男が徳川本陣に単騎突入を仕掛けたのは、正午を回った頃であった。政宗は待ち受けていた獲物が到来したことを悟ると、汗血馬から降りて男を見やった。
赤揃えで全身を包み込んだ男は、家康が恐れながらも敬い続けている亡き武田の象徴のようなもののふである。真田の次男坊、真田幸村だ。政宗はいまだ亡霊に取り憑かれたように固執し、必死になってしがみついている幸村や家康を哀れと思った。既に死したものに未練がましく執着したところで、今更何を得られよう。家康は信玄の影に怯え、幸村は死に邁進している。彼ら二人を見てみたところで、失うものこそあれど、何を得られているようにも思えなかった。
「家康公は此処には居らぬ。既に安全な場所へ向かった後じゃ、馬鹿め。」
政宗の放った言葉に、幸村は疑るように目を細めた。その目に、疑念、それ以上の焦燥と諦念が浮かび上がった。
此処に至るまで、激闘に次ぐ激闘を渡り歩いて来たのだろう。政宗には、全身刀傷の絶えない幸村は、最後の命を燃やして此処に立ち続けているように思えた。否、もう振り絞るだけの命も尽きようとしているからこそ、幸村は最後の頼みで突入を決行したのだ。
政宗はそのようなもののふを失うのは惜しいと思った。大戦後移り変わろうとしている泰平の世に、幸村のようなもののふの居場所が在るのか、政宗にはわからない。これより来るは、戦うしか能のない男など不要な時代だろう。しかし、だからこそ、政宗は戦乱最後のもののふとして、幸村を手元に置いておきたいと思った。
「幸村、お主ももう身の程を弁えたであろう。家康公にはわしから提言してやる。わしの下に来い。」
ぽつりと頬を濡らす感触に、政宗は視線のみで空を見上げた。空一面を覆い尽くさんばかりの黒雲からは、雨が降り出そうとしている。僅かに青空を覗かせる雲間に、政宗は皮肉な笑みを浮かべた。それはまるで、勢い付く徳川に必死で抗い続ける豊臣の現状を反映したかのような空だった。
「時勢すら読めぬか…浅はかよな。」
目を伏せ、呆れ返った様子で溜め息を溢した政宗の眼前で、沈黙を守っていた幸村が槍を構えた。疲弊した身で良くぞ構えられる、と味方であれば褒め称えたくなるような得物である。しかし、政宗は自らに背いた敵に贈るような賛辞を持ち合わせていなかった。
「負けに味方するが真田の意地か。安い意地よ!」
すらりと腰に差していた刀を抜き、言い放つ政宗に、幸村が返した。
「幸村愚鈍なれば、言葉にて返答あたわず。利根なる政宗様には、我が槍をご覧なるべし!」
何時の間にか、雨は土砂降りと化していた。
滑る地面に足を取られそうになった政宗は、舌打ちを堪え、幸村の猛攻を刀で弾き返した。槍で跳ね飛ばされ地面に転がった際、火薬が湿気てしまったようで、銃が使い物にならぬとなれば、政宗には刀しか残されていない。大槍という得物を用いる幸村の前に、細身の刀は不利でしかなく、ないよりはましという程度の働きしかなさなかった。
政宗は、幸村というもののふを甘く見ていた。今まで散々歴戦を重ね、消耗しているはずだ。実際、相対した当初の幸村は、気力を振るいようやく立っているという状態であった。
それが、実際は、この様だ。
入り込んだ雨風に濡らされた前髪が張り付き、政宗の限られた視界を奪う。元より隻眼で、悪天候のため更に視野を狭められていた政宗にとって、それは致命的なことである。だが、鍔迫り合いで圧されている今、髪を払い除けるわけにもいかない。政宗は僅かに覗く視界から、ぎらぎらと滾るような目で幸村を睨みつけた。
きん、と高い音が立った。
圧し負け地面に尻をついた政宗の首元には、幸村の槍が突きつけられている。これで、仕舞いだ。随分呆気ないものと自嘲の笑みを浮かべる政宗の眼前で、幸村の目が苦渋に眇められた。怪訝に思い、感情を映さない目で見やる政宗を眼下に、血の滲んだ口端を真一文字に引き伸ばし、幸村が吐き捨てた。
「私には…斬れません。」
咽喉元に突きつけられた槍の刃先は、何時の間にか、細かく震えている。政宗はそれを眼下に一瞥し、幸村へ視線を移した。
「今更になって、斬れぬと申すか。」
返答はない。それが何よりの返答だと思いながら、政宗は幸村に言い放った。
「…まこと、愚鈍よな。」
同時に、手にしていた刀で槍を跳ね上げ、幸村に足払いを仕掛ける。刃先が薄皮を裂き血が流れたが、政宗は意に返さず、転がった幸村の腹を動けぬよう膝で踏みつけた。弾かれた槍は、今、幸村の手を離れているが、何が起こらぬともわからない。政宗は自らの盲目が為す余裕を捨て去り、初めて、本気で幸村に相対した。
覗き込む政宗の首から滴り落ちた血が、幸村の首元を汚す。降り頻る雨で薄められ流れ落ちた紅は、幸村の咽喉に一文字を描いた。政宗はその線を指先でなぞり、侮蔑を口にした。
「斬れぬもののふなど、生きる価値もないわ。」
政宗の嘲りに、幸村が僅かに瞑目した。今の幸村からは、先までの異常な輝きが失われている。もう、本当に仕舞いなのだ。政宗は心底の落胆と蔑視、僅かばかりの労いを込めて、幸村に宣告した。
「慈悲をくれてやる。―――ゆっくり休め。」
そして、咽喉元の直線を目掛けて、刀を振り被った。
翌日、怨敵の首級を挙げた政宗のことを、家康は口を極めて絶賛した。政宗は耳障りの良い言葉の数々に、時に相槌を打ち、時に謙遜しながら、心中別のことを思っていた。
今は固く握り締めて隠しているが、幸村の首を落とした右手が未だに震えている。この右手はもう使い物にならないかもしれない。脳裏を過ぎった不安に、政宗は自嘲の笑みを溢した。
元より、太平の世には人殺しのための右手など不要であろうが。
初掲載 2009年11月29日