あの一件から、一ヶ月が経っていた。政宗は日課の昼寝をしようともせず、不貞腐れていた。あれ以来、政宗が大喬の自室を訪れることは皆無になった。原因は、司馬イである。政宗が思うに、当初、司馬イはそんな様子をまったく見せていなかった。劉備のことで妲妃に何か嫌味でも言われたのか、いささか不機嫌そうな面持ちではあったものの、いたって平素の司馬イであった。
その日、司馬イは、今度南中で起こる戦の総指揮を取るため、伊達軍に補給を打診しにやって来たのだった。何故補給が必要となるのか、理屈に裏打ちされた計算書を大量に抱えてやって来た司馬イは、祝勝会以来政宗が兜に固執する原因を悟ったらしく、案の定兜をかぶっていた政宗へと一瞥投げかけた。その視線に、政宗はひやりとしたものを感じた。てっきり、司馬イが何か脅しでもかけてくるものと思ったのだ。政宗がそう懸念してしまうほどに、先日の大喬の最後通牒の突きつけ方は、見事で悪趣味なものであった。
だが、司馬イは何を勘違いしたのか、僅かに顔をしかめると、妙なことを言い出した。自分の部屋を貸してやるから、今度からは、そこでやれと言うのだ。一瞬、政宗は意味がわからなかった。それも当然の話ではある。気遣いより脅迫の方が似合いそうな悪徳軍師、それが、司馬イの世間一般での印象だ。政宗は自分が何か言葉を聞き間違えたのだと思った。大体、何をやれというのか。すると、司馬イは見かねたのか、「まったく、これで理解できんとは。こやつはどれほど頭が悪いのだ。馬鹿め。」という態度を見せ付けながら、言いのけた。
「私の部屋を貸してやるから、次からはそこで、女装をするが良い。貴様も、親友の妻の部屋に通っているなどという不本意な噂、望むまい。」
それから、司馬イは、これほど親切な人間もそうそうおるまい、と胸を張って続けた。
「大喬には、私が先に話をつけておいてやったぞ。」
一体何が琴線に触れたのか、司馬イは、大喬のお遊びに加担することに決めたらしい。自らの部屋を差し出したのである。政宗は女装すがたを見られることを己の恥と受け止めていたので、これは司馬イの嫌がらせに違いないと思い込んで、歯軋りをした。だが、自らの見当違いの優しさに酔っていた司馬イは、あからさまに鼻白む政宗にいっこう気づかず、高笑いを響かせながら部屋を出て行ったのだった。
そういうわけで、あれ以来、政宗が大喬の自室を訪れることは皆無になった。代わりの部屋ができたのだから、当然である。大喬は、勿論、自分の名誉が守られるならば、と、大賛成のうちに司馬イの提案を受け入れたし、政宗には反論など許されていなかった。ここで反論できるようならば、そもそも、女装などという辱めを受けていないのだった。そういう次第から、政宗は意外と心地よく作られているその部屋で、姿見を前に不貞腐れていたわけである。何が目的で造られた部屋なのか、隣には浴室まで設置されているので、大喬は自重という概念を完全に忘れ去り、政宗相手に好き勝手し放題なのだった。眠れるはずもない。
あの一件以来、何かと面子に加わることが多くなっていた司馬イも金鬼も、今ばかりは南中での戦で出払ってしまっているで、政宗と大喬の二人きりである。下っ端の金鬼はわからないが、司馬イは、小田原での戦も控えている。あの信長を相手に罠を張ると自信たっぷりに言い切っていたから、忙しさに、しばらく会うこともないだろう。
政宗は鏡越しに、子守唄を口ずさみながら己の短い髪を結っている大喬を見やった。大喬は何がそんなに楽しいのか、今日も厭きることなく、政宗で人形遊びをやっている。何処からか司馬イが持ち込んだ華やかな衣装をまとった政宗は、儚げな印象を与える薄めの化粧も相俟って、ますます花も恥らう乙女の様相を呈している。そんな己の虚像を睨みつけてから、政宗は、紅い唇を開いた。
「会うたらしいな。」
司馬イや金鬼と入れ替わるように帰って来た大喬は、それまでの三日間、関が原に出払っていた。遠呂智軍から離反した孫策を討伐する目的の戦である。突発的な戦であったので、あらかじめ準備を重ねていた司馬イらより早期の出陣となったのだった。この戦に、わざわざ、大喬や孫権といった呉のものたちが選ばれたのは、同士討ちを楽しむ妲妃の案だろう。
大喬は口を休めて、政宗を見つめた。大喬の目には、この気晴らしでも祓いきれないほどの苦悩と悲痛が顔を覗かせている。このような哀しい目をするくらいならば、兄を信じて離反した尚香のように、夫を追って逃げてしまえば良かったのだ。大喬が孫策から託されたものが、家族か、仲間かは、政宗にはわからない。だが、間違いなく大喬は、孫策が何気なく漏らした一言を、後生大事に握り締めているのだった。
大喬は僅かに俯くと、唇を震わせて、政宗に妹との再会を話して聞かせた。
「お姉ちゃんのバカ!孫策さまを信じてあげなよ。ですって。もちろん、信じてるわ。だけど…。」
だけど、と、政宗はその先に続く言葉を思って、鼻を鳴らした。だからこそ、大喬は遠呂智軍から去るわけにはいかないのだ。その、孫策さまを信じていればこそ――皮肉な話である。
政宗は苛立ちも露に、鏡台を指で叩きながら話し始めた。
「南中の近くに、姉川という地がある。今、呉から構成される反乱軍は、その先の常山を根城にしとるらしい。」
一体何が始まったのかわからず、大喬が怪訝そうな面持ちでこちらを見ている。政宗は背後を振り向くと、大喬相手に噛み付いた。
「何をめそめそしておる!もう、我慢ならん!そんな奴は要らん、遠呂智軍から出て行け!」
政宗はずいぶん前から、孫策と大喬を再会させようと心に決めていた。政宗にとって、親友である孫策も、その妻である大喬も、大事なものだった。孫策が帰ってくるのが一番の良策ではあったが、政宗としても、孫策を遠呂智軍に引き戻すことは諦めている。仕方なしに、大喬を離反させようとしたのだが、強情な大喬は、どれだけ諭しても出て行こうとしない。
思い悩んだ末、政宗は、諸葛亮相手に問答をした。あるところに、囚われの鳥がいる。駕籠を開け放してやっても、出て行こうとしない鳥を追い出すには、いかな手段を用いれば良いのか。諸葛亮は目を瞬かせた後、扇の下で小さく笑いながら、答えた。もしかすると、諸葛亮は、問答が何を指し示しているのかわかった上で、政宗に策を授けたのかもしれない。どこまでも腹の読めない、喰えない男だ。内心、政宗は諸葛亮のことを薄気味悪く思っていた。しかし、秘策を与えられたことは事実である。政宗は諸葛亮の鬼謀に舌を巻きながら、その案を受け入れた。
出て行こうとしないのならば、おられぬように仕向ければ良いのだ。
政宗が己の忍び衆を使って、大喬に内通者の嫌疑をかけさせたことを告げると、大喬は僅かに動揺を表した。その胸に、政宗は、大喬の得物である扇と路銀の入った皮袋を押し付けた。
「董卓くらいならば、お主一人でも何とかなるじゃろう。増援の司馬イは見物を決め込むはずじゃ。わかったら、さっさと行け。もう二度と、わしの前にかような面を見せるな。」
大喬が夫である孫策を慕って常山に向かうことは、想像に難くない。まず間違いなく、妲妃もそう判断するはずだ。そして、近くに拠点を構える董卓が黙っているとも思えない。曹操すら欲した美女を手に入れようと、董卓は、シ水関から自らの兵を差し向けるはずである。
董卓だけでは心許ない、と考えた妲妃が、その手助けに駆り出すのは、おそらく司馬イだ。
妲妃は存ぜぬことだが、大喬は司馬イとはまんざら知らない仲でもない。何よりこの後、司馬イは大喬より大きな獲物を召し捕る心積もりなのだ。ここで下手にやる気を出して、手勢を疲労させることはない、と、もっともな判断を下すに違いない。それに、司馬イは妲妃が嫌いである。一方的に命じられて、反感を持たないはずがないのだ。
董卓が大喬を捕らえるよりも、孫策が妻を救い出す方が早いだろう。
「そんなことをして、あなたはどうなるのです?」
大喬は本物の苦渋と、それ以上の喜悦に、混乱した風な声で返した。政宗は胸を張って、大喬を叱責した。
「独眼竜を甘く見るでないわ、馬鹿め!つまらぬ心配をするでない!」
政宗を見つめる目が、次第に水気を帯びて、こぼれそうになった。それを見るのは忍びない、と政宗は頭から防寒具を被せてやり、やんわりと背を押してやった。それは政宗が、普段あれほど恐れていた大喬が、このような可憐な態度を取ることに戸惑いを覚えたためでもあるし、感謝の眼差しを真正面から浴びることに慣れていないためでもあった。
「ありがとうございます…この恩は、決して、忘れません。」
大喬は眦に浮かんだ涙を拭うと、本心から、花のような笑みをこぼれさせた。
「きっと、政宗さまに似合う衣装を用意して、待ってますね。」
そうして、思わずたじろぐ政宗の様子を確認して笑い声を立てると、大喬は遠呂智軍に背を向けて、夫の元へ旅立った。政宗はその後姿が見えなくなるまで見送った後、さてどうやってこの女装を解いたものか、と、施された化粧や髪飾りの始末に頭を悩ませるのだった。
初掲載 2009年6月17日