第一話   妖怪パラレル


 森の前には忘れ去られた蔵が時の許すまま朽ち果てていた。
 戦国という世にあって今は亡ぼされた領主がかつて宝を溜め込んでいた蔵は、瓦が剥げ、所々からぺんぺん草が姿を覗かせている。それが深夜月に照らされ、生温い風にそよぐ様は、妖が走り抜けた際に揺らしたようでぞっとしない。脇に黒々とした大きな森があり、風が吹き抜けるのかひょうひょうと不気味な音を立てる古井戸を従えていることもあり、今では蔵に近付く者は滅多にいない。野党の類でさえ、この蔵だけは避けて通る。
 伊達政宗は目覚めたとき、はじめ、かどわかされたのかと思った。夜道を歩いていたところから、すとんと記憶が抜け落ちている。ひやりとした冷たい手がふいと手首を掴んだ気もするが、詳しいことは覚えていない。酔っていたのだ。廃寺で呑んでいた辺りから記憶はあやふやで、怪しいものだ。
 政宗は少しでも己の陥っている状況を探ろうと、天上にかかる月を頼りに周囲を見渡し、ほっと息を吐いた。埃だらけの黒っぽい壁に、剥き出しの土床、穴だらけの屋根。人食い蔵だ。例えかどわかしのような者やあるいは敵の手先であっても、この蔵に駐留するほど愚かな者はいない。それだけ、この蔵は恐れられている。
 人食い蔵と異名を持つ蔵は、願いを叶える代わりに大切なものを奪うと言われる。妖が住む蔵だ。
 遠い昔、この一帯を治めていた殿様は息子を亡くした。泣き暮れた殿様は、息子に再び見えることを妖に望んだ。失った命は取り戻せない、と妖は言った。しかし殿様は聞かなかった。結局、妖は殿様の願いを叶えた。それは、殿様が彼岸に向かうという形だった。国主を失い、跡取りもなかったその国は呆気なく滅びたそうだ。
 あるいは、ここにはあまりに多くの金銀財宝があったのでそれが禍となり主一家が惨殺されたという逸話から、立てた場所が悪かったという説もある。後者の場合は、問題の妖は妖ではなく、使いだそうだ。何でも、稲荷の社があったのを取り壊して、蔵が建てられたらしい。
 現世利益のある稲荷は契約神で、頼んだ願いを叶える代わりにそれ相応の礼を貰わないとへそを曲げる神でもある。へそを曲げるといえば可愛いが、実態は祟るのだ。仏と違い、神は祟る。それは子供でも知っていることだ。特に稲荷は、無視されることをことのほか嫌う。社の前を通る際にも拝礼は欠かせない。祟る、という言葉と、稲荷の社の前に鎮座する使いが、蔵の鍵を持っていることから立てられた噂だろう。
 そんな話を耳にする度に、政宗は馬鹿らしいと思う。幼少期、何かあるたびに政宗はここを避難場所に用いてきたが、何かあった験しなどない。たまに人魂が浮かび、化け猫が寄り合いを開くくらいだ。そのくらい他でもあることで、特に着目すべきことではない。
 何かに化かされたか。
 政宗は立ち上がり土を払った。何かわからないが、何か人外が、政宗をここに攫って来たらしい。神隠しというほどのものではないそれは、妖相手ではよくあることだ。狐狸の類にでも化かされたのだろう。
 狐狸。
 そういえば、と政宗は蔵の外を目指しながら、乳母の喜多に聞いた話を思い出していた。喜多は、元々は神官の家柄に生まれた娘で、政宗の父が見出さなければ巫女になっていただろう者だ。そのため、そこいらの老人よりよほど不可思議な現象に詳しい。
 その喜多が以前、狐狸の違いを説明していた。あれは確か、狐狸か猫か、いずれにやられたのかわからないと、政宗が怒っていたときのことだ。朝、鳴家に突かれ目覚めると、政宗の枕元には山菜が置かれていた。代わりに、千代紙で折りあげた鶴が消えていた。盗られたというには微笑ましい話で、実際のところ、政宗も言うほど怒っていなかった。ただ、欲しければ一言くらい告げていけ、と癇癪を起こした振りで主張しただけなのだ。
 政宗は妖を忌避していない稀な人間で、むこうもそれは重々承知しているはずだが、このようなことはたまにあった。どうも、直接会いたくはないらしい。春には花々、夏には野菜、秋には果物、冬には雪兎。大葉の上にちんまり置かれた雪兎に、器用なものだと思ったものだ。
 そのとき、喜多は政宗を膝に乗せ、『山菜は昼に頂きましょうか。』などと言いながら、狐狸の違いを説明してくれた。抱き寄せられたとき、喜多が愛用している頬紅がうっとりするような桃の淡い香りを放ち、政宗の気持ちを和らげた。
 狐は化かすとき、こちらの手を引く。狐が先導することになるので、危険な目にはさして会わない。一方狸が化かすとき、こちらの背を押す。自分は安全な場所にいるので、化かす方のことは一切考えず、ぐいぐい好き勝手に押していく。悪意はないが、馬鹿。喜多は狸をそう評した。それを聞いて政宗は、『お前は狐か?それとも狸か?』と、狐狸が去ったであろう方向を眺めた。
 そんな政宗に喜多は笑った。
 『狸には気をつけてくださいね。政宗様。』
 『狐ならば良いのか。』
 政宗の問いに生真面目な喜多は、柔和な顔を曇らせ考え込んでから、困ったように目の下に笑い皺を作った。
 『場合によりけりでしょうか。妖ですから、頭から信じることはしないでください。もっとも、』
 「妖より人間の方がよっぽど怖い、か。」
 月だけを頼りに近付いた蔵の入り口で、何ものかがひそひそ会話をしている。自分を連れてきたものたちだろうか。政宗は気配を殺し、耳をそばだてた。しかし、声が小さくてどうも聞き取れない。仕方がないので姿だけでも拝んでやろうと近付くと、ゆらゆら橙の光が四つ揺れていた。一瞬鬼火かとも思ったが、それにしては青くないし、明滅もしている。
 目をよくよく凝らして、政宗はようやく納得をした。狐松明だ。狐松明というのはこの国周辺での呼び方で、他国では一般に狐火と呼んでいるらしい。それは通常長い列をなしているものなので、ぱっと見にはわからなかった。列をなすのは大勢の狐が集まっているからとも言われているので、一匹の狐ではそれほど多く出せないのだろう。尾の先で、炎が出でては燃えた。
 あのとき手首を掴んだ冷たい手は、狐のものか。そう独りごちた後、思わず、政宗ははっと息を飲んだ。四つの炎。一つの尾にそれぞれ一つ、合計四つ狐には尾がある。人とは思えない美しいかんばせが、闇夜に白く浮かび上がっている。だが、政宗が注目したのは造作の美しさではない。四つの尾と、それに呼応するかのような金色の瞳。
 天狐だ。
 妖狐の中で最上位の狐が、何の目的で、政宗をここへ連れてきたのだろう。急に政宗の中で、興味と不安がむくむく首をもたげてきた。こうなると自分でも手が付けられない。好奇心を抑えられないで物事をとことん追求するのは、政宗の美点であり悪点だった。
 あまりに凝視しすぎたらしい。蔵の入り口にひそりと立つ政宗を、天狐がはっとしたように見やった。その段に至ってようやく、政宗は驚きに目を見張った。尾と瞳にばかり気を取られていたが、その天狐は童だったのだ。
 いつの間にか、狐の傍から話し相手の姿は消え去っていた。元より、姿など持たないのかもしれない。
 交錯した視線を逸らすこともできず、政宗は狐と見つめ合っていた。なんだか懐かしいような気がした。











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