帯だという。
 やはり、王がいるのだ。鵬翼に乗ったのだ。自然、逸る人々の足取りは軽く、速くなる。
 この調子ではこれからも長く続く旅に耐えられないと呆れたように窘めたのは、藤次郎だった。見やれば、剛氏達も頷いている。昇山に際して、黄海に繰り出すのは何も王候補だけではない。荷担ぎや飯炊きとして連れて来られた平民もいる。彼らは当然の如く、騎獣など持たず、徒歩である。
 「疲労が蓄積しては、いざというときに対処出来ぬ。黄海にあって、それは致命的なことじゃ。」
 幸村の横に並んだ藤次郎は、肩を竦めてみせた。水を差されたと感じるものたちの視線から逃げてきたのだろう。傲岸不遜な顔の裏側に、酷く繊細な心を隠し持っている。それが、幸村の藤次郎に対する評価だった。良家の子息なのだろう。腰に括りつけられた玉をしきりに弄る白い手は、女のそれのように綺麗に整えられている。危険極まりない黄海にあっても武器を所持していない点から判断すれば、藤次郎はおそらく文官の出だ。だが、その立ち振る舞いには、武術を嗜んだもの特有の慎重さがあった。
 幸村はこの藤次郎が見せる矛盾に、些か納得しきれないものがある。武器の扱いを知るものが、武器を何処より必要とされる黄海にあって武器を持たぬなど愚の骨頂だ。それにも関わらず、藤次郎は武具を所持していない。見て取れる範囲で確認出来る藤次郎の所持品は、背負われた最低限の荷物と腰に括られた玉のみである。玉はいざというとき妖魔を酔わせ、逃げるための代物であろう。人が酒に酔い痴れるように、妖魔は玉に酔う特性にあった。
 しかし、何か訳あってのことであろうと自らを納得させると、幸村は昨夜から抱いていた疑問を藤次郎へ投げかけた。
 「藤次郎殿は、これまでも昇山の旅に加われていらっしゃるそうですね。何か、お考えがあってのことなのでしょうか?」
 「…それは、決して王と成る見込みのないわしへの嫌味か?」
 「いえ、決して、そのようなことは…!」
 軽蔑したように目を眇められてしまい、幸村は焦った。本当に、そのような意味で問うたつもりは幸村にはなかったのだが、穿った受け止め方をすれば藤次郎の言うとおりである。必死に弁明しようとする幸村の様子に、一瞬の後、藤次郎が噴出した。
 「気にするな。からこうてみただけじゃ。」
 そして、ひらりと手を振り、藤次郎は続けた。
 「お主こそ、何を求めて山を昇る。見たところ、何れかで仙籍を得ているようじゃが…仙ならば天に道を強いられることもなく、責務に駆られることもない。子も、設けられる。にもかかわらず、自ら率先して王たらんとするなど、愚かと思うたことはないか?」
 思わず、幸村は藤次郎をまじまじ注視した。みな、王たらんとして危険を冒し旅を続けているのだ。まさか、旅の一行に加わるものから、そのような話が出てくるとは夢にも思わなかった。だが、確かに、藤次郎の言うことは尤もである。当初こそ名君であったものも、何れは積年の責務や生に膿み、失墜する。それは、歴史的にも稀な大国を築き上げた先王、遠呂智の例を見るに明らかだ。統治四百余年に及ぶ信玄や謙信でさえ、何れは、遠呂智と同じ道を辿るのであろう。王たちの歴史がそれを証明している。例外は、仁義を貫こうとして他国に兵を送り、天の綱に触れた王や、謀で殺められた王たちだけである。
 幸村は幾らか言いよどんだ末、口を開いた。
 「私は、胎果なのです。それゆえ、帰る場所を持ちません。」
 それは、長らく幸村の中で燻っていた不安でもあった。
 「あちらに流された私は、国を、帰る場所を失いました。そして、再びこちらへ戻ったことで、あちらでの生活も失いました。幸運にも今はある方に拾われて帰る場所がありますが、それすら、仮初のものでしかありません。」
 すらすらと口を吐いて出る言葉に一番驚いたのは、誰であろう、幸村本人であった。内心、己は斐すら仮初の場所と受け止めていたのだ。否、今にして思えば、幸村を拾った信玄でさえ、そのように考えていた節がある。職務から解かれ、一個人として加わることとなった先奥王崩御の乱。そして、こうして諸国巡りをさせられている現状。それらが無情にも、幸村に信玄の心のうちを知らしめる。幸村は唇を噛んだ後、小さく嘆息した。
 「勝手な言い草かもしれませんが、私はただ…帰る場所が欲しいのです。本当に、拠り所と出来る場所が。」
 束の間、沈黙が続いた。藤次郎に見限られただろうか。藤次郎の器を認めるがゆえに、己も認めてもらいたいと欲する幸村は内心大いに不安に駆られた。品定めするように向けられた視線に、ぞくりと幸村の背を緊張が駆け上る。それは、藤次郎が度々幸村に向けてみせる眼差しだった。やがて、藤次郎は呆れた風に鼻を鳴らした。
 「ふん。ただそれだけのために、王たらんと欲するか。」
 「…やはり失格でしょうか。」
 「捏ね繰り回された代物よりは、余程、ましな理由じゃ。」
 そこで、眼差しを遥か遠くへ向け、藤次郎は呟いた。
 「わしも胎果じゃ、奇遇じゃな。まったく、蓬莱のものの考えることはようわからぬ。王に、麒麟、か…。」
 次第に、呟きは一人ごちるものとなってゆく。
 「王はそもそも人じゃ。ならば、人の心もわかろう。しかして、麒麟は?一見して人のようじゃが、内実は獣でしかない。だから、人の心がわからない。主への愛にかぶいて、国を傾ける。そのような獣を奉るなぞ、…馬鹿げておる。」
 麒麟が天の代わりに仁でもって王を選定し、選定された王が麒麟を従え、国を治める。それが当然のこととしてある蓬莱にあって、しかも、王を選ぶ旅の道程にあって、藤次郎の漏らす考えは異端だ。確かに、王や麒麟も持たぬ黄海の民の中には、王や麒麟は必ずしも必要ではないと公言して憚らないものもいる。海客や山客にしても、そうだ。そして、家族や友といったものたちが、先王の虐殺を免れなかったものは多く、彼らの大半は新王就任を待ち望みながらも、王や麒麟という存在にやりきれない不安を抱いている。
 だが、藤次郎の反応はそれらとは一線を画しているようでもあった。一体、何が藤次郎にそのように語らせるのであろう。幸村は内心眉をひそめて、藤次郎の視線の先を追った。柔らかな銅の髪が、風に流されている。日の光に照らされたそれは、麒麟のみが許された金毛にも見える。無論、目の錯覚だ。藤次郎の髪は精銅されたばかりのそれを思わせる銅(あかがね)だ。幸村はしばし躊躇った末、自分の思うところを告げた。
 「麒麟は、仁を体現したものであると聞きます。であるならば、人以上に「ひと」の心を解するものが麒麟なのではないでしょうか。」
 藤次郎は黙して語らない。ただ、物思う視線を空へ這わせている。


 黄海にあって妖魔の出現が少ないときは、おおよそ二つの型に分けられる。一つは、旅団の中に王が居ること。これは、妖魔の出現のみならず、危険の激減や苦労の軽減といった風に、各所でその恩恵を確認することが出来る。もう一つは、近隣に、それら一介の妖魔では太刀打ち出来ぬほどの凶暴な大妖がいること。その場合、回避を促すために先任の剛氏たちが印をつけている場合もあるが、これが初遭遇であった場合、漂う異様な雰囲気から悟るしかない。
 剛氏たちは、鵬翼に乗ったことを歓迎していたが、一方で、王候補を失った際にかかるツケを恐れてもいた。道程の半分を経過したところで、犠牲者は一人。それも、死を免れている。この場合、王候補を亡くした場合に支払うツケは大きい。自然と、剛氏に先行されての歩みは慎重なものとなり、じりじりとした足取りに焦るものたちも出てきた。
 妖魔の襲撃があったのは、その晩のことだった。はたして、それを襲撃と呼んで良いものか。可笑しな話ではあるが、来訪と呼んだ方がしっくり来る。それまでも度々、空を翔る影の姿は目撃されていた。あるものは、炯々と目を光らせた大きな塊が闇を過ぎったのだと震えながらに言い、またあるものは、あれは確かに麒麟だったと目を輝かせて言った。黄金の鬣をなびかせて駆ける姿は、国の至る所へ建立されている廟に飾られた御姿そのままであった、と。蛇のようであったと呟くものもおれば、艶やかな鸚鵡が飛び立つ様を見たと言い出すものもある。蠢く闇であったと告げるものも存在した。
 一体、幸村には何れの情報が正しいのか分からなかった。実際に目撃していないからだ。最初に目撃情報が出て以降の目撃譚は、単に枯れ木を見間違えたのかもしれず、またあまりに統制の為されていない情報群ゆえに、一概に気の迷いと決め付けることは出来なかった。
 だが、尋常ならざる事態が進行していることだけは事実だった。当初こそ、鵬翼に乗ったのだと急いていた人々の足取りも、次第に、重苦しい代物へと化していった。もしかすると、大妖が潜んでいるのではないか。これまでの妖魔出現は、その先触れだったのではないか。
 こうなると、剛氏の制止も空しい。密やかに流れ出した噂を堰き止めることなど出来ず、とうとう妖魔の来訪が引き金となり、別働隊で出立すると言い出すものたちが出始めた。彼らは、何よりもまず短期間で蓬山に到着することだけを目標に掲げ、旅を続けるらしい。彼ら一行には、先行者とする剛氏が不在だった。
 幸村個人としては、そのように決めた張本人がどうなろうと、それはその者の責任である。だが、連れているものたちにも同じ労苦を味わわせるのは如何なものであろう。しかし、最早意固地になっている彼らは幸村の戒めなど意に介さず、召使は主と共に道を同じくするが道理と吐いて捨てた。昇山にあたるものはみな、本心はどうあれ、表面上は王候補として恥じぬ振る舞いをしている。それが、ここに来て性根が露呈されたのは、焦りゆえであろうか。
 「浅はかなことよ。」
 唇を噛み締め、慌しく出立の支度を始めた一行を見送る藤次郎の目にはやりきれない思いが広がっている。
 「いつもこうじゃ。わしの行動は裏目に出おる。…全て、弱い立場のものにツケがやって来る。」
 そこに含まれた苦渋に、幸村は身に詰まされるものを感じ取った。何故、藤次郎は原因が己にあるかのように悲しんでみせるのだろう。背に負われた所持品は随分嵩が減っている。聞けば、無理矢理駆り出されることになった一行の召使たちに、分けてやったのだという。黄海で手に入る水を浄化する貴重な石も、いざというとき妖魔の気を逸らす玉も、だ。
 もしかすると、藤次郎はこのような現状を憂いて、王に提言するためだけにこの旅を幾度も続けているのかもしれない。


 後を行く幸村ら一行に、先駆けしたものたちのツケが回ってきたのは、間もないことだった。彼らは窘める剛氏がいなくなったことで、火を抑えて焚く必要性を感じなくなったらしい。また、乾物だけでは満足出来なくなったのか、乗っていた馬を食物として消費してもいるようだ。血の臭いは妖魔を惹き付ける。以来、妖魔の出現が立て続けに起こった。
 幸村とて、元は武で鳴らした斐国の官である。くのいちも情報収集に特化しているとはいえ、武に通じた草だ。妖魔を倒すことは決して不可能ではない。だが、旅団には、荷担や飯炊きとして雇われた、戦うことを知らぬものもいた。その上、妖魔に血を流させることは更なる妖魔の出現を意味する。幸村は時に槍を振るう一方で、斃せる相手からわざわざ逃げる術も身に着けねばならなかった。
 鵬翼を逃したのではないか。あちらの隊に、王候補がいたのではなかろうか。一時、そのような噂が人々の口に上るようになった。しかし、そう言いながらも、誰もそれを信じてなどいなかった。別働隊を率いた王候補は言うまでもなく、その部下に至るまで、それらしき傑物は見受けられなかったためだ。やはり、彼らの無軌道な振る舞いがツケとなって襲い掛かっているのだろう。くのいちと情報交換にやって来た佐助は、溜め息混じりにそう溢した。一週間前までは一人だけであった犠牲者は、今や数を増し十余人と化していたが、それでも死者はいないのだ。剛氏が鵬翼を逃してはいないと固く信じるのも、道理ではあった。
 旅団が二つに分かれる契機となったあの不可思議な来訪は未だに続いていたが、誰も、それを気にかけなくなった。その姿を見かけた晩は絶対と言って良いほど、妖魔の襲撃がなかったからだ。以前麒麟らしき獣が空を駆ける姿を目撃したものが、あれは台輔が一行の安全を守るため使わした使令なのだ、と言い出してからは、みな、心のうちでそれを信じ、安心するようになった。そうして、何時からか、実は奥麒が亡くなっているという噂は剛氏の話題に上らなくなった。剛氏も、麒麟の加護を望んでいたのだ。


 幸村の元に男が助けを求めてきたのは、翌朝のことだった。幸村は、男に見覚えがあった。先行隊に加わっていた、荷担ぎの一人だ。男は酷く怯えた様子で、話を聞こうとやって来た藤次郎の差し出した毛布に包まり、肩を震わせていた。
 妖魔が出たのだという。それも、未だかつて見たこともないような大妖だ。
 佐助ら剛氏の想像通り、剛氏が不在である先行隊では、火を抑えて焚く必要性が感じられなかったらしい。また、主君の命で馬が捌かれ、振舞われたという。
 一行が、あれこれ口出しをする剛氏から解放された喜びを噛み締めることが出来たのは、たった、一晩のことだった。翌晩には妖魔が出た。幸い、弱い妖魔であったため撃退することが出来たが、死臭に惑わされたのだろう、翌晩、前夜以上の妖魔が出現した。おかしい、と誰もが口に出さぬものの、思い始めたのは二晩後のことだった。ぱたりと妖魔の出没がなくなったのだ。素直にその事態を喜んだのは、男の主君、ただ一人であった。ただ、その主君にしたところで、内心では来る災厄に怯えていた節がある。
 大きな妖魔だった、と渇き切った目をした男は、恐怖から歯を鳴らして言った。本当に、空を覆うほど大きな妖魔だった、と。それから逃げることが出来たのは、男が剛氏や藤次郎に教わった言いつけを守り、じっと木の陰に身を潜め動かなかったからだ。
 妖魔はしばらく男の周囲を詮索していたが、木と男の垣根が分からなかったらしい。また、逃げ出しざま放った、藤次郎から貰った玉も功を帰したようだ。玉を噛み砕いた妖魔はしばらくごろごろと咽喉を鳴らして、玉の放つ芳香に酔い痴れていた。その間も、男は息を潜め、木に縋りついていた。心底、死ぬのが恐ろしかったのだ。
 好機と見て取ったのだろう。男の視界の片隅で駆け出したものがいた。男の主君だ。主君は、自らの振る舞いが元でこの事態と相成りながらも、部下を見捨てて先を急ごうとしたのだ。
 一瞬だった。
 「…あの男は死にました。あんな奴がどうなろうと、俺は、知ったこっちゃない。」
 そこでようやく安堵したものか、滂沱の涙を流して男が呻いた。
 「お願いです。勝手な願いとは分かってます。でも、お願いします。みなを救ってください。あんな奴のために死ぬなんて、…間違ってる。」


 「わしのせいじゃ。」
 藤次郎がそう溢したのは、生き延びたものたちを救うために、幸村が出立の支度を整えたときのことだった。強大な敵を前に、浅はかと人は嗤うかもしれない。だが、助けるを求めるものを前に、幸村はどうしても知らぬ顔など出来なかった。無論、佐助を含む剛氏やくのいちには引き止められた。くのいちが以前言った通り、剛氏たちは幸村を新たなる王と見定めている節があった。幸村を失うことで、ツケがいっぺんに襲い掛かるのが怖いのだろう。しかし、己がそのような器にあるとは到底信じることの出来ない幸村には、剛氏たちの必死の制止も空しい努力でしかなかった。
 「何故、藤次郎殿がそう仰られるのか、私には分かりません。」
 「…わからぬのも無理はない。」
 そう小さく言い捨てる藤次郎の声調には、強い迷いが聞き取れた。何故、何事を迷っているのかいぶかしむ幸村を真っ向から睨みつけて、藤次郎が言う。
 「のう、信繁。わしは言うたことがなかったな。わしは、以前、お主を見たことがあるのじゃ。以来、わしはお主のことを認め難く思ってきた。憎んでこそおらぬが、苦々しく思うておった。お主らの…お主のせいで、わしの生は転変してしもうた。」
 「藤次郎殿…?」
 「政宗。」
 急に告げられた単語を理解できず、幸村は目を瞬かせた。藤次郎は口を一文字に引き伸ばして、まるで女が敵に操を捧げざるを得ない状況に出くわしたかの如き苦渋と決意を滲ませ、囁いた。
 「政宗じゃ、わしの名は。」
 それがあちらの世界での名を示すのだとようやく悟り、幸村はあるかなきかの微笑を浮かべた。
 「私は、幸村と呼ばれておりました。今では、呼ぶものもありませんが。」
 それでも、幸村は片時たりとも、あちらの親に貰った名を忘れたことなどなかった。忘れることなど、出来なかった。
 先王崩御の乱の際にも用いた大槍を担ぎ、騎獣へ跨った幸村を見上げる政宗の目には不安が色濃い。見え隠れするのは、幸村を失うことに対する恐怖だろうか。
 「…死にに行くつもりなど毛頭ありませんが。」
 安堵させるため一言言い置いて、幸村は憂い顔で思案している様子の政宗に笑いかけた。
 「生きて再会した暁には、幸村、と。政宗殿にそう呼んで頂ければ幸せに存じます。」


 幸村がくのいち他数人の有志とともに、男の言う現場へ到着したとき、辺り一面死臭が漂っていた。午の刻ということもあって、妖魔の姿はない。幸村は木の陰に隠れたまま、放心したようにこちらを見つめている幾人かを保護することとなった。一面荒れ野で、所々枯れ木が立っている状況にあっては、これだけの人数を保護出来ただけで僥倖だろう。幸村は周囲を見渡し、小さく唇を噛み締めた。荒れ野、なのだ。仮にこの場所を回避するとしても、近隣は通らざるを得ない。そのとき、必ずやその大妖は一行に襲い掛かるだろう。
 そのときだった。幸村の肩口に衝撃が走った。見れば、虎を更に二回り大きくしたような妖魔が、鍵爪を血で濡らしている。昼に寝、夜を活動の時とする妖魔であるが、まだ、死肉を漁っていたらしい。幸村は襲い掛かる痛みに呻き声を漏らして、槍を構えた。
 「信繁様っ!」
 「来るな、くのいち!お前の手に負える相手ではない!」
 だが、己の手に負える相手とも思えない。ぐるぐると咽喉を鳴らしながら周囲を旋回する大虎は、腹が膨れているのだろう。先までの獲物が悉く手応えのないものたちであったのか、明らかに油断し、幸村を一方的に嬲り殺す気でいる。僅かなりとも勝機が見えたのは、そのためだろうか。
 幸村が痛みを押して、歩み寄ってくる大妖へ槍を突きつける。
 折り良く、何ものかが番えた矢が、大妖の目を射抜いた。無論、幸村にはそれが何ものによる援護かなど考える暇などない。大きな唸り声を上げる大妖に、容赦せず後続の一斉放射が降り掛かり、くのいちが放ったのであろう、その鼻面に小刀が深く突き刺さる。その隙に、幸村は槍を薙ぎ払った。大虎の咆哮。今は油断しているが、手負いになり警戒の強まった状態のこの大妖を逃がせば、必ずや一行に危険が付きまとうことだろう。思うより先に、武人として鍛えられた幸村の本能が身体を動かしていた。闇雲に前足を振るう大虎の攻撃を払い、距離を詰めてゆく。
 一体何が起こったのか、足払いでもかけられたように、大虎が体勢を崩した。好機だ。幸村は勢い良く槍を前方へ突き出し、上方へと走らせていた。信玄から直々に下賜された上物の武具は、易々と妖魔の身体を引き裂いてゆく。やがて、どうと音を立てて、大虎が斃れ伏した。切り裂かれた上半身から勢い良く血潮が噴出す。しばらく、幸村は肩で息を吐き、立ち尽くしていた。
 「信繁様、大丈夫ですか?!」
 駆け寄って来たくのいちの後背に、見慣れぬ娘の姿がある。弓を携えているから、このものが先の援護射撃をしたのだろう。年の頃、十代後半か。毅然とした態度が好ましい。
 稲、と名乗った娘は晴れやかな笑みをこぼして、幸村の武を賞賛した。
 「流石は、真田殿…名の知れた武人だけあって、その御手前見事です!」
 握手を求められて、幸村は一瞬戸惑った。近距離で虎を仕留めたために、血でしとどに濡れている。それに、娘の名を聞いたことで、咄嗟に脳裏を過ぎったものがあった。拝謁を賜ったことこそないが、斐国の隣に位置する江国が公主にあっては、類稀なる弓の名手だという。そして名を、稲といったはずだ。だが、稲は血に塗れることも、そのような立場の差もいっこう気にした様子を見せず幸村と握手を交わすと、未だ気難しい様子の幸村に小首を傾げてみせた。
 「あの…すみません。何か、可笑しいことをしてしまったでしょうか?」
 「いえ、」
 未だ事態を把握しきれず、そうとしか返せない幸村の対応から何を感じ取ったものか、稲が言い訳をする。
 「黄海は、武者修行に丁度良いのです。それに、この時期でしょう?旅人に襲い掛かる危険の露払いをするためにも、一石二鳥です。特に、今回は…。!」
 そこで何事かにはたと気づいたように続きを飲み込み、稲が目を輝かせた。
 「分かりました!流石は真田殿、武人の鑑…稲は感動しました!真田殿は、先ほどの応援が何ものによるものか、警戒していらっしゃるのでしょう!」
 随分ころころと切り替わる娘だ。隣では、くのいちが笑い声を噛み殺している。どうも、幸村と稲の些か噛み合わない遣り取りが可笑しいらしい。あるいは、娘如きに気圧され呆気に取られている主君の様子が悦なのかもしれない。やはり、はあ、としか返せない幸村の手を取り、稲が胸を張って答えた。
 「案ずることはありません。あれは敵ではなく、奥台輔の使令によるものです。…ほら、噂をすれば。」
 稲が彼方へと視線を向ける。つられてそちらを見やった幸村は、言葉を失った。天翔る巨大な獣の背に揺られ、近づいてくる人物がいる。陽光を照り返し、金色に輝く銅。見間違えるはずもない。その人物は獣を周回させてから、地上へ降り立った。
 「政宗殿…。」
 ようやく、幸村は全てを悟った。何故、今まで誰一人として気付かなかったのか。成長しているせいだろうか。だが、奥国の麒麟は隻眼で、稀な赤麒麟であるというのは有名な話だ。使令の毛並みを撫でるほっそりした白い手に、以前見た、あの痩せ衰えた手が重なる。政宗は唇を噛み締めると、正面から幸村の目を覗きこんだ。
 「…幸村、今ひとたび問う。帰る場所が欲しいか。」
 銅の瞳は、今ばかりは金色に輝いている。
 「土地は荒れ果て、妖魔が徘徊し、人心も離れつつある。そのような国であっても、欲しくばくれてやる。」
 気難しげな顔でそう問うた政宗の顔に、一千年生きたものの叡智を見て取り、幸村は思わず膝を屈しそうになる。だが、先に膝を折ったのは、政宗の方だった。
 古来より、麒麟が屈するのは、王のみであると決まっている。
 「主上…この政宗めが、仕えることをお許しくださいますか。」
 額づく政宗の声は、幸村が先王崩御の際あの場にいたことを知っている。幸村も、政宗が承知していることを承知している。はたして、この決断を下すまでに、政宗はどれほど懊悩したことだろう。
 気付けば、勝手に口が言葉を紡いでいた。
 「…許す。」
 その日、奥国に新たな王が誕生した。長きに渡って善政を敷き、類稀なる名君として評価されたものの、今際の際に凋落した先王が誅されてから四年後のこと。慶長二十年、五月のことであった。











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初掲載 2009年10月11日