「政宗、行くのう?」
扉の陰から届いた声に、荷造りをしていた政宗は振り向いた。そこには「猫」の姿をした猫がいた。昼間なので、変化出来ないのだろう。
「ああ。ここに居っても小次郎の邪魔なだけじゃし、わしの力は人間として在るには奇異だからのう。鍵もあるし、わしは行かねばならぬ。」
人間の範疇を超えた政宗は謙信の厄介になることにした。幸村たちは信玄の元へと来るよう誘ったが、それ以上の熱心さで兼続が越後を勧めたのだ。列挙されていった理由の中には、「政宗は雪国育ちなのだから甲斐より越後が良いだろう。あそこはここ同様米も良いから酒も美味いぞ!」とよくわからないものもあった。単に、政宗のことが心配なだけだろう。犬猿の仲で喧嘩は絶えなかったとはいえ、それは互いを理解し合った上での戯れのようなものだ。口にはしないが、内心政宗も兼続を兄のようにも思っている。政宗は兼続の言葉に甘えることにした。
しかし、一つだけ問題があった。鍵だ。政宗は災禍をもたらす鍵を母の形見として手放したくないと願った。兼続も政宗の気持ちは良くわかる。だが、越後に禍を持ち込まれては、兼続としても謙信に面目がない。
そのとき、予期しないところから助け舟が出た。三成が、自分が政宗の保護になることを買って出た。誰もが三成は崑崙に帰るのだとばかり思っていただけに、その提案は意外だった。しかし、三成は秀吉の命どおり、宝玉を取り戻し、妲妃を調伏したが、出立から数千年が立っている。混乱の極みにある崑崙に行ったところで最早自分の居場所がないことを三成も察したのだろう、と政宗は思った。あるいは、今更戻ることも躊躇われたのかもしれない。
崑崙の真実を知った謙信は立ち去り、対して光秀は謀反を起こした。そう考えてみれば、三成が帰還を躊躇するのも決して不思議なことではなかった。
また、崑崙の事情を知らない政宗の想像でしかないが、妖である三成が神を殺めた事実は崑崙の主義に反するものなのかもしれない。封神計画が行なわれた場所だ。帰還すれば、今度は三成の身が危ういのかもしれない。
何にせよ、全て政宗の仮定でしかない。だが、あながち間違ってもいないのだろう。
兼続は三成の口添えに意外そうに瞬きを繰り返し、それから楽しそうに「わかった!」と大きな声で返事をした。あまりに大きな声だったので政宗はしばらく耳鳴りがしたほどだったが、同時にそれがあまりに嬉しそうな声だったので文句を言う気にもなれなかった。
「今生の別れというわけでもあるまい。兼続も居るし、遊びにも来るぞ。」
そう返すとようやく納得したのか、猫は不承不承頷いた。それでも大いに不満な様子でいるので、政宗は小さく苦笑を零した。
「そうじゃ、猫。これをやる。」
政宗がそれを猫の前に置くと、猫は首を傾げて前足でそれを弄っていた。そうして、そのうちそれが何なのか悟ったらしい。猫ははっと顔色を変えた。
「これ…、お母さんの形見の頬紅じゃないの?貰っちゃ悪いわよう。」
「そう言うな。わしは男で付けられぬし、猫は母上に会うたのじゃろう。貰ってやってくれ。」
困ったように猫が返事を躊躇い、しばらく経ってから政宗を見つめた。猫の目は責めるようにも、呆れるようにも、また哀れんでいるようにも見えた。猫はぽつりと言った。
「政宗のお母さんねえ、あの日、呑み会に来たのよう。…あたしには、悪いことをするひとには見えなかったわ。だってあのひと、本当に政宗のことを温かい目で見てたのよう。」
一言、政宗は「知っとる。」と答えた。それだけで、猫には十分なようだった。
荷物をまとめて離れを抜けると、外では三成が待っていた。陽光の中で三成の金毛がきらきら輝いて、政宗は素直に綺麗だと思った。本来三成のものである宝玉を返したので、三成を見ても、もう懐かしさを覚えることはない。しかしこの半月密に接してきたせいか、三成を見ると政宗は安堵感を覚えた。
「支度は済んだのか。」
「ああ。」
政宗が答えると、何を思ったのか三成が手を差し出してきた。三成は人間の手を引くなどという下級狐のような真似を、死んでもするような狐ではないと思っていたので、その手が何を意味するのか政宗はとっさにわからなかった。それでも、握手でも求められているのだろうか、と政宗はいぶかしみながらその手を掴んだ。
だから、手を引かれたときは驚いた。ぐいぐい引かれる政宗の背後で、猫が嬉しげに「またね。」と鳴いた。
城からの道は綺麗に整備され、脇道には数え切れないほど多くの塞の神が祀られている。
一丸岩、積み上げられた石、抱き合った男女、天狗。一定の形を取らない塞の神は人間と人外との住み分けを守る境界の神であり、村に害なすものの侵入を防ぐ神、旅人の道行きを守る神としても祀られている。
このような神を祀るにもかかわらず、日ノ本では、人も妖も神も仏も、混ざり合い支え合いながら生きている。
しかし、封神計画を経験した妲妃にはそれがわからなかった。表面を捉え、その奥底にあるものを汲み取れなかった。寂しさを覚え視線を落とす政宗に、前方の三成が振り向きもせずに尋ねた。
「眼帯はどうした。止めたのか。」
「ああ。わしにもうあれは必要ない。」
家督を継ぐでもない。母や家臣と折り合いを付けていく必要もない。政宗は妖の世界を受け入れることに決め、右目の眼帯をかなぐり捨てた。その眼帯こそが母を失わせたのだという想いが僅かながらあった。政宗にとって、眼帯こそが人間とそれ以外を隔たる境界の象徴だった。
しかし、いざ腹を括ったものの、元々政宗は妖たちを許容していた。以前より鮮明に魑魅魍魎の跋扈する世界が見える程度だろうか。その世界は目まぐるしく艶やかで混沌としていて、あまりに派手な原色の世界に酔ったような思いがした。だが、おいおいそれにも慣れるだろう。
政宗には、今の状況がそれほど悪いものとも思えなかった。何もかも失う形になった今回の事件は、再出発できる機会なのだと思うことにすると、新しい世界への道が開けているのだと楽観的な見方が出来た。政宗は生来前向きなのだ。
此度の騒動は生涯忘れることはないだろう。しかしだからといって、いつまでも引き摺って、塞ぎこんでもいたくはなかった。
政宗はちらりと前を見やった。その政宗の旅出を、何故か三成が先導している。手を繋がれることに不満はないが、矜持の高い三成が、と不思議ではある。政宗は繋がれたままの手を眺めるうちに、あることを思い出した。
「狐は手を引き、狸は背を押す。」
突然の呟きに、三成が怪訝そうに後ろを仰いだ。
狸と違い、狐は化かすときこちらの手を引く。人間を危険な目には会わせない。かつて喜多が告げた違いを反芻し、政宗は三成の手を強く握り締めた。
「三成は狐じゃものなあ。」
「…何だ?自明の理を今更言うな。」
返答になっていない返答に、三成は機嫌を悪くしたらしい。そうだ、狐なのだ、と政宗は思った。狐は何より無視されることを嫌う。
自己主張の強さを表すように、三成が政宗の手を強く強く握り返した。三成の手は冷たかったが、それがかえって温かく感じられて、政宗は小さく笑みを浮かべた。
三成を見て郷愁を覚えることはもうない。同様に三成が政宗に癒しを感じることもない。
それでもこれから何かが育まれるような一抹の予感が政宗にはあった。
初掲載 2008年1月25日