伊達軍が蜀軍に降伏してから、一月が経った。それは、政宗にとって、長くも短い一月であった。
政宗の苦渋の決断に難色を示すものは皆無だった。伊達家臣たちは当主のことを何にもまして信頼しており、それは、白も黒と言われれば納得するほどの妄信ぶりだったが、元々遠呂智軍への参軍に否定的なものたちが多かったので、非難するはずがなかった。蜀軍も言うに及ばず、友軍が増えたことに対して手放しで喜ぶのだった。
一方、遠呂智軍では、人手不足に見舞われていた。それまで不穏ながらも沈黙を守っていた魏の若き国主、曹丕が、とうとう遠呂智軍からの離反を決意したのである。その傍らには、石田三成の姿もあった。妲妃は、魏のものたちが何か目論んでいることを知りながら、杭が出たらすぐさま潰してくれようと泳がせておいたのだが、それがここに来て、対処しきれず下手に出る始末だった。人材が足りないのだ。遠呂智軍にはいまだ腐るほど妖魔兵がいたが、それを率いるものがいなかった。敵の策に翻弄されるだけの烏合の衆など、いない方がましである。政宗に引き続き、日ノ本組の掃討にあたっていた司馬イまでもが、信長の才気に惹かれ投降してしまったことで、妲妃は自らあちこちの戦場で指揮を取る羽目に陥っていた。
だが、いまだ遠呂智軍には、諸葛亮という天下の名軍師が残っていた。それまで妲妃は、諸葛亮も何か目論んでいるのだろうと疑わしく思っていたので、極力、勝手な行動を取らせたくないと思っていた。しかし、ここまで人手が足りないとそうも言っていられない。疲労のあまり諸々への対処が面倒臭くなっていた妲妃は、諸葛亮の甘言に乗せられ、多くの戦場の指揮を任すようになった。そうして、終いには、無意識のうちに、諸葛亮を信頼するようになっていたのだった。
その日、政宗はへばっていた。
「劉備殿は、江戸城にいるぞ。」
袁紹によってもたらされた情報に、蜀は静かな歓喜に包まれた。遠呂智軍の内情を知る政宗は、内心、「それほど簡単な話ではあるまい、どうせ妲妃あたりの仕組んだ罠であろう。」と思いつつも、水を差すこともためらわれて、こうして協力を要請するため南中にやって来たのだった。政宗が言わずとも、これまで散々贋の情報に踊らされてきたみなには、これが罠かもしれないということがわかっているのだった。
冬になろうというのに、南中は相変わらずの暑さを保ち続けていた。政宗の眼前を行く子供たちは、真っ黒に焼けた肌を晒して、見たこともないような果実をかごに採っている。時折、その目が、物珍しそうに政宗へと向けられた。それも道理で、政宗は完全武装なのであった。蜀の中には、南蛮へ協力を要請するに相応しくない服装だ、と難色を示すものたちもあった。一方で、武を尊ぶものたちも多いので、武人らしく敬意に値するいでたちだ、と感心するものたちもあった。当の本人はといえば、猫耳という秘密を隠すため兜が外せない、という理由から、致し方なしに鎧をまとっているのだった。そうでなければ、奥州の夏ですら辟易する政宗は、南中で完全武装など気が狂ったに違いない、と言い捨てたに違いないのだった。
政宗の後ろには、上司に合わせて完全武装をしている幸村や、元々胸元の開いている服をまとう武蔵の姿があった。政宗の親友である孫市は、祝融に会いたいのは山々だったが、蜀の一角を担うものとして、江戸城攻めの策を講じなければならず、今回の訪問を見送ったのだった。
不満を漏らす気力さえ出ず黙々と歩き続ける政宗と、その後ろで何が面白いのかにこにこ微笑んでいる幸村の後ろをついている武蔵は、内心、首をかしげていた。武蔵の知る限りでは、幸村と言う男は、真面目が服を着て歩いているような男なのである。その実直さゆえ、幸村は武人の鑑のようなところがあった。戦場でともに戦っていると、武蔵は幸村につられて、気がはやるのだった。その一方で、幸村は、朴念仁と言っても良いところがあった。女性相手に狼狽することも多々あり、それを良く趙雲ともども、島津義弘や孫市にからかわれているのだった。だが、武蔵の見る限り、政宗に対峙しているときだけ、幸村はきな臭い雰囲気をまとうのである。武蔵は人一倍敏い男であったので、そのことに気づいたのだった。
現に今も、幸村は、たぎる熱情を無理矢理殺したような目をして政宗を見つめている。武蔵はそれをどう取って良いものか、考えあぐねていた。
そのときだった。政宗の姿が下に沈んだ。とうとう、茹だるような暑さに参ってしまったのだ。慌てて幸村が、崩れ落ちる身体を抱き止めた。武蔵も思考を中断して、政宗の介護に当たった。
「熱中症にかかったみたいだね。今、うちの子たちが面倒見てるよ。」
祝融はそう言うと、やれやれと諦め混じりに頭を振って、あのように重厚な鎧をまとっている政宗の愚かさを嘆いた。そして、同じように、戦装束をまとっている幸村と武蔵へ、「あんたたちは大丈夫なんだろうね?」と目で問いかけてくるので、武蔵は手を振って無事を示した。だが、隣にいる幸村は祝融の眼差しにも気がつこうとせず、そわそわと落ち着きのない様子で、政宗のいる部屋の方を見ている。その部屋には、熱中症にかかって倒れた政宗と、その看護に当たっている南蛮の娘たちがいるのだった。相手が、年端も行かない童や幸村の主君であったらわかる。しかし、相手は、幸村と敵対していることの方が多い政宗だったので、武蔵は先だってから抱いている違和感をよりいっそう強く覚えるのだった。
さして親交もない祝融は、幸村の異変に当然気づかず、怪訝そうな面持ちで、政宗のいる部屋の方を見やった。
「けど、ありゃ、何だい?あんたたちんところは、相変わらず、面白い子が好きだねえ。耳なんか生やしちゃってさ。」
この祝融の言葉に、武蔵は惑った。祝融にも、当然のように、耳があるのだ。無論、武蔵にも幸村にも耳はあったので、一体何のことを言っているのかと問おうとした。しかし、その先を制する形で、祝融は何が可笑しいのか、声を上げて笑った。明らかに祝融は、思い出し笑いをしているのだった。
「うちの子たちは、もしかしたら尻尾もあるんじゃないかって、言ってたけどねえ。」
「…尻尾?」
「なあに、取って喰やあしないよ。ただ、ちょっと、気まずい思いをするだけさね。」
祝融は手を振って何事かを否定すると、幸村へ視線を移し、おかしそうに片眉を上げて見せた。
「ま、怒りそうな御仁もいるしね、諌めてくるさ。いくらなんでも、男の身包みはがしたなんて言ったら、嫁の貰い手がなくなるからね。」
部屋に向かうと、祝融の言ったとおり、南蛮の娘たちは尻尾もあるものか確かめようとして、政宗の身包みを剥ごうとしていた。その尽きることのない興味は、女主に諌められたことで、ようやく、嘆息交じりに断行されたのだった。
武蔵は、布団の上で伸びている政宗の姿に驚いていた。政宗の耳が、まるで猫のような形をしていたからだ。灰色の毛で覆われたそれは傍目にも柔らかそうで、武蔵は、触ってみたいという衝動を抑えるのに非常に苦労した。他にも、驚いたことがある。鎧を脱いで眠りにつく政宗は、肌が雪のように白く、童顔であることもあって、娘のようにしか見えないのだった。大坂の陣でともに西軍に味方した武蔵は、幸村の異性の好みを聞き及んでいたので、何故、幸村があのような眼差しを向けるのか一瞬で理解に及んでしまった。そして、武蔵は非常に敏い男であったので、幸村の異性の好みに当てはまるのが政宗なのではなく、幸村の本命が政宗だと言うことにも気づいてしまうのだった。
その日、この二ヶ月というもの昼寝を断っていた政宗は、それまでの分も取り戻す勢いで眠り続けた。瞼を閉ざしたまま起きる気配のない政宗を前に、幸村は何処か打ち所でも悪かったのではないかと顔を青褪めさせ、祝融に宥められてようやく安堵する有様だった。
内心、武蔵は面白くなかった。あのような眼差しを向けながら、胸のうちを一つとして語らない幸村のことを卑怯だと思ったのだ。武蔵は、剣技や戦法のみならず、書など、様々な手段で己の心を他者に伝えようと躍起になっていたので、騙まし討ちのようなことをしている幸村のことが我慢ならないのだった。無論、武蔵にも、幸村が気後れする理由は見当がついた。幸村は政宗より下位にあり、敵将で、その上同性である。しかし、武蔵からしてみれば、幸村は、政宗似の娘に意識を逸らそうとしないで、政宗本人に胸のうちを告げるべきなのだ。武蔵は孫市から、成都付近の街で、幸村が政宗似の美少女に目を奪われていたことを聞き知っていたので、何も知らない娘に想い人の身代わりをさせようとは、と義憤に駆られていたのだった。
その晩、南中では、蜀からの使者を歓迎する宴が催された。幸村相手に疑念を募らせていた武蔵の頭には、「何故政宗が猫耳なのか?」などといった当然浮かぶべき疑問はまったくなく、孟獲は「面白いじゃあねえか、なあ、かあちゃん!」と大声で笑い、夫に話を振られた祝融も、「まあ、そういうこともあるさね。アタシだって火の神の末裔なんだ。魔王や仙人だっているのに、あの坊やだけ否定するなんてのもおかしな話さ。」としたり顔で頷くので、本来であれば疑問視すべき謎をいぶかしむものはいなかった。その中、幸村は何か物思う様子で、杯に注がれた南蛮の酒を空けながら、政宗のいる部屋に目を向けるのだった。
互いに相手の豪快さを気に入り、孟獲夫妻との親交を深めていた武蔵であったが、酔いが回り始めたこともあって、幸村が政宗の様子を見に部屋へ向かったのを機に、とうとう、幸村に一言言ってやらねば気がすまない、と立ち上がった。
下手に複雑な事情を知らない分、あっさりと幸村の気持ちを看破した祝融は、武蔵の血気にはやる行動をたしなめた。
「止めといたらどうだい。日ノ本でも言うんだろ?馬に蹴られて、どうとかってさ。」
しかし、武蔵は祝融の制止も振り切り、幸村の後を追いかけだした。後に残された祝融は呆れ顔で、孟獲と顔を見合わせて、肩をすくめるのだった。
武蔵が追いついたとき、幸村は政宗の様子を見終わって、ちょうど部屋から出てきたところだった。瞳にいつにない翳を宿した幸村は、同性の武蔵から見ても、良い男だった。気質も真っ直ぐで、腕も立つ。武蔵は幸村のことを好いていた。だからこそ、何も知らない娘に政宗の身代わりをさせるような卑怯さに我慢ならなかった。武蔵は、これが幸村ではなく他の武将のしたことであったら、意に介さなかっただろう。
「てめえ、幸村!まさか、寝てるやつ相手に何かしたのか!」
武蔵は見当違いの怒りを見せて、幸村に詰め寄った。武蔵はあまりの怒りと酔いに、幸村がそんな真似をするはずもないということすらわからなくなっているのだった。幸村は驚いた風に眉根を寄せると、ちらりと政宗のいる部屋へ視線を投げて、溜め息をこぼした。そして、こんな調子でやり取りしては中に聞こえてしまうから、と、武蔵の腕を引き、外へ向かうのだった。
下手に城から遠ざかると、夜行性の獣に襲われたり、毒沼に足を踏み入れてしまう可能性があったので、幸村が連れて行ったのは、城のすぐ近くにある開けた場所だった。幸村は猛る武蔵を宥めると、丸太の上に腰掛けさせて、一体何をそんなに怒っているのかわけを尋ねた。武蔵はそれをとぼけた対応と受け止めて、ますます怒りを募らせると、政宗が本命であるくせに猫とかいう娘で気を紛らわせようとはどんな了見だ、と噛み付くのだった。すると、一瞬、幸村は怪訝そうな面持ちを見せてから、武蔵の勘違いを悟って、小さく笑みを見せた。そして、何の衒いもなく、あっさりと答えた。
「猫殿は、政宗殿だ。」
「んなわけあるか、言い訳も大概にしろ!…ん?」
反射的にそう答えてしまってから、幸村に掴みかかろうとしていた武蔵は、首を傾げた。何か、とんでもない台詞を耳にした気がしたのだ。幸村は再度笑うと、噛んで含めるように、同じ言葉を口にした。
「猫殿は、政宗殿だ。」
そして、右目が無事で女装すがたでもあったので、今まで本当にあれは政宗であったのか少しなりとも訝しく思っていたが、名の由来を知ったことでいよいよ確信が持てた、と幸村は悲しそうに笑った。水を差される形になった武蔵は、何と言ったら良いのかわからず、浮きかけていた腰を丸太の上へと戻した。
いったん切り出してしまったことで気持ちが楽になったのか、幸村の吐露は続いた。武蔵も思っていたとおり、幸村は政宗に懸想していた。そして、地位が下位にあり、敵将で、その上同性であったことから、想いを伝えることで遠ざけられることを恐れて、本人に想いが伝えられないのだった。
だが、一体何事があったのか、幸村は、成都にほど近い巡回先の街で、女装すがたの政宗に出くわすこととなった。最初は、不届きものに絡まれている娘がいる、という通報を受けて駆けつけた幸村であったが、不届きものが小太郎であることがわかり、更には、絡まれている美少女が政宗に非常に似通っていたこともあって、驚きに打たれた。娘は、政宗よりも透き通る白い肌をしており、鳶色の瞳をした政宗と違って淡い緑色の瞳をしていた。政宗が痘瘡でなくした右目もあった。しかし、それを覗けば、娘は政宗に似ていた。よくよく見れば、性別の違いゆえか、娘の方が政宗より大きな眼をしており、全体的に華奢だった。だが、立ち振る舞いから何から、幸村相手に取り繕った態度まで、本当に、政宗に瓜二つだったのだ。
逃げ出すようにその場を去ろうとする娘の手首をとっさに掴んで引き止めてしまったのは、無意識の行動だった。幸村は掴んでしまった手に目を落として、はっとした。娘の親指の付け根辺りに、薄っすらと痘痕があった。秀吉主催の茶会に招かれ、政宗に茶を立てられることもあった幸村は、政宗にも、同じ場所に痘痕があるのを知っていた。
何故、政宗が女装すがたであるのか。何故、遠呂智軍高官である政宗が不用意にこのような街にいるのか。何故、右目があるのか。何故、瞳の色が違うのか。
次々と湧いて出た疑問は、涌いた端からすっ飛んでしまった。幸村は急にいたたまれなくなって、政宗の手を離すと、あちこちに視線を飛ばした。明日もこの街に滞在しているのか尋ねたのは、明日も身分や立場を気にせず会えれば良いという本心からの切望でもあった。街女のなりをしている政宗にならば、幸村が正面から恋情を向けても、文句を言われることはない。
幸村はあまりの喜びに胸を打たれて、成都に帰ってからも落ち着きを欠いていたので、孫市に跡をつけられる羽目になった。そういうわけで、幸村は、星彩が暴挙に及んでも、咎めだてはしたが、何故そのような行動に出たのか、孫市のように問うことはなかった。何故ならば、幸村には、星彩がそのような行動に出る原因が十二分にわかっていたのだった。
それから、星彩が脅迫でもしたのか、政宗は蜀に降ることになった。同じ軍に属すようになったことで、幸村は政宗への恋情をますます募らせていったが、以前同様、拒まれることを恐れて、政宗の前ではひた隠しにする日々が続いた。幸村が政宗への想いを晒すのは、大抵、一人になったときだった。
しかし、政宗が倒れたことで、幸村はある決心ができたのだという。先刻、眠っている政宗の様子を見に行ったとき、ついに心が固まったそうだ。
「かつて慶次殿は、戦う理由を失ったと嘆く私に、お前は何もなくしてはいないと諭した。だが、愚鈍な私は、大坂を迎えるまで分からなかった。私はずっと、何も失っていなかったのだ。信念は私とともにある。私は私であるために戦う。私の信念の槍は折れることはなかった。…それを、この世界に迷い込んだことで忘れていたのだ。」
玉砕覚悟と言っても良いだろう。そのときの幸村は、以前慶次が「生きるだけ生きたら死ぬる…真の武士の面だ。」と評したとおりの顔つきになっていた。
武蔵は、戦場でつられて煽られたときのような心地で、幸村の本気に引き摺られた。そして、あまりに感動したので、武蔵はこのように真剣な眼差しの幸村を卑怯もの呼ばわりしたことを、本心から悔やむのだった。
「本気の想いを告げるのに、卑怯も何もねえ…。そこにあるのはただ、純粋な情のみ。違いねえ、違いねえよ、幸村!人を生かす剣、見つけられそうだ!」
それから、意気投合した幸村と武蔵は、散々それぞれの信念を語り合ってから、乾いた咽喉を潤すため宴へと戻った。その二人を前に、祝融は意味深な笑みを浮かべて、「少し見ないうちに、良い面構えになったじゃないのさ!」と背中を叩いて激励するのだった。
初掲載 2009年6月20日