石田三成にとってのはじまりは、随分昔に遡る。
元々三成は、現在の日ノ本では「稲荷の使い」と呼ばれる地位にいた。社の左右に並ぶ狐はそれぞれ、宝珠と鍵を持っている。宝珠は力を意味し、鍵は蔵の鍵、つまり富を象徴している。では三成はどちらなのかといえば、宝珠を持つ使いだった。妖狐の中でも最上級の天狐で、あと千年も生きれば尾も全て消え去って、空狐になろうという齢である。空狐は天狐の上位に位置し、稲荷のお使いが引退し神となった存在なので、一般に妖狐には勘定しない。
三成は神に仲間入りする一歩手前で、大きな挫折を味わうことになった。空狐になるという三成の人生設計が崩れたのは、全て妲妃のせいだった。
妲妃は白面金毛九尾の狐で、三成の知る限りでは、酒池肉林や炮烙の計を編み出すなど、歴史上最も暴虐の限りを尽くした悪狐だ。そのような悪狐が滅ぼされもせず、なぜ今も大手を振って生きているのか。
そもそも殷が滅ぶことになった原因は、紂王帝辛が神であるジョカ濃姫を、まるで人間の女であるかのように気軽に称えたことだった。気位の高い濃姫は当然怒った。そういう事情から濃姫が、殷を滅ぼすため遣わしめた存在なので、妲妃自身に罪はない。妲妃は些か派手にやりすぎたが、任務を遂行しただけだ。
そう、女好きの玉皇大帝秀吉が主張したためだった。筋が通っているといえば通っていなくもないが、その実態は、単に女好きの本性が出ただけの秀吉の言い分に、他の神仙は顔をしかめた。しかし、秀吉は飛ぶ鳥も落す勢いの権力を持つ神の一人だ。要求を無下に却下することも出来ず、神仙は顔を見合わせた。その中で特に不服をあらわにした神は、秀吉とそりの合わない雷帝勝家、民をおもんばかる泰山府君光秀だった。
しかし周囲の意に反し、伏羲として権力の頂点にある信長は、秀吉に、妲妃の監視を勤められるのか尋ねた。面子がかかっている。当然のように、秀吉はしたり顔で頷いた。
「話し合いの場でそういうことがあってねえ。うちの人の女好きも、どうにかならないものか。」
秀吉の正妻である西王母ねねは、濃姫に献上する仙桃をもぎながら、溜め息混じりにそう洩らした。またぞろ秀吉様の悪い癖が出た、と三成も同感だった。
まさか、その妲妃の監視を己が任されることになるとは思いもしなかった。他人事のように構えていてなお、秀吉に呼ばれた時点で嫌な予感がしたのも事実だ。こういうとき、秀吉に関する三成の勘はよく当たる。
「三成、お前さんならできるじゃろ。」
信頼に満ちた目で言われてしまえば、三成に断れるはずもない。三成はしぶしぶ頷いた。
以来、三成は神に昇格する機会を失い、千年あまりを妲妃の監視で費やした。
三成の見たところ、妲妃は鍵を持つ典型だった。富が大きければ大きいほど、禍も大きなものとなる。三成の持つ宝珠は禍を討ち払い、富が大きくなりすぎないよう抑える力があるが、鍵はその真逆で、妲妃もそのような妖狐だった。富をもたらす代わりに、大いなる禍も撒き散らす。最たるが、殷を滅ぼし、自らも焼身自殺を遂げた帝辛だろう。
そんなある日のこと。前から機会を覗っていたのだろう。妲妃は三成に一服盛ると、三成の宝珠を手に逃げ出した。宝珠や鍵は、力が具現化したものだ。結果、三成は力を妲妃に奪われ、空狐になろうという天狐でありながら、白狐程度の力しか持たない存在になった。
国一つ滅ぼした野狐が逃走した状況に、神仙は話し合いの席を設けた。話題は妲妃の処置にするべきだったが、当然のように、秀吉の責任追及へ発展した。秀吉が頭を下げれば妲妃の捜索に移っただろうが、秀吉としても、これまで積み上げたものを無駄にしたくない。半ば意地だった。
かつてそれが義姉の殷に対する罰であることを知りつつ、妲妃の悪逆非道を見かねたラクヒンお市は、心さっさと殷を滅ぼして民を苦しみから開放してやろう、と周へ太公望を遣わしめた。そして今回も妲妃の所業を心配したお市は、秀吉に助けはいるか尋ねた。
お市は秀吉に対してもだが、勝家に多大なる影響力を持っていた。武神を統括する勝家の配下には、ナタク利家やその友人である顕聖二郎真君がいる。顕聖二郎真君は別名楊ゼン元親とも言い、哮天犬信親という仙犬を使役している。犬は狐の天敵だ。今回は殷のときのように、国家や神仙の面子という厄介なものがかかわっていないのだ。勝家の力を借りれば、問題はいとも簡単に解決するだろう。
しかし、秀吉の意地が助けを拒んだ。己の失態をせせら笑う勝家に、秀吉はどうしても頭を下げたくなかった。またここで、秀吉の悪い癖が出た。意固地だ。
そういう経緯で、怒り心頭の秀吉に半ば八つ当たりされ、三成は妲妃を追うことになった。三成は宝玉を奪われ、対する妲妃は美貌も財力も力も使いたい放題の身だ。常識や忌避する行為もまるでないので、三成に妲妃を追いつめられるわけもない。その上、妲妃は神仙が秀吉を責めているうちに、周を去って姿をくらませていた。
だが、頑なになっている秀吉は三成の弁明を拒み、三成に対し、妲妃を調伏するまで戻ってくるなと言い渡した。ねねが火の精である陸圧道人左近を三成の共につけたのは、せめてもの思いやりだろう。しかし、それだけでは明らかに助力が足りないのである。これは何かの悪い夢だろうかと痛む頭を抱えて、三成は妲妃の姿を探した。
天竺、周、日ノ本。妲妃の足跡を辿り、追いついた、と思うたびに撒かれ、早数千年が経った。妲妃は名を変え姿を変え、戯れに千人の首を跳ねたかと思えば、幽王を滅ぼし、海を渡って鳥羽上皇に取入った。
玉藻前と称し絶大な権力を牛耳る妲妃に、「人間に助力を乞いましょう。」という左近の助言は、確かに状況をかんがみれば理にかなったものではあった。しかし、片意地な三成の高い矜持がそれを邪魔した。三成自身も悪い癖だとはわかっている。それは秀吉の意地と何ら変りないものだ。
三成が二の足を踏んでいるうちに、人間が先に動いた。人間の名は安倍晴明と言い、妖狐の血を引く者だった。晴明は三浦介義明と上総介広常いう二人の武士を頭に、犬のように軍を妲妃へけしかけた。
凄絶を極める攻勢を前に、妲妃は尻尾を巻いて逃げ出し、殺生石に身を変じた。殺生石はその名の通り、毒を撒き散らしては生気を奪って近付くものを取り殺した。そんな危険なものを放置しておくわけにはいかない。だが、その石が実際どこにあるのか三成たちがもたつく間に、妲妃は復活を遂げ、とある僧が調伏を仕掛けるに至り、さっさとその場を立ち去った。
後手後手だ。そもそも空狐間際で力こそ強かったが、千里眼をもち様々なことを見透かす天狐である三成は、文に優れ、実地は苦手だった。追跡劇など繰り広げられるわけもない。その点、妲妃は策を弄することと悪女ぶりにかけては、おそらく、当世一だろう。
三成が妲妃を出し抜くためには、狐の苦手な犬が必要だ。しかし、狐であるため、三成も犬は苦手で近寄れない。犬を使役できる人間の助けがなければ、追尾はこれ以上立ち行かない。
かなり長い月日を経て、流石の三成も主義を変えた。人間の手助けを借りることにしたのだ。矜持の高い三成にとって、下位の存在だと信じている人間に頼るのは恥辱に等しかった。しかし、ここまで来るとそうも言っていられない。
神仙は力から成る生き物だ。宝玉を奪われた三成は力を失い、この頃には自身の姿形を維持することすら難しくなっていた。僅か四尺ばかりの身長に短い手足、頭ばかり大きくて覚束ない動き。不便この上ない。だが、それすらも、あと半世紀ほどで保てなくなるだろう。
妖狐は一つから段々増えていき、最終的に九尾に、またそこから霊力を増すにつれ尾が減っていく。三成は本来九尾から四尾になった天狐だが、これでは、四尾の白狐と変らない。それどころか、白狐以下の実力である。
神に変じる天狐であることが誇りである三成には、到底耐えられる事実ではなかった。
三成は蔵にある古鏡を苦々しい思いで睨んだ。研ぐことを忘れた鏡は灰に変色していたが、それでも、うっすらと三成の小さな影を映した。
足元には先ほど手を引いてきた人間が伏している。伊達の現当主だ。人間がこのような夜更けに一人歩きとは、と三成は内心呆れた。しかし、好都合なことでもあった。三成はどうにかしてこの人間に接触しなければならなかったからだ。
姿が保つことすら難しくなっている。こうなると最早、秀吉の面子どころではない。いよいよ自分の命が危ない。三成は四方八方手を尽くして、妲妃の居場所を捜し求めた。そのとき、大陸での伝手を頼って訪れた越後の毘沙門天謙信が、北で雪女が出たという話を口にしたのだ。
雪女は雪国の妖怪で、美しい女のなりをしている。しかし一見した限り柔らかそうな肢体は冷たく、一夜を共にした場合、人間は生気を奪われ凍え死ぬ。また夜に山小屋で休んでいると、雪女が人間にそっと白い息を吹きかけて殺すとも言われる。だが、実際の雪女は大人しいもので、男女のもつれや止むに止まれぬ事情からないでもない限り、取り殺しは滅多にしない。事実のところは、人間が冬の寒さに凍死するだけのことらしい。
その雪女によるものとされる死亡が、一路、北に続いたそうだ。
『其れが、あの白面金毛九尾の狐が道々精気を奪った者の死であるなら。』
そこで謙信はぐいと酒を空け、耳をそばだてる三成に酒臭い息を吐いた。
『兼続を使うが良い。部下が米沢に居るはずだ。』
話は終わったとばかりに、再び謙信は酒を呷った。昔と変らず、口数の少ない男だ。それが武神の性なのだろうか。考えてみれば、秀吉と犬猿の仲である勝家も言葉少ななだ。
礼を告げて立ち去る間際、三成は謙信に問いかけた。
『俺には解せません。貴方ならば、望めば、三皇五帝に数えられることも出来たはずです。何故、崑崙を捨てて、わざわざこのような辺境の島国に。』
『崑崙には、我の求めるものなきなり。――越後は米が良い、酒が美味い。宿敵も居る。何の不満が生まれしか。』
謙信は哀れむように目を眇め、三成に言った。
『崑崙での出世を望むか。それのみが悦びにあらず。帰還を切望する三成には、わからぬか。』
そして、言ったのだ。
『物事の造られた面のみ見ても、何も真実はわかるまい。』
謙信の口振りは明らかに何か知っているようなものだったが、三成は問わずに退室した。問いかけたところで、答えるような素振りはなかった。
回想を打ち切り、三成は小さく舌打ちを零した。何にせよ、謙信の部下である兼続に接触を果し、近年、急速に台頭してきた伊達家の繁栄を教えられた。
しかし、三成は伊達家に近付くことができなかった。理由は、犬だ。狐の天敵である犬がいたのだ。遠目ではどれが犬の化けたものかわからなかったが、あの嫌な獣臭さは犬に相違なかった。あんなところに妲妃がいるはずがない。伊達家の台頭は実力によるものだろう。あるいは、犬神によるものかもしれない。
犬神は、主に西で見られる、人に取り憑いて害をなす犬の霊だ。しかし人間によって意図的に降霊されることも多く、その方法は、多くの犬を戦わせ生き残った最後の一匹を利用する点など、蟲術の影響が見て取れる。憑かれた者は犬の如く振る舞い、それゆえに犬神筋の家は厭われる傾向にあるが、犬神を祀れば家が栄えるという利点もある。
犬神が憑いているのであれば、伊達家の急速な繁栄は理由がつく。妲妃など必要ない。
だが、三成が文句を言うと、兼続は「そんなはずはあるまい。あれは…、」と、何かを言いかけて、口を閉ざした。
しかし少なくとも、兼続の知る限りではそのような呪術が行なわれるような家柄ではなく、また行なおうとすれば、伊達三傑と呼ばれる良識のある者たちが揃って反対するだろう、というのだ。
「では、当主はどうなのだ。周囲が反対しても、隠れて行なえばわからないだろう。」
その指摘に兼続が詰まった。どうやら口にこそ出さないが、兼続と伊達家当主は知り合いらしく、そして、浅からぬ因縁があるらしい。しかしそれでいながら、政宗のことを認めてもいるようだ。だが、本人がいないとはいえ天敵を褒めることを良しとしないのか、兼続は眉間にしわを寄せ考え込んでいたが、「そういえば、今夜は満月か。」と呟くと、晴れやかな顔で三成に言った。
「では廃寺に行くが良い!どうせ今宵もあそこで、政宗はどんちゃんやっているだろう。」
「はあ?そのような場所で、誰がどんちゃんするというのだ。」
「毎月満月の晩に、あそこで、百物語が行なわれるのだ。」
酒が入ることもあり、毎回百つ話し終わる前に朝になってしまうのだという。
「行くならば、急いだ方が良いぞ。片倉殿の眼を盗んでやって来る政宗は、丑の刻には引き揚げるからな。土産も持っていけ。」
内心三成は、真偽のほどは怪しいと思った。だが、謙信に協力を乞うた手前、兼続の発言を無碍にも出来ない。時間もそれほど残されていない。妲妃がいないのならばその証拠を挙げて、次の場所へ行かねばならない。
越後の酒瓶を持って廃寺へ赴いた狐は、内心困惑した。政宗が妖たちとどんちゃん騒ぎに興じていたからだ。朽ちかけた床への配慮からか、寺の外には酒樽まであった。酒盛りもたけなわといったところだ。
二口女が握り飯を食べるのを止め、後ろ口から一つしゃっくりをあげると話し始めた。
「昔あるところに虎の坊さんが…。」
すぐさま、蝋燭の火が掻き消えた。
「話終えておらんではないか!」
人間が膝を打ちけらけら笑っている。尤もだ、と狐も思った。
宵っ張りだ。その上、揃いも揃って酔っ払いときている。怪談が百つ終わっているはずもないのだが、全て終わったときに現れる青行燈の姿があった。そもそも、怪談を一つ話し終える毎に消していく蝋燭が十本に満たないので、百物語の体裁が整えられていない。
夏とはいえ夜は冷えるのか、政宗の首には一反木綿が巻きつけてあった。人間の首に巻きつき、縊り殺す妖怪を巻くとは、と思わず狐は眉をひそめた。膝には童が居る。木の子だろうか。傍には政宗の容姿を真似た猫又の姿まであった。
「火が消えたってことは、誰か来たのよう。お客さんだわあ、いらっしゃあい。」
内から猫又の返事が届いた。
「最近ねえ、政宗の家はなんだか居心地が悪いの。だからここで呑んでいるのよ。」
土産の酒瓶を渡すと、一行は喜んで狐を入れてくれた。その中で、猫と名乗った猫又は、狐が持参した酒を品定めしながら、何故このような場所で呑んでいるのかという狐の問いに答えた。
猫は、「あら越後。山城守さんの知り合い?」などと尋ねながら答えを聞くつもりはないようで、盃に酒を注ぎ、狐に勧めた。金目の狐が大妖だと気付いたようだが、猫は気にした風もなく、尾に一瞥を投げかけただけだった。どうやら、この呑み会では正体を気にしないのが暗黙の了解であるらしい。
猫の隣では、けらけらと楽しそうに政宗が笑っていた。笑い上戸のようだ。驚きに目を見張る狐の横で、頬に手を当てて猫が言った。
「これじゃあ記憶が飛んでるわねえ。」
いかにも困ったという口振りとは裏腹に、猫はこっそり政宗の杯に酒を注ぎ足していた。
「それにねえ。政宗の家は、最近は犬が入り込んで。近寄れないったらありゃしない。」
「犬?」
「そうよう、赤犬。狐もいるけど、何で犬がいるのにあの狐は居られるのかしら。だって、天敵でしょ?」
狐。その単語に、狐は耳をぴんと立てた。その様子に猫が「あら?」と目を眇めたが、気付かなかった振りを決め込む心積もりらしく、何も言わずに杯を手に取った。猫又らしく、杯には油が入れられていた。
その狐は、あいつかもしれない。
だが、猫はこれ以上情報を流すつもりはないらしい。少し話しすぎた、と内心思っているのかもしれない。仕方なしに、狐は話題を変えることにした。
「政宗はいつもこんなことをしているのか?」
「こんなこと?」
「妖と戯れて…普通ではないだろう。」
狐の言葉に、猫が何を察したのか定かではない。猫はまんじりともせず狐を見つめ、それから、ふいと視線を逸らした。
そうしてしばらく経ってから、ちびりちびりと油を舐めていた猫は、何か言いかけたようだった。だが、そのとき、政宗がゆらりと立ち上がった。
「もう帰る。」
政宗は酒が過ぎたのだろう。足元が覚束ない。「あらあら。」と猫が睫毛を瞬かせた。もしかしたら自分が犬のいる伊達家に近づけないものだから、代わりに政宗をこのまま一晩、廃寺で過ごさせるつもりだったのかもしれない。目論見が外れたと言わんばかりに、猫が口を尖らせた。
「政宗、帰れるの?一晩くらいゆっくりしていったら?」
「小十郎に怒られるから帰る。」
同じ顔をした者が向かい合って話し合っている。猫又が化けているだけあって、まったく同じ顔だ。辛うじて、政宗の腕に抱きかかえられた木の子の足が宙ぶらりんで揺れているので、狐にもどうにか区別がついた。
困ったように猫が周囲を見回し、狐のところで視線を止めた。
「丁度良いわ。何か訊きたいことがあるんでしょう。政宗を送って行ってあげて頂戴。」
何故自分がと狐が反対する前に、猫は政宗の腕から木の子を取り上げると、狐に政宗を押し付けた。木の子を奪われた政宗はうとうと辺りを見回し、狐に抱きつこうとしたので、狐は慌てて飛びのいた。
猫は二人を追い出し、笑った。
「じゃあ、頼んだわあ。政宗をよろしくね。」
ぴしゃんと音を立てて、廃寺の扉は閉められた。
あの猫又は何か気付いているのだろうか。いや、知っているわけがない。
考え込む狐の隣を行く政宗の足取りは重く、限りなく遅い。酔っているのだ。しかし、それも致し方ないだろうと苦笑するには、狐はいささか狭量だった。早くしないと早くしないと、と気ばかり急いた。だが、ここで実行するわけにもいかない。物事には相応しい場所というものがある。
けれど、自分に実行できるのだろうか。
不安を打ち消すため怒りを込めて、狐は政宗を睨み付けた。
このとき初めて、この日、狐は政宗を正面から見た。赤茶けた髪はざっくばらんで、結われもせずに切られている。武家の当主にしては珍しい髪型だ。奇異と言っても良い。
頭を守るため兜を被るようになってから、蒸して暑いので、武士は頭頂部を剃りあげるようになった。今ではそれが、男の元服後の一般的な装いだ。剃らず、結わずとは、当主としては規格外と言っても過言ではない。
少なくとも、狐が最後に見たとき政宗はこのような頭ではなかった。
その髪はどうしたのか。
政宗の手を掴み何事か尋ねようとした狐は、近づいてきた気配に眦を吊り上げると、その場から飛び出すように逃げ出した。がさがさと木の葉の擦れる音が響いた。
ふわりと桃の残り香が漂った。