第二話 アイドル / 間々田優


 ばたばたと熱い紅が鎧を汚していく。
 皮肉だと政宗は思った。まさか、死する最期に見えるのが、この男であるとは。身を捩ると、腱が切れているのか引き攣るような激痛を伴って、肩が微かに揺れ動いた。肺は詰め物をされたように役立たずで、呼吸を許さなかった。擦れいく目を凝らし、政宗は必死で眼前の男の様子を探った。
 視界に映るのは、在りし日、己が首を掻っ切った幸村の姿だった。




 「ねえ、政宗さん。言われっぱなしで良いの?」
 真紅に彩られた爪を見詰め、こぼした宰相気取りの女に、呼びかけられた政宗は胡乱な眼を投げかけた。妲妃は自らが呼び止めたというのに気にした風もなく、依然として爪の手入れを続けている。政宗は、妲妃の見せる勝手さに腹立たしさを覚える一方で、次に突き付けられる台詞に身構えていた。妲妃とは浅からぬ付き合いなので、人が目を閉ざしている無様な真実を曝す場合、このような態度を取ることを政宗は知っていた。
 そして、現在、政宗に直接突き付けられて困る真実など、一種類しか存在しない。
 妲妃は政宗の態度を視界の片隅で捉えたのか、軽く肩を竦めてみせた。
 「私は信じてないのよ。信じていたら、こんな同盟、馬鹿げてるもの。」
 そう苦笑をこぼした妲妃が、初めて、政宗の眼を真正面から捉えた。その目に浮かぶ疑念は正しく政宗の真実を写し取っていたが、政宗は努めて平然と妲妃を見つめ返した。
 政宗は実に巧く立振舞ってきた。元より地位のあるものが前線で戦うことは稀に等しい。政宗が陣頭指揮しなければならない戦など、存在しなかった。これまでは。
 しかし、最早、限界だった。遠呂智軍が崩れ去り、妲妃と残党を掻き集め、遠呂智の復活を企んでいる今となっては、政宗が出陣しないわけにもいかない。
 伊達に身を寄せる司馬イは非常に有能な男だったが、戦働きの方は策略ほど腕を振るわないのが常である。兵の鼓舞ということにかけて、司馬イほど不得手な者は居ないだろう。大体、布陣を練るには、前線のような場所ではなく、広く物事を捉えることの出来る奥の方が適していると政宗も重々承知している。それゆえ、政宗は司馬イに戦を任せ切りにするわけにもいかなくなっていた。
 だが、そのせいで、どれだけの不利益を被ることか。
 「佐竹や最上には気をつけて頂戴。私はこれでも、政宗さんのことを心配してるのよ。」
 妲妃はそう囁いて、再び、視線を爪へ戻した。
 政宗には、妲妃の言いたいことが痛いほど解った。妲妃は、決して口先で誤魔化したように、政宗のことを懸念しているわけではない。伊達が欠けることで事態がどう転ぶかを、恐れているのだ。伊達の統率力が失われれば、頭を押さえつけられている佐竹や最上が反旗を翻すことは想像に難くない。事実、政宗への疑念によって火は燻り、煙を立ち昇らせつつあった。
 だから、妲妃は政宗に釘を刺したのだろう。
 伊達当主には人が斬れぬ。不本意な噂が事実として広まるのは、既に時間の問題だ。政宗は妲妃の部屋を離れ、自室へ向かいながら、唇を噛んだ。
 斬れぬもののふなど、生きる価値もない。かつてそう嘲った自身が、今ではその根性無しの仲間入りを果たしているのだ。皮肉としか言いようがない。政宗は口端を歪め、笑みとも取れるようなものを浮かべながら、己の手へ眼を落とした。
 政宗が幸村の首を落とした記憶は、今も鮮明に脳にこびりついている。どれだけ削ぎ落とそうとしても叶わぬ記憶があるとすれば、それは、父や弟を犠牲にしたことと、幸村をこの手にかけた瞬間だろう。
 政宗は強く手を握り締め、きっと前を向いた。
 あのとき、政宗はいまだ亡霊に取り憑かれたように固執し、必死になってしがみついている幸村や家康を哀れと思った。既に死したものに未練がましく執着したところで、得られるものなどあるはずもない。家康は信玄の影に怯え、幸村は死に邁進していた。彼ら二人を見てみたところで、失うものこそあれど、何を得られているようにも思えなかった。
 その感想は今もって変わりない。むしろ、彼らの立場となったことで、政宗は益々愚かしい行為と思うようになった。
 感傷に浸るわけにはいかない、政宗は失うわけにはいかないのだ。


 運命とは、思わぬ采配をするらしい。政宗は皮肉に嘲笑を浮かべた。
 長坂にて一年ぶりに相対した幸村は、草臥れた木綿を思わせた。信玄から言い付かって来たのだろう、反遠呂智軍へ誘う文句が如何にも陳腐に感じられて、政宗は鼻で笑った。
 だが、どれだけ嘲ろうとも幸村の実力は本物だった。幾度か打ち合っただけで、久しぶりの実戦に耐え切れず、政宗の腕は音を上げた。
 現在、政宗の首元には、幸村の槍が突きつけられている。政宗は感情を見せぬ目で、幸村をねめつけた。幸村ははっと息を呑んだきり、押し黙っている。常は隠された咽喉元へ白く走る傷痕に、それが意味するところに、気付いたのだろう。
 「…何故斬らぬ。斬れ、幸村。主ならば出来るであろう。」
 言い募る政宗を前に、幸村は苦渋からか目を背けた。政宗は激高した。
 「わしを馬鹿にしておるのか、斬れっ!」
 幸村は瞑目するばかりで言葉を発しない。沈黙に耐え兼ねて、政宗は手を弾き飛ばされた剣の方へ伸ばした。
 「貴様が斬れずとも、わしはやれるっ!」
 政宗は幸村を引き倒し、馬乗りになった。忘れたわけがない、幸村も知っているはずだ。幸村と異なり、政宗の方は幸村を手に掛けるなど造作もないという事実を。
 「わしは貴様とは違う、貴様とは違うのじゃっ!」
 やれるはずだった。斬れぬ道理がなかった。最早この右手が使い物にならぬなど、政宗の錯覚でしかなかったのだ。そのはずだ。そのはず、だった。
 政宗は慄く唇で、何事か紡ごうとした。眼下の右手は、無様に震えている。
 周囲を犠牲にして歩むことを宿命づけられた己が斬れぬなど、とんだ茶番だ。政宗は決して敗北など、認めたくなかった。父も弟も、天下への礎となって亡くなったのだ。動乱の世にあって天下とは、戦の末勝ち取るものである。天下を取れぬと、敵を斬れぬというのであれば、その生は価値がない。価値が見出せぬならば、死ぬるしかない。そのことを、政宗は痛いくらいに承知していた。全てを、父や弟を犠牲にして邁進してきたのだ。今更、斬れぬで許されるはずがなかった。
 仮に孫市が傍らに在ったならば、政宗にしては軽率であったと苦言を呈しただろう。政宗にしても、此度の戦で人を斬らねば、佐竹や最上に謀反の切欠を与えるという不安と焦燥ばかり募っている状態だったので、警護が甘くなっていた。
 ふと、幸村の目が訝るように眇められた。幸村の目は政宗を超えて、遠くを見ている。ぐらりと政宗の体が傾いだ。
 はたして、政宗が苦痛に声を漏らしたのと、幸村が状況を理解し目を見開いたのと、どちらが早かっただろう。
 妲妃の懸念も既に遅く、佐竹や最上は動いていたのだ。政宗は身を貫く激痛に思考を侵されながらも、冷静に事態を受け止めていた。狙撃されたようだ。政宗を助け起こした幸村が、何か指示を吐いている。最初は耳をつくばかりであった怒号も、痛みに、次第に遠のいていった。
 ばたばたと熱い紅が鎧を汚していく。
 皮肉だと政宗は思った。まさか、死する最期に見えるのが、この男であるとは。身を捩ると、腱が切れているのか引き攣るような激痛を伴って、肩が微かに揺れ動いた。肺は詰め物をされたように役立たずで、呼吸を許さなかった。擦れいく目を凝らし、政宗は必死で眼前の男の様子を探った。乾き切り、白くなった唇を開いた。
 斬れぬもののふなど、生きる価値もない。
 あの日、政宗が嘲った相手は幸村ではない。蔑視を向けられて然るべきは、己だった。
 最期に、そのことを詫びたかった。











初掲載 2010年2月13日