翌日になっても、政宗が起き上がる気配はなかった。武蔵が孟獲と連れたって出かけてしまったので、一人、政宗の様子を見に行った幸村は顔を青くして、「もしや熱中症ではなく、持病か重大な病なのではないでしょうか。」と、祝融に問いかけた。しかし、思い当たる節のない祝融は首を傾げた後、政宗の様子を見に向かうのだった。
風通しの良い部屋で、政宗は一人惰眠を貪っていた。はじめこそ、幸村の慌てぶりに触発されて、眉をひそめていた祝融だったが、音に反応して耳が微かに動いているのを目敏く見つけると、苦笑をこぼした。何てことはない。政宗は、狸寝入りをしていたのである。
「ほら、あんまり寝てると溶けちまうよ!」
祝融はそう言うと、政宗が敷いている布団を勢い良く剥ぎ取った。突如身に降りかかった暴挙に、流石の政宗も平静でいられなかったらしく、驚いたような声を漏らしながら、寝台から転げ落ちた。しかし、妙な根性を見せたもので、政宗がそのままうつ伏せまま無言でいるので、祝融は呆れ返ってしまうのだった。
「秘密がばれたのが、そんなに、嫌なのかい。」
やはり、政宗は答えようとしない。子供のわがままに付き合うことが決して嫌いではないものの、今日ばかりはそうも呑気に構えていられない祝融は、「うちの父ちゃんが帰ってくれば何とかしてくれるだろうさね。」と結論を出し、その場を立ち去るのだった。客があるのである。
後に残されてしまった幸村は、困ったように、寝たふりを続ける政宗へ目を向けた。明るい栗色の髪は、以前よりも断然柔らかそうだ。まるで、幼少期の頃のようにふわふわしている。そこからの連想でふと昔を思い出した幸村は、顔を綻ばせた。思えば、あの頃からすでに、幸村は政宗へ想いを寄せていたのだった。若さゆえに恋を恋として捉えられなかった当時の幸村は、苛立つことが多く、その理不尽な怒りを政宗へ向けていた。その後は、信玄との離別もあり、自らの心の置き場がわからず、政宗にしかと想いを訴えることができなかった。
しかし、今は違うのだ。
しばらく昔に想いを馳せていた幸村であったが、寝台の布団を元の状態に戻すと、政宗へ手を伸ばした。勿論、他意があってのことではない。幸村は純粋に、うつ伏せたまま床に転がるよりも、布団の敷かれた寝台で仰向けになって寝た方が随分ましだろう、と思ったのである。
だから、指先が触れた途端、政宗が身を強張らせてその手を払い除けたのには、幸村も驚いた。払い除けたほうの政宗も驚いたのか、大きな目をきょとんとさせて、己の手を見つめている。やがて、その顔がじわじわと赤く染まりだした。耳もわなわなと震えている。呆気に取られて見守る幸村の前で、政宗は口元を引き結ぶと、耳を手で押さえつけた。幸村は事情がわからないながらも、つられて、言葉を失うのだった。
政宗と幸村の不毛な見つめ合い、もとい睨み合いを打破したのは、この日、呉から来た客であった。
周囲の迷妄を晴らし、半ば自らの良いように行く末を照らす日ノ本軍。自らの国を守ることで、かの覇道を亡き王へ捧げることに固執する魏軍。
それらと異なり、呉からなる反乱軍は、信長に派遣された島左近が大きな鍵となった経緯もあり、個で何かをなそうとせず、皆のために尽くそうとする傾向にあった。今回も、江戸攻めを前に逸る蜀軍に、孫策は援軍を買ってでたのである。無論、断る理由もない。中には呉の親切を不審がる疑い深いものもいたが、蜀軍の現代表としてまつりあげられている趙雲は、一も二もなく頷いた。呉や魏、そして日ノ本と違い、蜀には芯となる王が欠けている。そのため、現在軍を任されている趙雲には、いつまでも劉備を欠いているわけにはいかない、という焦燥の色が他軍に比べれば随分と濃い。とはいえ、大陸もの同士の軋轢は、決して浅いものではない。かつては敵だったのだから、当然である。結果、蜀と所縁が深いとはいえ、決して同化しているわけではない南蛮を舞台に、呉との会合が行われることになったのであった。
そういうわけで、現在成都で孫市や趙雲たちが練っている策を確かなものとする情報を呉から汲み上げること、南蛮への協力を要請することが、会合に派遣された政宗たちに課せられた任務なのである。
今回、呉から寄こされたのは、稲姫とくのいち、半蔵であった。稲姫は孫尚香の親友であり、呉からなる反乱軍へ尚香が降るのを手助けした過去がある。今回は、呉の名代として蜀の動向を探るため、義弟、幸村を慕って南中へやって来たのである。くのいちは、言わずもがな、幸村の元部下である。また、半蔵ともども、現在の遠呂智軍の情勢をもっとも良く知るものでもあった。遠呂智軍の意向をもっとも良く知るであろう政宗と情報の付けあわせをしにやって来たのである。
祝融に案内されて入室した稲姫は、呆気に取られた様子で、思わず身を固くする政宗へと目を向けた。その頬がほんのり紅潮する。嫌な予感を募らせる政宗の前で、稲姫は口元を両手で覆うと、目を潤ませてうっとり呟いた。
「ね、猫?!まさか、伊達様に限ってそんなはず…そんなはず、でも…でも!猫…なんて愛らしい…!」
立花様に見せねば、と稲姫の口から不穏な発言が漏れ出た辺りで、面白がったくのいちが身を乗り出した。政宗の耳を突き回しながら、「これってばどーなってんの〜?」などと不躾がましいことを言う。
もっとも、避けたい事態である。これこそを、政宗は恐れていたのだ。政宗は怒りと絶望のあまり気が遠くなり、握り締めた拳をぶるぶる振るわせると、城の主ともども客人へ怒鳴りつけた。
「貴様ら、出てけっ!」
そのような理由で、情報突合せのための肝心要の主役が不在である中。一人冷めた面で状況を静観していた半蔵が、稲姫を眼で促した。半蔵は家康の身辺警護を司る影であり、戦国最強と謳われる本多忠勝同様、家康の考えを汲み取ることに長けている。そして、稲姫にとって、家康は育ての父であり、忠勝は産みの親である。
「きっと、稲が、殿と父上の期待に応えてみせますっ!」
内心強く拳を握った稲姫は、気を引き締めるように大きく咳払いをした。元より、武蔵は生真面目なくらい真面目である。孟獲や祝融も、自らの国が会合の舞台であるだけに、配慮を怠らない丁重な姿勢を見せている。久方ぶりの再会からくのいちに弄られながらも、それまでしきりに政宗の立てこもる部屋を気にしていた幸村も、稲姫の視線に気づいて表情を改めるのだった。
その後どうなってしまうのか、気を揉むのは後でも良いだろう。反乱軍の悲願は同じだ。打倒遠呂智、そして、国主の身柄の奪還である。
同じ頃、政宗は苛立ちのまま、室内を歩き回っていた。
政宗が遠呂智の血を呑んで、顕著に変化が現われた箇所は、耳と尾である。同時に、それ以前も、隻眼であるゆえ良かった聴覚が、よりいっそう良くなった。おそらく、人間の鈍い代物から、猫の鋭いものへと変化したのだろう。
だから、いくら寝ていたとはいえ、昨夜、戸を隔てた近場で行われた騒動を、政宗が気づかないはずがないのだ。
ぶあと毛が逆立っているのがわかる。こうも膨らむと、いくら尾が短いとはいえ、衣服の中ではどうも座りが悪い。だが、尻尾すらも人目に晒して、いかにも珍妙ないでたちでいるのも我ながら腹立たしい。政宗は爪を噛みながら、現状を突破する道を模索しようとした。爪を噛むのは、もはやどうにもならない事態に対面した際、政宗が見せる悪癖である。それくらい、政宗は追い詰められていた。折角、妲妃が緘口令を敷いたというのに、全てが水の泡である。あの、暑さに参りながらも兜を被り続けた日々も、兜内は蒸すので禿げたらどうしようと怯えた日々も、この秘密を握られて大喬に脅された日々も、全て、無に帰したのだ。それどころか、無を通り越して負になったと言っても過言ではない。
はじめは、夢かと思った。夢にしては妙に現実味があると思いながら、政宗は夢うつつゆえのふわふわした意識に足を取られていた。その人物は寝こける政宗を注視していたかと思うと、やがて、意を決したように踵を返した。
あのとき、起きなければ良かったのだ。そうすれば、その後に続く会話を耳にすることもなく、政宗は目を瞑ったまま、これからも幸村の笑顔を眺めておれただろう。幸村が好いているのは、元奥州の雄たる政宗ではなく、「猫」という名の町娘なのだと誤魔化せただろう。だがあれほど、身に震えが走るほど熱っぽい視線に起きるなという方が、無理がある。幸村の視線はすべてを、政宗が頑なに拒むものさえも物語っていた。政宗は怒りを我慢しきれず、思い切りがつんと壁を叩いた。好敵手だと信じていた幸村にそのような眼で見られていたことが不服で、悔しくてならなかった。だが、同時にどうしてか、盛る火を押し付けられたように胸が熱くなって仕方がなかった。
そこで、ある事実に気づき、政宗は言葉を失った。まさしく、火、である。この国、南蛮を表すものは火であるはずなのに、それを表す色彩が明らかに足りない。緩やかな進行であったので、これまで気がつかなかった。爪や唇、衣服に至るまで、火の神の末裔を気取る祝融は、好んで真紅を身に着けていなかったか。その夫である孟獲も、勇を示す深紅の刺青を全身に彫りこんでいた。妲妃にしても、同様である。あの狐は、血の色を何より好んでいた。政宗は、それまでと異なる理由から震える指先で、己の左目に触れた。
一体、いつから、この眼は赤を認識しておらぬ。
おそらく、予兆は、政宗が遠呂智軍を離れる前から出ていたのだ。猫は赤を認識できないと耳にしたのは、いつのことだったか。おぼろげな記憶を必死に探り、政宗は己への失望に唇を噛み締めた。もう二度と、戦場であの鮮烈な赤を認識することがないのかと思えば、痛いくらいに胸が騒いだ。
初掲載 2009年6月26日