第十一話 孫尚香、涙を見せる (※色モノです)


 江戸城攻めが決行されたのは、冬のことだった。
 戦前の雑然とした空気に浸りながら、政宗は空を見上げた。一雨振りそうだ。この調子では、雪かもしれない。猫耳がばれてからも外すことのなかった兜がずり落ちるのを手で押さえ、小さく嘆息する。これが罠かもしれないことは、みな、百も承知だ。蜀軍はこれまでも散々贋情報に踊らされ続けているし、妲妃はことのほか搦め手を好む。これが、罠でないはずがなかった。
 そのときのことである。
 「よう、政宗!」
 ふと懐かしい声を耳にして、政宗は後方を振り仰いだ。孫策だ。援軍を買ってでた呉は、大将自ら、この戦に乗り出してきたらしい。政宗は、孫策らしいものだと顔を綻ばせて、掲げられた手を己の手と合わせた。ぱん、と高い音を立てて触れ合わせた手を握り合わせ、政宗は孫策と久方ぶりの再会を祝った。
 「まさか、大将自ら出向くとはな。お主らしいわ!」
 政宗の言葉に、孫策が人好きのする笑みを浮かべる。
 「へっ、何てことはねえよ!大喬が世話になったらしいからな。礼の一つもしなきゃ駄目だろ?助かったぜ!」
 なるほど、人誑しの才とはこの笑みを指すに違いない。政宗は笑い返しながら、内心、大喬はどこからどこまで夫に内情を漏らしたのか、不安に思った。まさか大喬も、夫の親友を女装させて遊んでいたなどとばらしはしないだろうが、互いが互いに大切なあまり、秘密など一切作らなさそうな夫妻のことだ。大喬の主観も混じって、あることないこと話したのかもしれない。しかし、政宗の懸念を笑い飛ばすかのように、孫策はふいと目を江戸城へ向けた。
 「江戸城か…俺の親父もでけえ城に捕まってたんだよな。」
 大阪城のことだ。政宗は口を開こうとして、止めた。政宗が遠呂智軍にいた際、劉備は捕虜棟に捕らえられており、あちこち居場所を移されている様子だった。孫堅も同様だ。だから、その流れでいけば、劉備は情報どおり江戸城に捕らえられていると考えるのが妥当だろう。
 だが、はたして今回もそのように判断して、行動に移してしまって良いものだろうか。ここがどうも、政宗には引っかかる。反乱軍の働きによって、遠呂智軍からは次々と将が離反している。政宗や司馬イ、そして、魏のものたちもそうだ。かつてと異なり現在の遠呂智軍には、王たちを分散させて捕らえ続けておけるほどの人手はないだろう。塵芥のような雑兵ではなく、王たちを狙って襲い掛かる猛将を退けることのできる将が足りないのだ。ならば、一つどころに集めた方が、妲妃の監視の目も行き届くという寸法である。
 とすれば、妲妃は一体どこに王たちを捕らえておくか。
 それは、江戸城ではない。遠呂智軍がねぐらとし、何より、場所の特定されていない古志城だ。牙城の場所がばれておらぬのは、何よりの強みである。仮に妲妃が戦に出払ったために守りが手薄になったとしても、襲撃してくる敵は皆無なのだ。
 だが、これくらい、政宗以外のものでも思いつくことだ。実際、蜀軍内部を例にとってみると、自らを戦屋と称する島津義弘も、同様のことを考えている節がある。それでも、劉備の姿を求めて江戸城に攻め入らねばならないのは、古志城の情報が一切入ってこないからだ。実際に、その城が実在するのかどうかさえわからないのである。その場所など、誰も知る由がない。慶次や呂布は知っているかもしれないが、本当に知っているのか不確かな上、いまだもって遠呂智軍に在籍する身であり、捕虜とするにはかなり骨が折れる実力の持ち主である。とすれば。
 政宗は、ふいに全てを悟って、呆れから幾度か瞬きをした。なるほど。なぜ、徳の高い蜀の参謀などを務めている人物が遠呂智軍に居座り続けているのかと大いに不思議がっていたが、これで、謎は解けた。月英など常はあれほど頭の切れる女だというのに、夫の変心に心乱されて、頭が回らなくなっているようだ。そうでなければ、気づくであろうに。妲妃も大概、多忙に気を取られている。今まで散々気を払っていたというのに、蜘蛛の巣のように張り巡らされた策に気づかないとは。流石は天才軍師ということか。どこまでも腹の読めない、喰えない男だ。
 それまで、政宗は諸葛亮のことを薄気味悪く思っていた。だが、それすらも演技だと言うならば、大したものだ。それとも、あれが素なのだろうか。政宗はふいに背筋を駆け上がる怖気に、身を震わせた。思えば、政宗が大喬を逃がしたのも、こうして蜀軍に身を落ち着けているのも、諸葛亮の鶴の一声が発端である。やはり、忌々しいほど喰えない男だ。
 政宗は眉をひそめた後、一点、晴れがましい顔で、孫策の憂いを晴らすように背を叩いてやった。
 今日の捕り物は面白いことになる。


 江戸城攻めは困難を極めた。
 あまりに苛烈な猛攻や容赦ない策に、政宗は何度、読み誤ったか、と己の楽観を憂いただろう。それほど諸葛亮や、劉備の義兄弟たちの攻撃は凄まじかった。事情を察した政宗でさえこれなのだ。星彩が軽蔑を顕にし、月英が戸惑いを見せ、妲妃が諸葛亮を信じきったのも当然である。むしろ、諸葛亮の真意を悟らずにあれしきの侮蔑だけで済ませたとは、蜀はどれほどの絆で結ばれておるのだ、と政宗は感心してしまうのだった。
 現在は、捕縛した妲妃を相手に、諸葛亮が古志城の場所を問うているところである。結局、長いときこそ経たものの、諸葛亮の策はなったのだ。この後も諸葛亮に任せておけば、巧く処理するだろう。戦中、妲妃が諸葛亮を心から信頼した時点で、政宗たち武将の仕事は終わったといっても過言ではなかった。
 降り出しそうだと思っていた空からは、上気した身体を鎮めるように、雪が降りしきっている。政宗は城の壁に背を預け、空を見上げた。世界は変わっても、空は同じだ。どこまでも遠く、そして、高い。
 それは、あの男も同じことである。
 軍から離れ、一人、物思う顔で曇天を見上げる政宗を不審に思ったのか、人影が近づいてきた。目をそちらへ向ければ、孫尚香である。孫策ともども、呉から援軍としてやってきたのだった。
 「何て顔してるのよ。見てるこっちまで憂鬱になりそうだわ。」
 尚香はそう言うと、政宗の隣に腰を下ろした。背をもたれさせているとはいえ、いまだ立ったままの政宗はいぶかしんで、座っている尚香を見やった。政宗は尚香を伊達軍に組み込んで戦をしたこともあるので、知らぬ仲というわけでもない。別々に捕らえられている大喬の様子を、尚香相手に語って聞かせてやったこともあったくらいだ。だが、二人きりで私事について語らうほど、親密な関係と言うわけでもない。一体貴様はどういう腹積もりでここにおるのだ、と政宗は眼で尚香を促した。
 「大喬姉さまのこと、聞いたわ。…ありがとう。素直に感謝してるわ。」
 「…別に。わしが煩わしかっただけじゃ。目の前でぴいぴい泣かれてみい。煩くてかなわん。」
 政宗の言い様がおかしかったのか、尚香は小さく声を立てて笑った。ころころと鈴のような笑い方だ。弓腰姫と呼ばれる娘にこのような芸当ができようとは、と政宗は呆気に取られてしまった。今まで、戦時での付き合いしかなかったのだ。だが、考えてみれば稲姫や星彩も、戦場を離れればただの娘である。
 尚香はしばらく笑ってから、ふと、寂しげに視線を落とした。
 「結局、玄徳さまはいらっしゃらなかったわね。」
 その声があまりに切なさで満ちていたので、政宗はぎょっとして尚香を凝視した。政宗の視線に気圧されたのか、尚香が「な、何よ!」と僅かに身を引く。政宗は形ばかりの謝罪を口にして、ふいと顔を逸らした。そういえば、劉備と尚香は夫婦であったという。もともとは政略婚という話だが、尚香は劉備のことを強く慕っているという話だった。しかし、政治が取り持った縁は、政治によって断ち切られたとも聞く。政宗が複雑な胸中で視線を投げかけると、尚香は縋るように身を乗り出し、尋ねた。
 「大喬姉さまから話を聞いたの。ねえ、政宗が見たとき、玄徳さまはどんな様子だった?別に大喬姉さまを疑うわけじゃないけど、少しでも、玄徳さまの様子を大勢の人から聞きたいのよ。」
 答えあぐねた末、政宗は返答を放棄した。ここで答えるは容易い。だが、それで尚香を安心させる自信が政宗にはなかった。不甲斐ない話ではあるが、事実だ。もっとも他の誰であっても、劉備以外に、尚香の憂いを慰めることなどできないだろう。それがわかるからこそ、政宗は言った。
 「お主の目で直に確かめれば良い。孫堅も古志城におるのであろう?諸葛亮がおる、再会まで半月もかからんわ、馬鹿め。」
 ここで過去を伝え聞くより、実物を眼にする方が早いだろう。そう結論付けた政宗の隣から、くぐもった声がする。
 「もう…教えてくれたって良いじゃない、馬鹿!…でも、ありがと。」
 結局、自分の役回りはこういうものばかりなのか。政宗は溜め息混じりに、膝に顔を埋めて静かになった尚香の頭を撫でてやるのであった。
 なし崩しで遠呂智軍から離反する羽目になった政宗であったが、南中を訪れたことが切欠で、心は固く決まっている。
 政宗はかの祝勝会で、遠呂智の本当に欲しているものが天下ではないと知ってしまった。遠呂智は滅びこそを欲しているのだ。だが、政宗には、遠呂智が滅びを欲していることはわかっても、何故欲するのかが理解できなかった。だから、理解するためにも遠呂智と同じものに、妖魔になりたかった。実際、政宗は妖魔になろうとして、このように珍奇な姿にまでなった。
 しかし、いまだもって、政宗にはなぜ遠呂智が滅びを欲するのか皆目見当がつかないのだ。もしかするとそれは、政宗ではどう足掻いたところで窺い知ることのできない世界の出来事なのかもしれない。価値観、考え方。種族以外にも、考慮すべき点は多くあった。元より、遠呂智と政宗では相容れることの方が少ないのである。
 だが、少なくとも政宗は、遠呂智の願いが終わりであることを知っている。そして、反乱軍に属する身であれば、その夢を自らの手で叶えてやることができる。そのことがわかり、腹さえくくれば、他に必要なことなど何一つとしてなかった。
 「…遅くて、あと半月じゃ。」
 政宗は呟いた。それは尚香相手というより、己に言い聞かせている風であった。










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初掲載 2009年6月28日