夜になっても姿を現さない政宗を不審がったのは、当然のように、彼を気にかける幸村であった。幸村は心ここにあらずの状態で杯に注がれる酒を注がれるまま呑みながら、ただ、政宗の立てこもる部屋に目を向けたまま呟いた。
「…政宗殿はいかがなされたのでしょうか。」
幸村の言葉に過敏に反応したのは、主の奥州王馬鹿に慣れ親しんでいるくのいちではなく、稲姫であった。稲姫は久方ぶりに会った義弟の嘆息混じりの言葉に、勢い良く立ち上がった。その頃にはすでに、稲姫は武士ならではの情け容赦ない、浴びる勢いでの酒量に、頭もろくに回らないほど酔っ払いきっていた。そのため、その心にあるのは、愛する夫が気にかける弟のため政宗様を部屋から叩き出さなければならない、という何とも物騒な考えであった。
「いにゃにお任せをっ!」
稲、が言えていない。周囲は本当に大丈夫なのかと稲姫を胡散臭いものを見るような目で見たが、泥酔しきっている稲姫にはそのようなこと認知できるはずもない。稲姫は、事態を面白がるくのいちに幸村を確保させると、意気揚々と政宗の立てこもる部屋へ向かったのだった。
「このようなときは、天岩戸作戦ですっ!天照大神もついには姿を見せて、縄目になったと言いますっ!さあ、くのいち!」
びしっと部屋の戸を指差す稲姫に、幸村の首根っこを掴んだくのいちが、首を傾げて次の命を待つ。神話に疎いくのいちには、天岩戸作戦と言われたところで、どのような作戦なのか見当がつかなかったのだ。一方、縄目、という不穏な単語を耳にした幸村は、ぎょっとして稲姫を見やった。決して、天照は捕縛されたわけではない。はたして、義姉はそのことを承知しているのか。懸念を募らせる幸村の前で、稲姫は焦点の定まらない目をして、高らかに宣言した。
「この扉を叩き壊すのです!目標、確ほ」
そのまま、稲姫の身体は前方に傾いで倒れた。戸に額がぶつかり、がっと重い音が立った。どうも、全身に酒精が回りきったらしい。
「あれ、稲ちん?もしかして、おねんね〜??」
流石に驚いた様子のくのいちにぱっと襟首を放され、自由の身になった幸村は、床の上で何度か咳き込んでから稲姫へと目を向けた。すると、戸の前には、額をつけたままずるずる崩れ落ちたのであろう稲姫の姿があった。楽しみを中断されたくのいちが、呆れたようにその身体を抱きかかえる。それは、幸村も見たことがない、女友達を労わる娘としての顔だった。にぱっとくのいちが笑う。
「んじゃ、そゆわけで、お邪魔虫は消えるんで〜後はごゆっくり〜☆」
お得意の忍術を駆使したのか、すぐさま、くのいちと稲姫の姿が掻き消える。幸村は呆然と、僅かに開かれた戸を見上げていた。そこには、不機嫌極まりない顔の政宗が立っていた。
奇しくも、天岩戸作戦は成功したのだ。
政宗の有様は酷いものであった。不貞寝をしていたのだろう。柔らかい髪の毛はその分癖がつきやすいのか、いつか街で見たときのように、さんざっぱら乱れきっている。紅く染まった目許は腫れあがり、なるほど、これでは気位の高い政宗が宴に姿を見せないのも当然と幸村には思われるのであった。政宗は唇を噛み締め、幸村を睨みつけた。警戒心の表れか、耳の毛は逆立っている。こうして注視しているのも、警戒心の発露だろう。猫は、警戒するときには目を逸らさず、安楽するときには瞼を瞑る習性があるという。しかし、真正面から見つめられて悪い気はしない幸村であった。奥州王馬鹿なのだ。それは、生粋と言っても良いかもしれない。すでに幸村の中核をなす代物と成り果てている。道理で、くのいちが呆れ果てて、真田家を後にするわけである。
政宗の不躾なまでに熱い視線に、次第に、幸村の頬が紅潮していく。これまで、このように見つめられる機会などなかったのだ。それに、奥州王馬鹿の幸村に免疫などできるはずがない。若さゆえの過ちということか、酒が入っていることもあり、幸村は己が浅ましい欲望を覚え始めたことに気づき、慌てふためいた。幸村は政宗のことを好いている。だが、決して汚したいわけではないのだ。それを、自分は。とはいえ、勿論、政宗に許されれば、そういうことをしたくないわけではないが、あくまでも許しを得られればのことで。などと不毛な自責とも自己弁護とも取れる考えに気を取られている幸村を、怪訝に思ったのか、政宗が目を眇めた。やがて、嘆くように首を振る。
「死児の齢を数える。」
死んだ子が今も生きておったら、はたして幾つになっていただろう。それが転じて、どうにもならないことについて愚痴を言う言葉を吐かれ、幸村は瞬きをした。一体、政宗がどのような意味合いでこの言葉を口にしたのか、見当がつなかったのだ。いまだ地面に腰をついている幸村を見下ろしていた政宗は、腰を落とし幸村と目線を合わせると、いっそ潔い態度で囁いた。
「…今更嘆いたところで詮無きこと。来い、幸村。」
お主の焔でわしを焦がしてみよ。
そう寂しそうに告げる政宗が今にも儚く消えてしまいそうで、幸村は考える前に手を伸ばしていた。念願の許しを与えられたのだと気づくのは、腕の中の想い人に身を預けられてのことだった。
初掲載 2009年6月27日