常の大喬は、非常に清楚でお淑やかな娘である。それは、つねづね政宗が、妲妃に爪の垢でも飲ませた方が良いと思うほどであった。その肌理細やかな心配りは、何事も大雑把に捉える傾向の夫を支えるにあって十分すぎるほどだ。大喬は少々慎重になりすぎるきらいがあるので、なるほど、この夫婦は良く釣り合いが取れている、と政宗はしばし感嘆するのだった。
だが、用意周到であることが必ずしも周囲にとって良い方向に転がるとは限らない。実際、今の政宗は、大喬の手際の良さに二の句が告げない状況だった。
大喬は、今回外泊するにあたって、金鬼の分の衣装は持ってきていた。遠呂智軍は、そのほとんどが妖魔によって構成されている。だから金鬼がそのままの姿かたちで、この治安の決して良いとは言えない街にいることは、「ここに遠呂智軍がいるぞ。」と宣言して歩くようなものである。金鬼はまやかしが得意な妖魔であるので、人間に化けるのもお手の物であるから、大喬の手渡した衣服さえまとえば上手く誤魔化すことができた。
しかし、政宗はというと、大喬が手渡した衣装に気が遠くなって仕方がなかった。大喬は、女物しか持ってきていなかったのである。大柄な金鬼の服では、小柄な政宗には型が合わない。ここに来るまで政宗が着てきた商人風の服はどうしたのかと問えば、屈託ない笑顔で「あげてしまいました。」などと言う。先日、戦のあった成都とこれから戦の起ころうという南中の間にあるこの街には、商人や兵士、それに、避難民や孤児で溢れかえっている。その喰うに困るような身分のものたちに、大喬は政宗の服をやってしまったというのだった。大喬が大変慈悲深い性質であることは政宗も知っているが、これは単に、政宗を女装させて遊ぶ障害を排除する目的での行動だろう。
昨日かけてやった情けを仇で返すとは、と、政宗は怒りに身を震わせた。もしや昨日の殊勝な態度も罠であったのではあるまいか、と疑念ももたげてくる。だが、大喬の有無を言わせない笑みを前にして、政宗は口を噤んだ。おそらく、下っ端ゆえこういう上下関係に異常に敏感な金鬼は、大喬に味方するだろう。衣服補給、などの救援は一切期待できない。まさか、親友の妻の前でいつまでも裸のままでいるわけにもいかないので、政宗は泣く泣く、押し付けられた女物をまとう羽目に陥った。
四ヶ月も経つと、あれこれ着せ替え人形よろしく遊ばれている政宗も、大陸の女物がまったくわからないというわけでもないので、いったん胸の前に掲げて、一体自分が着させられる服とはどのような代物なのか品定めしてみた。昨日は簡素ながらも愛らしい、大陸で幅を利かせている漢人の服であったのが、今日は趣向を変えてみたのか、苗人の服である。黒を基調に赤青黄緑をふんだんに用いた衣装は、漢人の服に比べれば、奇抜としか言いようがない。その点、悔しいが、派手で粋なので、政宗好みではある。
政宗は少し機嫌の直った自分に焦りを覚えて、たいそう不満そうな表情を作った。そんな政宗の胸のうちを百も承知しているかのように、大喬はにっこりとお得意の笑みを浮かべるのだった。
騒動があったのは、午の刻のことである。
化粧もほどこされて、「猫さん」に扮装させられた政宗は、すっかり不貞腐れてしまい、中通りを少し行った先にある楡の陰で昼寝をしていた。現在、遠呂智軍が活動の場にしている城から、二刻もかかるような場所へわざわざ遠出をしてきて、楽しむでもなく昼寝をするというのももったいない話だ。しかし、女装をしてしまった時点で、この旅における政宗の楽しみは消えたのである。大喬や金鬼は大いに楽しんで息抜きをしているようだが、政宗にしてみればたまったものではない。
勿論、治安の悪い街で、熟睡するわけにもいかない。だが、下手に起きていて、苗人に話しかけられても困る。政宗は苗人の言葉がまったくわからないのだ。
そういうわけで政宗は転寝をしながら、金鬼の術によって常人には見えない耳をぴくぴく動かして、周囲の動向を探っていた。苗人の服は上着の裾が長く、帯から下が膝あたりまである。政宗は用心から、その下に、小刀を隠し持っていた。本心を言えば、愛用している銃が一番なのだが、銃声はあまりに大きすぎる。使おうものなら、大事必死だ。
政宗がもう少し用心深い性質であったなら、この騒動は起こらなかっただろう。しかし、政宗は生来楽観主義で、また、昨日見た大喬の様子に内心気圧されていたので、昨日はあれほど早くこの街を出なければならないと焦っていたにもかかわらず、もう幸村に会うこともないだろうとうかうかしていたのである。それに、この日は、陽光が穏やかで暖かい、昼寝日和の天気だった。政宗はどうしても、外でする昼寝の誘惑に勝てなかった。
そういうわけで、政宗がうとうとやっていると、ふと、真上に影が落ちた。人が近づいてきているのは音でわかっていたので、政宗は、一体誰であろう、と瞑っていた目を開いた。何の配慮もなく寝返りを打つものだから、政宗の髪はさんざっぱら乱れている。髪飾りで留めていたはずの長い前髪が、瞼の上にかかって見えないので、政宗はそれを指で払い除けた。すると、こちらを窺っているのは、幸村ではないか。このとんでもない事態に、政宗は固まってしまった。
幸村は、もしかして起こしてしまったのかと大変恐縮がりながら、いまだ安定しているとは言いがたい街ゆえ、外で年頃の娘が寝るのはお勧めできない、と、それはたいそうご丁寧に説明してのけた。それも、と、幸村は何がそんなに恥ずかしがることがあるのか、どもりながら言うわけである。
「それも、貴女のように愛らしい方が、無防備に寝ていて…かどわかしにでもあったらどうするのです。」
この台詞に、政宗は思わず呆気に取られて、瞬きを繰り返した。
政宗も眼は腐っていないし、審美眼にはいささか自信もあるので、もしかすると自分の女装すがたはそこいらの娘より愛らしいのではないか、と思っていたことは事実である。今までは、身近にいる女たちといえば、大喬や妲妃のような美に優れすぎたものたちであったので、あまり自信がなかったが、大喬に連れられてこの街に来たことで、政宗の疑念は確信へと変わった。しかし、では、そそるかと問われると、不明である。政宗はこの姿がどれだけ愛らしかろうと、鏡に映る美少女は自分だとわかっているし、男だとも知っている。だから第三者の、それも男の眼にどう映るのか、今まではっきりとしたことはわからなかった。
その答えは、幸村にあるらしい。ここで、政宗は引きつった笑みを浮かべれば良いのか、けつをまくって逃げれば良いのか、あるいは、いっそ弄んでやれば楽しいのか、判断につかず、何とも言えない笑みを浮かべた。それが、幸村には恥らっている風に映ったらしい。あの、恋するもの特有の、想い人への賛美に充ちた熱っぽい眼差しを注いだ。
政宗は、この世界の幸村がどの時代からやって来たのか知らない。それでも、己の面が割れている自信はあった。破竹の勢いで奥州を平らげた政宗は、それが元でやっかみを受けたりしたものの、知らぬもののない有名人だった。まさか、隻眼でないから、わからないのだろうか。自分は幸村の死に衝撃を覚えて、軍まで起こしたというのに、幸村にとっての自分は眼帯をつけている男、くらいの薄らぼんやりした記憶なのか。それは、あんまりだ。
そこまで考えて、政宗ははっとした。あまりの衝撃に愚かしいことを考えてしまったが、考えてみれば、政宗の正体などばれない方が良いのだ。政宗は遠呂智軍の高官で、幸村の所属する反乱軍と大々的に敵対しているし、何より、女装すがたである。恥ずかしいことこの上ない。
政宗はどうにも引きつる口元を袖口で隠しながら、微笑む幸村に合わせて、笑い声を立てた。
「もし宜しければ、昼食でもご一緒にいかがですか?」
これは脈ありと読んだのか、幸村がやんわり問いかけてくる。とっさに、政宗は周囲に視線を巡らせた。いくら小刀を所持しているからといって、昼中の街中で、刃傷沙汰を起こすわけにもいかないし、相手は豪槍を振るう幸村だ、非力な政宗が銃なしで勝てるとも思わない。かといって、不自然すぎるので、己の俊敏さを生かして逃走を図るわけにもいかない。
逃げ道を模索する政宗の目に、更に事態を悪化させる一団が映った。屋台の後ろからこちらの様子を窺っているのは、雑賀孫市ではないか。その後ろには、蜀軍において中心を担うものたち――手配書の絵が確かであれば、趙雲、星彩――もいる。政宗は孫市のダチだから、何故このようなことになっているのか想像するのは、わけもなかった。自らを愚鈍と称する幸村は、気質が真っ直ぐで隠し事に適していないから、昨日成都へ帰還したときも、現在のような、どこか惚けた面をしていたのだろう。妙に敏いところのある孫市である。異変に気づいたのだ。それが恋によるものだと決め付けたのか、当てたのかはわからない。ともかく、孫市は幸村を冷やかす目的でもって、無理矢理仲間の腕を取り、この見物に乗り出したのだ。趙雲がどこか後ろめたそうな、居心地の悪そうな様子で、星彩が心底どうでも良さそうな、あからさまに「私は、趙雲殿がいるから、ついてきただけ。」という投げやりな態度を取っているので、まず間違いあるまい。
確かに、普段真面目で堅物と言って良い幸村の恋など、第三者からしてみれば面白い見世物である。そう判断を下した孫市は、確かに、正しい。普段であれば、政宗も同調してみせただろう。だが、今回はあまりに政宗に分が悪すぎる。
政宗は、半妖であるとはいえ、陰の気に打ち勝ってしまうほどの陽の気の持ち主であるので、妲妃や清盛のように肌の血色が悪いわけでもない。雪国出身で白かった肌が、心持ち、更に白さを増したくらいである。それを更に白くして、政宗は、見渡す限り墓穴だらけの現状を嘆いた。たとい、どれほど政宗が楽観主義者であるといっても、限界がある。本能寺を焼き討ちされた際の織田信長のように、「是非もなし。」とあるがままを受け入れることもできない。
政宗は、小田原攻めもかくやという窮地に立たされていた。
一方、政宗のダチである孫市は、見覚えのある顔立ちを前にして、内心眉をひそめていた。
徳川側であった政宗に対し、豊臣側の立場を取っていた孫市は、同じ立場にあった幸村と長い付き合いである。そのため、孫市は数年前から、幸村の異性の好みが、どことなく政宗に似ていることは知っていた。娘たちがことごとく明るい髪色の持ち主で、また闊達でもあったので、初めは孫市も誤解して、幸村がねねにでも密かに懸想しているのかと疑ったほどだ。
それがどうも違うらしいと思い始めたのは、幸村が政宗を眺めているのを目撃したときのことである。そのときにはすでに、幸村と政宗は東西に分かれて敵対していたので、孫市はてっきり相手の出方を窺っているものと思ったのだが、それにしては、熱心すぎる眼差しだった。訝った孫市は、女以外ろくに留めようとしない記憶を必死にあさって、政宗の顔を掘り起こした。すると、その姿は見た目から立ち居振る舞いから、全てにおいて、それまで見てきた幸村の歴代の「異性の好み」たちを繋ぎ合わせたようなものだったので、孫市は、そこまで好みど真ん中が同性とは哀れなやつだな、と幸村に勝手な同情を寄せたのだった。
それから、幸村は政宗の手によって命を散らせ、幸村の最期に衝撃を覚えた政宗の下、孫市は伊達軍の一員として徳川に喧嘩を吹っ掛け、そうして、この世界へやって来させられたのだが、再び同じ軍に属したことで、孫市は、それまでのひしひしと感じ取っていた嫌な予感が本物であったことを知らされてしまった。幸村の異性の好みに似ているのが政宗なのではなく、政宗に似ているのが幸村の異性の好みなのだ。幸村は、孫市も認めるほど男前で気の良いやつなので、可愛い嫁さんでももらってつつがなく幸せになってもらいたいと思うのに、あろうことか、自ら進んで茨の道を行くのである。今回も、幸村がようやく政宗以外に惚れたらしい、と、孫市が喜び勇んで応援に駆けつけてみれば、やはり、政宗の影から逃れられないでいる。
孫市が嘆息するのも仕方ない話ではあった。眼前にいる美少女は右目を眼帯で覆ってしまえば、女装した政宗にしか見えないほど、政宗にくりそつだった。金鬼の術によって耳を隠し、右目を生じさせた政宗本人なのだから、当然の話ではある。しかし、孫市はそんな事情を知らないのだ。もういっそ、幸村が幸せだってんならどれだけ政宗の面影があっても良いか、などと悲壮な決意を固めつつあった。
「…どこかで、見たことのある顔ね。」
それまで、いかにも興味がないという態度で孫市のお節介を見ていた星彩が口を開いたのは、このときだった。この発言に、孫市はひやりとして、斜め後ろで目を眇めている星彩を振り返った。
星彩は怪訝そうな面持ちで、幸村曰く、猫という名の娘を注視していた。声に出したとおり、その顔にどこか見覚えがあったからだ。
政宗は確かに隻眼であることが一等特徴的だが、そればかりが特徴というわけでもない。星彩も記憶が不得手な方ではないので、どこでこの顔を見かけた覚えがあるのだろう、と考えているうちに、あることに気づいてしまった。見目こそ美少女であるその人間は、明らかに、男だったのだ。生来の女というのは、自然と柔らかな所作が身につくものである。それは、身分が高ければ高いほど、教育を施されて、より昇華されていく。だが、星彩の見た限り猫という人間は、肌の色艶といい髪の質といい、明らかに上流階級の育ちにもかかわらず、まるで少年のような直線的な動作ばかり目立つ。いや、まるで、ではなく、きっと少年なのだ。その上、どうも手足れのようである。動揺の割に、驚くほど、隙がない。気づいてしまえば、星彩に取るべき行動は一つしか残されていなかった。そんな怪しい人間を、幸村のような将来ある若者に近づけるわけにはいかない。それは、女としての思い遣りであり、戦人としての危惧でもあった。星彩には、反乱軍であのような少年を見た覚えがなかった。となると、遠呂智軍の人間、それも、実力から推し量るに名のある武将に違いない。
ここは是非とも捕らえなければ、と、星彩は孫市の制止を振り切り、二人の方へ一直線に歩いていった。流石にぎょっとした様子で、猫が目を見開いている。その後ずさって逃げようとする肩を無理に掴むと、星彩は「どこで見た顔だったかしら。」と小首を傾げた。確かに、見た覚えはあるのだ。遠呂智軍のものであろうという確信もある。しかし、一言に遠呂智軍と言っても、あちこちで軍勢を吸収しているので、どこの誰なのかさっぱりわからない。隣では、突然、想い人に失礼を働かれた幸村が目を白黒させながら、星彩に暴挙を止めさせようとしている。だが、鋼の心を持つ星彩はいっこう気にせず、もっと良く顔を観察するべく、右手で猫の頭を固定しようとした。
そのとき、掌を撫でた感触に驚いて、星彩は思わず手を離してしまった。まるで動物の――例えるならば子猫の耳を押さえつけたような感触がしたのだ。星彩が触れた右手を左手で覆うのと、猫が立ち上がったのはほとんど同時のことだった。猫は幸村に話しかけられた当初から、逃げ出す機会を窺っていたらしい。星彩の鉄面皮に動揺が走ったのを見逃さず、ばっと身を翻すと、脱兎のごとく逃げ出した。途中、大男をお供に屋台を見て回っている美少女を追い越したことに気づくと、猫は慌てた様子で取って引き返し、その娘の手を掴んで再び走り出した。
それっきり、猫は街から姿を消してしまった。幸村には散々非難され、孫市にもどうしてあんなことをしたのかそれはもうしつこく追求されたのだが、星彩は黙りこくって黙秘を貫いた。星彩は、猫が連れて逃げた美少女のことを知っていた。まだ良くわからない日ノ本の人間ならともかく、元々が大陸の出身である星彩は、大陸のものならば知悉していた。間違えるはずがない。あれは、呉からなる反乱軍を率いる孫策の妻、大喬である。
どうもここら辺に、あの少年が女装をしている理由や不可思議な感触の正体を解く鍵があるらしかった。
初掲載 2009年6月15日