漆塗りの鏡を覗きこみながら、妲妃は照魔鏡を思っていた。数千年の生の中で終ぞ見たことはないが、世には照魔鏡というものがあるらしい。その鏡を覗き込んだとき、己はどのような姿で映るのだろう。本性の狐だろうか、それとも、性根を表して見るもおぞましい姿だろうか。鏡を覗くたびに、妲妃はそんなことを思う。
膝の上にある装飾が施された貝の中には、頬紅が詰められていた。数種類の桃の花から花弁を取り、搾り汁を固めたものだ。妲妃はそれを「燕脂」と呼んでいた。その頬紅を塗るたび、桃の華やかな香りを嗅ぐたびに、妲妃の心には帝辛との思い出が甦った。
もともと帝辛を破滅させるために濃姫から遣わされた妲妃だったが、帝辛の無邪気さに毒気を抜かれた。何故、このように邪気のない人間を濃姫は滅ぼされようとするのだろうと不思議に思うと同時に、その帝辛の身を滅ぼすことになる無邪気さがなければ、自分は帝辛に出会うこともなかっただろうと悟った。
この紅も、帝辛の愛に応えるために作り上げた代物だった。帝辛は鮮やかに染まった妲妃の頬を愛しげに撫でては、あまりに無垢すぎて妲妃が恥らってしまう言葉の数々を、傲慢とも取れる子供っぽさで捧げた。
類稀なる美貌、闊達な弁舌、頭の回転も速く、身体能力も驚くほど高かった。それらに裏打ちされた、あの迷いのない目、自信に満ち溢れた言動。良くも悪くも、帝辛は子供のような人だった。妲妃は帝辛のそのような性質を危ぶみ、陰日なたに支え続けた。帝辛が酒池肉林という降神儀式を行なうと言えば、自らも参加し、旧式の祭祀を改良し簡略化しようとすれば、自らも知恵を絞った。前代まで続けられていた生贄を捧げる神事の取り止めには、一も二もなく賛成した。
だが、妲妃の性は崩国だった。それは濃姫に鍵を持つ狐狸精として作り上げられ、冀州侯蘇護の娘蘇妲妃として帝辛に嫁いだときから、決まっていた。酒池肉林は過ぎた享楽の宴と誤解され、また祭祀の整備も、疎かにしていると悪く取られた。
妲妃が努力しても、帝辛にどれだけ才能があろうとも止めようはなかった。手の器に満たした水のように、民の信頼は零れて消えた。失われたものはどれだけ足掻いても取り戻せなかった。
帝辛の死後、殷は呆気なく滅び去った。
そこに在るだけで勤めを果し終えた妲妃は、崩国の性ゆえ処分されかけた。そこを秀吉に拾われた。秀吉は妲妃を不憫な女と思ったのだろう。空狐になる間際の天狐を掴まえると、秀吉は彼に妲妃を任せた。
それから、何事もなく数世紀が経った。彼の宝玉は妲妃の力をよく抑え、何もかもが滞りなく進み続けた。
帝辛がいなくても、日は昇る。日は経つ。時は流れる。
ふいに沸き起こった実感に妲妃は耐え切れず、彼の意識が逸れている隙に、彼の宝玉を盗むと崑崙を飛び出た。宝玉の力があれば、自らの性が押さえ込まれるものだと信じ、ただひたすらに帝辛の姿を求めた。
妲妃の認識は甘かった。月日が流れるうちに尾は減っていき、本人不在の宝玉では到底抑えきれない代物へと、妲妃の力は膨れ上がっていた。また、封神された帝辛の姿はどこを探しても見つけられなかった。
それでも諦めきれず方々を巡るうちに辿り付いた日ノ本で、妲妃は一人の男に出会った。男の名は安倍益材といい、しがない下級貴族だった。貧相な身体つきで特にこれといった特徴もなく、いつも穏やかな笑みを湛えているだけの男で、帝辛とは似ても似つかない平凡な人間だった。ただ、どこまでも人を信じるお人よしさが「無垢」というならば、そこだけは似ていなくもなかった。
益材は何を勘違いしたのか、攻撃を仕掛けてきた不埒な狩人を今にも取り殺そうとしている妲妃の目の前に飛び出し、狩人の矢を受けた。それに妲妃も思わず毒気を抜かれて、益材の怪我の介抱をしてやった。狩人の殺害はすっかり頭から抜けていた。
今までは恐れられてばかりだったので、久しぶりに耳にした「ありがとう。」という言葉は、妲妃の耳に不思議な響きを伴って届いた。笑うと目の下に笑い皺が出来るのも、このとき気付いた。
妲妃が益材と恋仲になるのには、そう時間はかからなかった。そして、妲妃が益材の元から去るのも、それほどかからなかった。この数千年で己が崩国の性でしかないことを、妲妃は重々理解していた。
妲妃は首元に掌を這わせた。今ではもうすっかり傷痕が消えている首には、在りし日、我が子の差し金である武士が射た矢が突き刺さっていたのだ。
我が子晴明は、妲妃の嘆願を聞こうともしてくれなかった。
「母上の持つ性は許されないのです。」
寂しそうにそう呟いて、晴明は攻撃を仕掛けた。その戦いで妲妃は矢で脇腹と首筋を貫かれ、長刀で斬りつけられ深手を負った。理不尽だ、と妲妃は思った。
あれから四世紀あまりが過ぎた。そのうちの半分を石となり寝ることで、妲妃は体力の回復に努めた。最期に、あと一度きりで良い。益材の優しい笑顔に会いたかった。坊主から攻撃を契機に、道々人から精気を奪いつつ転生した益材を探した。帝辛と違い、益材は封じられたわけではない。周、天竺、日ノ本、あるいはもっと遠く。場所はわからない。だが、必ずどこかにいるはずだった。
しかし、妲妃が北の地で見つけたものは、己を殺めようとした愛おしくも憎らしい晴明の生れ変りだった。生まれたての子の身体は柔く、大きな頭は座っていなかった。
まだ、この子は私を拒まないかもしれない。
それでも、かつて子に拒否された恐怖から、妲妃は後ろ髪を引かれる思いで立ち去ろうとした。最後に一度だけ子の顔を見て、再び益材の姿を探す旅に出ようと決意していた。その決意を揺るがしたのは、妲妃の本性を見て笑った子だった。子は太く丸い手を伸ばして、あうあうと言葉にならない声をあげながら妲妃の尾を掴むと無邪気に喜んだ。
悲しみに似た幸せで、胸が詰まった。この子だけは何があっても守ろう、と妲妃はそのとき心に決めた。怨まれても良い、理解されなくても良い。ただ、この子だけは、守りたかった。
妲妃は白い首を一撫でし、覚悟を決めて背後を振り返った。その拍子に、膝から貝殻が零れ落ちた。
「…来たの。随分遅かったじゃない、三成さん。」
まだ間に合うだろうか。妲妃は袖に隠し持った懐刀を握り締め、戸口に立つ大人の姿に転変した三成、その後ろに所在なく立ち尽くす政宗を見やった。殺すつもりだった。
多くの塞の神が祀られている道を、政宗と三成は歩いていた。政宗の手には鍵があった。黒い鍵だ。光の加減によっては金色に煌くようにも見える。それは政宗から三成の宝玉を取り出した際、共に転がり出てきたものだった。政宗を中心とした伊達の災禍の原因でもある。また、妲妃の形見でもあった。
その鍵を歩きながら月に翳す政宗に、しばしの沈黙の末三成はようやく口を開いた。
「いつ、妲妃の正体に気付いた。」
政宗は答えなかった。三成は内心、それも仕方ないと思った。三成たちは、政宗の実母を殺めたのだ。事情はどうあれ、それが事実だった。妲妃が消滅した瞬間悲しそうに瞼を伏せた政宗の姿を、三成は生涯忘れないだろう。
「わしは、」
言葉を探すように視線を彷徨わせ、政宗が続けた。
「わしのところには、狐狸が良く来おった。」
その狐狸は政宗の元から、折鶴や文字の手習いなど他愛無いものを盗っていった。そして毎回、代わりに、花々や果物が置かれていった。喜多はそれを狐狸の仕業だと言った。
幼少期は、政宗も喜多の言葉を疑わずに信じていたが、大人にもなれば真実はわかる。突き放した子供の様子を、母が見に来ていただけなのだ。母は政宗が寝ている間に、政宗が拙く作り上げたものを成長の証として持ち去り、喜多に頬紅を与えて口止めをした。
魃の話もその折に母から聞いたのだ、と深夜未明に訪れた政宗をいぶかしむでもなく喜多は語った。神官の生まれだ。喜多はいつかこの日が来ることを、薄々感じていたようだった。
あのとき、喜多からそれを聞き出した三成たちに、政宗は諦めたように唇を噛んだ。
「母上が何故そのように遠回りなことをするのかわからず、わしは訝しがった。まだ、少しでも母上の中にわしがいるのかと思うて嬉しくもあった。」
そのため母に呼ばれたときには、政宗は純粋に喜んだ。まさか毒を盛られるなどとは思いもよらなかった。ますます政宗は母の思惑を理解出来ずに、苦しんだ。
「懐刀で…最期まで妲妃は、貴様を殺そうとした。それでも、貴様はあれを慕うのか。…妲妃は実母の魂魄を奪った存在だぞ。」
言いながら、三成はそれが妲妃を殺めた自分への言い訳にすぎないとわかっていた。
「…母上は母上じゃ。第一母上の心は、封神時代を生き抜いた貴様の方がわしよりよほど理解出来るじゃろう。母上は封じられるくらいならば、わしを転生させる道を選んだ。崑崙が混乱しているなど知らぬのじゃから、仕方あるまい。大陸では、神と人間の垣根は絶対なのじゃろう?」
人間と人外との境界を定める塞の神の傍で、政宗が歩を止めて三成を見つめた。
眼帯を取り払った右目は金色に淡く光を放った。天狐の瞳だ。三成によって宝玉を取り除かれた瞳は未だ力を失わず爛々と輝き、三成はそれを切ないと思った。政宗が眼帯をすることになった原因こそが、伊達に乱を起こし、妲妃を滅ぼしたのだ。それは、幼子が罹ればまず命はないと言われる恐ろしい病、痘瘡だった。
妲妃は政宗が痘瘡を患った際、三成から奪った宝玉の力に目を付けた。宝玉は魔を討ち払う特性がある。妲妃は必死に宝玉の力を政宗に注いだ。鍵も含む自らの力全てを捧げて、子の延命を図った。その結果、政宗の右目は人間としての機能を失い、照魔鏡のように本性だけを映すようになった。人間、妖、神を問わず映すその瞳に、妲妃は自分の失態を悟った。そして、晴明のときのように政宗にも拒まれることを恐れて、妲妃は我が子を避けるようになった。本性を見抜く力を持つ政宗を避けざるを得なかった。
更に、妲妃は新たな苦悩に突き当たった。宝珠や妲妃の力の影響なのか、生まれたときから見鬼の才能があった政宗は、年を経るにつれ力をつけて、人間の範疇を超えてしまった。
妲妃の念頭には、人間として優れたあまり封神計画の犠牲になった最愛の帝辛の姿があった。
「崑崙の神仙に見つかれば、人間の範疇を超えたわしは封じられる。母上には崑崙の神仙を撃退するだけの力は既にない。わしに全て与えてしまったのじゃから…最後の力すらも、わしを守るために使ってしもうた。」
人取り橋の戦いでの佐竹総帥の不可解な死だ。あれも妲妃によるものだった。妲妃は無事帰還した子の姿を見届けると、良人を放置して立ち去った。当然だ。妲妃の関心ははじめから、夫や次男ではなく、長男である政宗だったのだ。
力を失った妲妃の元に、幸村たちが訪れた。妲妃はすぐさま、己の追っ手だと気付いただろう。だがそれが日ノ本のものなのか、崑崙のものなのか、妲妃には判別がつかなかった。考えあぐねた末、妲妃は我が子を手にかける決意を固めた。妖としての力がないので、人間のように毒に頼った。だがそれゆえに、政宗の毒殺は人間によって遮られてしまった。
「狐は情に篤いという。母上にはこの上なく辛かったであろう。わしは…わしは、その母上の愛情を裏切ることしか出来んかった。」
皮肉げに政宗が口端を歪めると、顔を俯かせて鍵を強く握り締めた。
三成は政宗が主張するようには思わなかった。神たる空狐となっていた妲妃は、本来であれば己より力の劣るの天狐の三成に呆気なく滅された。それは、まさしく身を削って政宗の命を繋いだためだった。その妲妃の想いを政宗が正しく理解したように、妲妃も最期の瞬間、政宗の苦悩を察したに違いないのだ。そうでなければ、妲妃はあれほどまでに嬉しそうに微笑んで調伏されないだろう。
妲妃が滅された際、飛沫の如く夜空を舞った光は蛍のようで、悲しいまでに温かかった。悲哀の中でこの世を去ったなら、あのような光景が生まれるはずがない、と三成は思った。『…綺麗だね。』と柄にもなく、くのいちもしんみり呟いた。
三成は何か言おうとして、口を閉ざした。己が口下手であることは重々承知だった。何より、妲妃を滅ぼした己が、慰めの言葉を口に出来るはずもなかった。
『物事の造られた面のみ見ても、何も真実はわかるまい。』
権力者は己に都合の良いように事実を捏造する。この言葉を三成に告げた謙信はそれを理解し、また時が経つ中で光秀も悟り妲妃を哀れんだ。だが、どうすることも出来なかった。妲妃の性は崩国、そしてそれは最早どうすることも出来ない力に成長を遂げていた。神の力は三成では到底抑えられない。妲妃の振りまく災禍を食い止めるには、調伏するより他になかった。
言いあぐねた末、三成はようやく口を開いた。
「その鍵はどうする。主が亡くなり力は弱まったが、禍をもたらすものであることには変わりない。」
「さあ、どうするか…どこかに奉じるか。しかし今となっては母上の形見はこれと頬紅だけじゃし、出来ることならば持っていたいがのう。」
何かがおかしい。ずっと違和感があったがそれが何であるのかようやく悟って、三成は尋ねた。
「貴様は、」
政宗が面を上げた。
「貴様は、泣かないのか。」
その問いかけに、悲しそうに政宗は笑った。
馬鹿馬鹿しい、と三成は思った。封神計画の始まりも、崑崙も、妲妃も、自分も、そして泣けない政宗もあまりに愚かだ。三成は眉をひそめ、嘆息混じりに政宗の肩を抱き寄せた。しばらくすると、三成の腕の中から泣きじゃくるような嗚咽が漏れた。
藍色の空が薄紫に滲み、次第に明るさを増していく。三成は黙って、政宗の小さな背を撫でてやっていた。