空中庭園 / 川原由美子 第三話   観用少女パラレル


 後頭部が痛かった。部屋は暖かく、布団は柔らかかった。実家ならまだしも、政宗のアパートにはこれほど寝心地が良い布団はない。大体帰宅した覚えもない。ふっと強い違和感を覚え、それまで眉間に皺を寄せ魘されていた政宗は、目覚めるなり勢い良くベッドから上半身を起こした。そこは見覚えのまるでない場所だった。まるで病室のように無機質で、白く面白味のない部屋だ。機嫌が再下降し始め、政宗は心の底から呻いた。一体何故、このような事態に陥ったのか。
 ベッドの横で椅子に腰掛けた三成が、悪びれた風もなく謝罪を口にした。
 「悪かったな。大丈夫か?倒れるなど、随分と無理をしていたのだな。」
 「……。」
 「そのような問題ではないと言いたそうだな。」
 当然だ。熱いものが胸にこみ上げると同時に手の甲へ零れ落ちた温い滴に、己のものを見たのが随分久しぶりで政宗は思わず言葉を失った。涙だ。悔し涙ではあるが、泣くなど、幼児期以来のことだった。政宗は無性に悔しくなった。何故、己は泣いているのか。それはわからないにしろ悔しいのは確かなことで、眼前の人物が元凶なのもまた確かだった。政宗は指の関節が白くなるほど掛け布団を固く握り締め、考える前に叫んでいた。
 「正月を実家で過ごす為に、割の良いこのバイトを選んだのじゃ…普段心配をかけておる分、小十郎や成実に土産を沢山買っていってやろうと!それが…っ!」
 政宗の様子に三成が目を白黒させている。もう少しこちらの想いを思い知れと思いながら鼻を啜った政宗は、きっと三成を睨みつけ苛立ち紛れに枕を投げつけた。だが腹立たしいことに三成は政宗から視線を逸らさず、何気ない風に枕を受け止めてしまった。強い衝撃に中の羽根が出てひらひらと宙を舞っていたが、それすらも凄く苦々しい。政宗が惨めさに唇を噛むと、三成が急に話題を変えた。
 「…政宗、恋人はいるのか?」
 「突然なんじゃ!」
 やけっぱちで叫んだ拍子にまたぽろりと涙が零れた。その様を見詰めながら三成は心此処に在らずという様子で言いあぐねた末に答えた。
 「…いや、一応な。」
 政宗が眉間に皺を寄せ視線で先を促せば、三成は顔を逸らして続けた。
 「男だとは、わかっているが…思いの外泣き顔が可愛いものだから、襲ってしまおうかと。」
 ぎしりと耳に届いた物音にふっと目を向ければ三成の片膝がベッドに乗っている。一瞬思考を停止させた後、状況をようやく理解した政宗はざっと青褪め大声で叫んだ。
 「ぎゃああああああ変態いいいいいい!」
 行き着けるところまで後ずさり、その拍子に背から床へと転げ落ちた。強く打ち付け腰が物凄く痛かったが、それ以上に貞操が大事だ。もう止めようがない涙を堪えることすら放棄して、あまりの衝撃に嗚咽も洩らし始めた政宗の口を三成が手で押さえつけた。それが尚更不安を煽って、政宗は強く目を瞑った。本気で終わりを覚悟した。
 しかし三成は何をするでもなく小声で政宗の耳に囁いた。
 「悪いな。こうしておけば、流石に盗聴をしばらく止めるだろう。安心しろ。家には帰してやる。新年の最初の日まで付き合ってもらいたいだけだ。」
 数度涙に濡れた睫毛を瞬かせた後ひっくと一度しゃくりあげ、鼻をすんと啜ってから政宗は震える声で尋ねた。
 「…何か楽しいことでも企んどるのか。」
 「む?」
 「ずっと何処かで知っとると思っとった。…わしの一つ年下の従兄弟が何か企んどる時と同じ目じゃ。」
 従兄弟の成実よりもよっぽど碌でもない企みのようだが、と政宗は続く言葉を口内で噛み殺した。もう藪蛇は突きたくなかった。三成が残念そうに笑った。
 「何だ。前世の恋人かと期待したのに、従兄弟か。」
 「…は?」
 「まあそれも変えてみせる。楽しみに待っていろ。」
 唇に柔らかいものが触れたと思うと、歯列を割り何かがぬるりと入り込んだ。それが何かわからずに、政宗はされるがままだった。頭が真っ白になってしまい、何も考えられなかった。突発的な出来事にただでさえ政宗は弱いのにそれが続いたものだから、思考回路はショート寸前だ。
 しばらくしてから満足げに遠ざかった顔に政宗は何をされたかようやく悟った。やばい、こやつ本物じゃ。政宗は耳まで赤く染め上げた後すぐさま顔を青くして、勢い良く手を振りかぶった。
 ばちんと大きな音が響いた。


 「お主のせいじゃぞ。ガラシャが可愛いものじゃから、ついつい辞めそびれてしもうた。」
 歯を磨き続けた政宗の腰に抱きつき不思議そうに様子を眺めていたガラシャは、政宗の言葉に嬉しそうに笑みを浮かべた。愛らしいその笑顔に思わず胸の高鳴りを覚え、あの変態とは大違いじゃと抱きしめると、小さな呟き声がした。政宗は思わず首を傾げた。
 「は?」
 「どうかしたのか?」
 「っ、この変態。わしの半径2メートル以内に近寄るなと言うておるであろう。」
 音もなく現れた三成をしっしと手で追い払う仕草をしてから、政宗はガラシャを背に隠した。ガラシャまで毒牙に掛けられてしまっては堪らない。あからさまに警戒している政宗に三成は小さく嘆息したが、それも自らの巻いた種だと僅かに苦笑するに留めた。
 「そう言うな。何か、あったようだが。」
 「それは…ガラシャが何かぼそぼそ言うて、」
 「待て、政宗!」
 しかし三成の制止も遅かったようで何処からともなくブザーが鳴り、政宗は驚き周囲を見回した。
 「何じゃ…?」
 ガラシャを守るように抱きしめ戸惑いを見せる政宗に、三成は珍しく焦った様子で苛々周囲を歩き回った。その三成の様子に不安に駆られる政宗の想いを感じ取ったのか、ガラシャも今にも泣きそうな様子で抱きしめる腕の力を強めた。
 三成は誰にともなく呟いた。
 「くそ。そうか…そうだな。政宗には懐いているのだから、その可能性はあったのか…。」
 「何か…悪かったか?」
 「いや、政宗が聞く分には問題はないが…問題は、今のを聞かれたということだ。」
 言い切らないうちに開かれた扉へ目を向けると、ガードマンやスーツ姿の男たちが雪崩れ込んできた。その先頭に立つスーツの男を三成は目を眇め笑いかけた。
 「これは素早いお越しですな…家康殿。」
 「黙りたまえ。君に用はない。わしが用があるのは少年だ。」
 政宗は頬を引き攣らせた。履歴書を見て年齢を知っているだろうに、少年とは。そもそも閉じ込められた恨みもある。反感を覚えた政宗は家康を睨みつけたが、全く気にせず家康は言った。
 「少女の言葉を聞いたというのは本当かね?」
 「…はい。」
 「君を今すぐここから出してあげよう。そして約束の手当ての百倍出す。だからそれを教えてくれぬか?」
 「…どういうことじゃ?」
 意味がわからず隣を仰ぐと、三成が口端を歪め嗤った。
 「こいつらにとってそれだけ重要ということだ。まあ、俺の甥っ子だがな。」
 「黙れと言っている!…さあ、少年。」
 差し出された手を一瞥し政宗はふいと顔を逸らした。
 「…別にここを出とうもないし、そんな大金も欲しゅうない。」
 「!!」
 「貧乏人は金につられるとでも思っておるその態度が、わしは非常に不愉快じゃ。」
 その言葉にいきり立ち、家康がおかしそうに笑う三成を見た。手が怒りに震えている。内心、少し言い過ぎたかと政宗は思った。面倒ごとに巻き込まれた上給料なしでは割に合わない。
 そんな政宗の焦りを知らず、家康は歯軋りをして叫んだ。
 「貴様、何を吹き込んだ!」
 「俺に何か出来るとでも思っているのか?金も自由もない男だぞ。そんな俺に出来ることと言えば、色仕掛けくらいなものだろうな。」
 「冗談を!彼は男だろ…う。」
 先ほどのやり取りを聞いていたのか、家康の語尾が頼りなく消えた。その泳ぐ視線に内心動揺し、政宗はガラシャを強く抱きしめた。政宗にそんな気は毛頭ないし、そもそもそんな勘違いをされた時点で不愉快だ。何故、そのように目を逸らすのか。こちらを見ろと政宗は家康を睨んだ。
 しかし、三成は鼻先で笑った。
 「冗談と本気の見分けもつかないのか。くだらん男だ。」
 一歩、政宗が後ずさった。腕の中でガラシャがきょとんと政宗を見ている。政宗は恐る恐る尋ねた。
 「…冗談、じゃろう?」
 「冗談だと思うか?」
 「…。」
 柄にもなく微笑う三成の姿に政宗は本気で寒気を感じた。やばい、こやつ本気じゃ。思わず歯を磨いたばかりの口に手を当て更に後ずさる政宗に、同様に本気を察して家康が大声で叫んだ。
 「しょ、少年、わかっただろう!その男は危険だ!こちらに来なさい!」
 雇用主として、問題を起こされては困るのだろう。政宗も本気で頷きたかったが、先ほど誘いを蹴った手前すぐさま乗ることも躊躇われ、また一歩後ずさった。二進も三進も行かない状況に、悪寒ばかりが背筋を走った。そんな周囲の様子をガラシャは睫毛を瞬かせて交互に見やった。
 素知らぬ顔で三成は遠くを眺め呟いた。
 「忙しいからと滅多に会いに来ない孫達の話をするとき、秀吉様は寂しそうだった。」











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初掲載 2007年10月21〜24日