以来、毎朝ガードマンに鍵を開けてもらうことで、政宗の一日は始まった。
掃除や洗濯は毎日無口な人々がやって来て片付け、冷蔵庫も中身を補充していく。政宗の仕事は三時間かけて一杯のミルクを温める作業を一日三回繰り返すだけだ。話では亡き秀吉夫妻とその親友であった雑賀孫市という男、そして政宗が来るまで繋ぎとしてやって来ていたガラシャの作り主である明智光秀という匠によってのみ、ガラシャはミルクを飲むらしい。それゆえ、院を卒業した後ここで就職しないかと持ちかけられ、政宗は正直困っていた。一応大企業への就職になるが人形の世話が主な仕事とは、折角院まで進んだのに意味がない。
しかしそれでもガラシャの世話は楽しいもので、満面の笑みで出迎えられ、悲しそうな顔で見送られればそれも良いかもしれないと思う。人形の元に永久就職しますなど、教授に告げれば世迷いごとと目を剥くだろう。今は休学しているが、首席学生である政宗は大学の顔であり、企業から引く手数多の身なのだ。
政宗がガラシャに心奪われている間にも、謎の男石田三成は自分の食事を作り、片付けた。不器用なのかどうでも良いのか、お世辞にも美味そうに見えないそれを黙々と食べる姿は詰まらなさそうだ。レパートリーも物凄く少ない。しかし政宗も初めに言われたことが念頭にあり、トーストが焦げていても、卵焼きがスクランブルエッグと化していても、三成がそれを望んでいるのだと一切口も手も出さなかった。
電話は磨く必要もなく、郵便受けが音を立てる気配もなく、無論客人の訪れもなく、一日は淡々と過ぎていく。日々は粛々とこなされて行き、気付けばもうクリスマスの時期だ。政宗は落ち葉を吐く手を休め、窓から見える空を見上げた。コートを着込みマフラーを身に付けてなお沁みる寒さに、吐息が白く立ち昇る。政宗は腰に抱きつくガラシャが風邪を引かぬよう耳当て付きの毛糸の帽子を直し、初めて会ったテーブルに着いて読書をしている三成を見やった。
政宗の視線に気付いたらしく、三成が顔を上げ眉をひそめた。
「何度も言うが、掃除する必要などない。それで貴様の給金が上がるわけではなかろう。」
「…一日三回ミルクをお出しするだけの仕事としては、法外なお手当てを約束頂いております。」
「それは何よりだ。」
それだけ告げて、三成は再び書籍へ目を落とした。幽閉されているという割に、現状を全く意に介している様子はなく、日がな一日、この奇妙なほど寒い廃墟で読書をして過ごしている。政宗は三成に纏わる謎が気になって仕方がないがまさか問うことも出来ず、咽喉に小骨が引っ掛かったような思いで日々を消化している。
観用少女は多弁ではなく、口を利くことも珍しいという。政宗はガラシャが何か言えたらとちらりと視線を投げかけて、寒さにふるりと身を震わせた。
「っくしゅん!」
政宗が堪えきれずしたくしゃみに顔を顰め鼻紙を求めてコートのポケットを弄ると、心配そうなガラシャと目があった。可愛いものだと思いながらすんと鼻を鳴らし顔を上げると、驚いたことに、三成が政宗を見詰めていた。
「風邪か?」
「失礼しました。大丈夫です。」
どうせ皮肉の一つでも言われるのだろうと思い、鼻をかんでから当たり障りなく政宗は答えた。それに対して三成は意味がわからぬとでもいう風に眉をひそめ、温かい部屋へと通じる扉を示した。
「寒いのならば中に入っていれば良い。」
「家政婦が主人より温かい場所にいる訳には参りませんので。」
政宗が瞬時にそう返せば、三成が呆気に取られたように目を瞬かせ、しばらく経ってから腑に落ちたように呟いた。
「…そういうことか。」
「はい?」
「悪かったな。てっきり好きで掃除をしているのだと思っていた。中へ入るぞ。」
椅子から立ち上がった三成は言うなり、政宗の肩を引き寄せて掴み歩き出した。その反対側からガラシャが抱きついているので、正直物凄く歩き辛い。政宗は足がもつれぬよう必死に後ろ歩きで応じながら、状況がわからず瞬きした。
「は?」
「俺に付き合って病気になったら、馬鹿丸出しだ。」
一体何が三成を変えたのだろう。こんなことを言い出すような男である訳がないと妙な確信を抱きつつ、政宗はずるずると引きずられるようにして温かい部屋へと移動させられた。
「温かくして座っていろ。今、熱いミルクを持っていく。」
政宗をソファに座らせた三成は反論を許す暇もなく台所へと向かってしまった。政宗は夢でも見ているような心地で、ソファの後ろから首元へ抱きついてくるガラシャの頭を撫で、三成が手にしたものに思わず目を見張り立ち上がりかけた。
「三成様、あの、それはお嬢様の。」
「観用少女用のミルクは栄養価が高いからな。」
「しかし。」
「良いから座っていろ。ついでに何か作るか。何が食える?」
そう言って三成は冷蔵庫の戸を開け放したまま背後を振り向き、苦虫を噛み潰したような顔でいる政宗の様子に眉をひそめた。
「…どうした?」
「…いえ。」
言い難そうに一瞬詰まり、政宗は同意を求めるようにガラシャを見てから、三成の方へ視線を戻した。
「てっきり嫌われていると思っていたので、正直、面食らっております。」
「…。それで、何を食う?」
その後、三成の料理の腕前を知っているので丁重に断った政宗は、差し出されたミルクを戸惑うように見詰めていた。シンクの中でミルクパンが凄い有様になっているのが気になるが、一応、普通のホットミルクのようである。三成は自分用に紅茶も淹れて、政宗の正面へ腰を下ろした。
「飲んだら今日はもう帰って休んで良い。これも、今日の分のミルクは飲んだしな。」
そう言い三成はガラシャを一瞥し、後ろめたそうにそっぽを向いた。
「…悪かったな。俺は慣れているから気付かなかった。まさか風邪を引かすとはな。」
意外すぎるその台詞に、この男が謝罪の言葉を、と内心目を白黒させていると三成が政宗を睨んだ。僅かに赤く染まった眦を見るに必死に紡いだ謝罪らしい。政宗はどうしたものか困り、当たり障りない言葉を口にした。
「いえ…。やはり寒いですよね、あの庭。」
「冬だからな。」
「そうですが、外よりよほど寒いです。木も草も、何もかも枯れていて…ここの空中庭園は夢のように綺麗な場所だと聞いていたので、少し落胆していました。」
常にない対応をする三成に引き摺られてしまったのだろうか。思わず政宗が本心を吐露すると、三成は不満そうに鼻を鳴らした。
「亡くなった秀吉様の祟りだろう。」
「は?」
「一族の馬鹿者共を嘆いているのだ。」
冗談を口にするような性格とも思えず、しかし本気で言っているとも思えず、しばしの沈黙を間に挟んで政宗は躊躇いがちに尋ねた。
「…本当に私は、三成様を主人と思わなくて宜しいのでしょうか。」
それを政宗が口にするのにどれだけの勇気を振り絞ったか知らず、三成はさも当然のように答えた。
「良いと言っているだろう。俺に対してもそれに対しても、敬語も使わなくて良い。…何故だ?」
「では失礼して…。」
政宗は大きく深呼吸して、三成の顔を正面から見た。
「被雇用者が雇用者に興味を持つのは、わしは粋ではないと思うておるゆえ。しかしまあ、とりあえず、これで安心して聞くことが出来る。お主は何者で、何故このようなところに幽閉されておるのじゃ?」
「時代錯誤だが、敬語よりその言葉遣いの方がしっくり来るな…しかし、本当に知らないのか?」
「?」
意味がわからず首を傾げる政宗に、三成は「では俺の気のせいか。」と小さく呟いた。
「知っていると思っていた。暢気な様子で過ごしていたからな。…そうか。本当に貴様は律儀で優秀な家政婦だったのだな。」
あの三成に褒められているのだと思うと、薄ら寒いようなくすぐったいような気持ちがした。同時に、何やら不穏な成り行きに政宗は早くも後悔していた。しかしそうは言っても、政宗は元々好奇心の強い方だ。これまでずっと気にかけていた謎の真相が目の前にあるのに、ここで踏み止まれるはずがない。一抹の不安に駆られながらも、政宗は首に回されたガラシャの腕を握ることで無理矢理それを押さえつけた。
「成程、それも見る目があるようだ。今まで信じていなかったが、秀吉様の仰られた通りだな。」
三成は政宗の様子を眺め、面白そうに小さく笑った。
「問題を出そう。…幽閉されるような奴は昔から二通りしかいない。まず、危険人物だ。人や世間に害を及ぼす恐れがある。あらゆる意味でな。もう一つは、存在自体が邪魔な人物…二者択一だ。どちらだと思う?」
その問いかけに、政宗は思わず眉間に皺を寄せて呻いた。
「…凄く嬉しくない二者択一じゃな。」
「まったくだ。」
「しかし前者は物の見方じゃと思うし、後者は認めとうないゆえ、わしは前者じゃと思う。」
考えもせずすぐさま答えて政宗は、その答えに黙り込んだ三成の態度に内心首を傾げて尋ねた。
「正解か?」
「…そうだとするならば、貴様はずいぶん勇敢だな。身の危険を感じないのか?」
答えあぐねた末呆れたように問うた三成に、政宗は緩く首を振りガラシャの頭を優しく撫でた。
「いや、…身の危険を感じるならばさっさと帰っておるし、…それにそんな危険な男であれば、ガラシャが大人しく近くにおるはずがない…ミルクこそ飲まんが。」
同意を求めるようにガラシャを見やり珍しく微笑んだ政宗の姿に、三成は一瞬動揺を見せ、それを隠すようにソファへ踏ん反り返り、唐突に言った。
「実は、俺はつい先日亡くなった秀吉様の実の息子なのだ。」
「…は?」
「ついこの前死ぬ直前に認知されたばかりでな。秀吉様とは長い付き合いだったが、俺も周囲もまったく知らなかった…亡きねね様は御存知だったらしいが。お陰で一族中大混乱だ。」
「…102歳で亡くなったとニュースで見たが。」
「俺が生まれたときには既に80歳だ。まったく、終生女に目がない人だった。ねね様もさぞ気を揉んだことだろう。何にせよ、孫達は皆年上で、他の子供達は皆墓の下。どういうことだかわかるか?」
三成の問いかけに数度瞬きした後に、政宗は呆気に取られて答えた。
「後継…者…?」
口端を歪め三成が笑った。
「酔狂な方だろう。認知などしなければ平和だったのに。家康が歯軋りするわけだ。」
「…そういうことか…先の問いの答え。存在が邪魔じゃというのは。」
「いっそ殺してしまえば楽だというのにな。」
三成の物言いに衝撃を受けて、政宗は思わず絶句した。だから、初めて会ったとき以来毒を盛るのがどうのと言っては、お世辞にも美味しそうだとは言えない食事を作って取っていたのか。唖然としている政宗に人の悪い笑みを浮かべて、三成がふんと鼻を鳴らした。
「だが心優しい孫たちはそんな手段に出ることが出来ない。だからこうして一族の総本山のビルの屋上に閉じ込めているのだ。揉め事を外に出さぬようにな。それでは何も変わらないのに、まったく、我慢が身上の家康らしい。」
「…要らぬとは言えぬのか?」
「何を?」
「相続権じゃ。そうすれば、」
「…ああ。」
口端を吊り上げ笑う三成に政宗が悪感を覚えたのも束の間、三成は当然のように言い切った。
「放棄していないから、俺はここにいるのだ。当然だろう?持てる権利は主張しなければな。」
流石に政宗が呆気に取られ絶句したまま三成をまじまじと見やると、頬杖をついて三成は腹のうちの読めない笑みで応じた。それは政宗の不安を更に煽るのに十分すぎるほど不穏で怖い笑みだった。
「この一族のトップは“王”だ。絶対服従…どんな無茶なことであろうとな。俺は秀吉様の傍でそれをずっと眺めてきたから知っている。王になれる権利など、そうそう落ちているものでもないだろう。俺はここの生活も苦ではないし、母も亡くなっている。心配する者もいない。要は根競べをしているようなものだ。敗色は向こうの方が濃いがな。」
目を剥き次いで強い眩暈に襲われ、今にも卒倒しそうな常識人の政宗の意識を辛うじて現実に留めたのは首に回されたガラシャの腕だった。それでも目が回りそうな事態に何が何やらわからずにいると、急に三成が話を変えた。
「ところで、俺は貴様に心から感謝しなければならない。」
「は?」
「ここにはあちこちマイクが仕込まれていてな、会話が筒抜けなのだ。こんなことを知ってしまった貴様は、きっともう外に出ることは出来まい。」
これは聞き間違いだろうか。そうであってくれれば嬉しい。政宗は勢い良くソファを立ち上がり、取るものも取らず部屋を飛び出した。頭が巧く回らないくらい心の底から慌てていたため上着一枚羽織らない身体は、外気に触れて震えたが、政宗は気にせず扉へ向かった。
「っガードマン、わしは今日早退じゃ!」
ばんと扉を開け言った政宗に、ガードマンは驚きを微塵も見せずいっそ薄ら寒いほど爽やかな笑みで答えた。
「恐れ入りますが、当分こちらでお過ごし願えませんか?」
「な!」
「お風邪を召したということで今すぐ医者も参りますし、必要なものがあればお届けを…あ。」
何故このような目にあうのだろう。ただのバイトだったはずだ。割が良いから適当に決めて雇用されただけの、簡単な仕事のはずだった。やはり雇用主に関して問うのは粋ではなかったと思いつつ、政宗は意識を失った。
初掲載 2007年10月21〜24日