この日、政宗は一ヶ月ぶりに、政務に復帰した。祝勝会で倒れてから音沙汰一つなかった政宗に声をかけてくるものもあったが、政宗は適当に言い訳を見繕って、対応していた。まさか、猫耳と尻尾が生えた衝撃で不貞腐れていた、とも言えない。大抵のものは、政宗が高熱を出して寝込んでいた事実は聞き及んでいたので、さして疑問視するでもなく、労いの言葉をかけて立ち去るのだった。中には何を勘違いしたのか、呂布のように、「拾い食いは止めておけ。」と忠告するものもあった。失礼な勘違いであるが、あながち、間違ってもいない。政宗は、「余計なお世話じゃ!」と睨みつけるのだった。
妲妃によって固く緘口令が敷かれたため、政宗が半妖になったことを知るものは存外少なかった。知っているのは、遠呂智、慶次、清盛、孫悟空、そして妲妃、後は、伊達の三傑くらいだろうか。清盛と孫悟空は、再び、仙人共を追って旅に出てしまったし、妲妃は緘口令を敷いた当の本人である。遠呂智はそもそもが無口であり、慶次も、政宗の願いを聞き届けないほど薄情でもない。結局、政宗に襲い掛かった不幸をばらして回るものはいなかった。また、政宗のいる時代も、そして、三国志の英雄たちの時代も、引けを取らない珍奇なものたちが揃っていたので、政宗がどんな場でも兜を外さなくなった程度で騒ぐような輩はいなかった。
そういうわけで、溜まった仕事を片付けようと政務に励んでいたのだが、麗らかな春の日差しに、自然と政宗の瞼は下りてくる。政宗は欠伸を噛み殺して、窓の外の景色に目を向けた。非常に良い天気だ。ここが、魔王の作り出した世界とはとても思えない。
この半月の間に判明したことには、政宗には妖力が使えないらしい。半月前、政宗はしたり顔の妲妃から、長々と説明を受けた。正味一刻にも及んだそれを要約してざっくばらんに言ってしまえば、あくまで生き残ろうとする政宗の人間の部分が、生き残るために、猫の蛇毒に対する免疫に目を付け、取り込み、陰に堕とすべく殺そうとする妖魔の部分に打ち勝ったらしい。つまり、陽の気が陰の気を押さえ込んでしまったのだ。そのため、政宗は身体能力こそ向上し、外見が多少変じたものの、結局のところ、どう足掻いたところで遠呂智の見る世界を知ることができない身である。結果が不満だからといって、やり直すことはできない。政宗は妖魔の血、その中でも一等毒性の強い遠呂智の血に免疫ができてしまったのだ。完全な人間にも戻れないし、完全な妖魔にもなれないし、遠呂智の血を受け損、死に瀕し損、と言えなくもない。
政宗のこの燦々たる結果には、見舞いに来た妲妃も慶次も声を立てて笑っていた。小十郎からは、「何を浅慮なことをしているんですか。死ぬところだったんですよ!」と涙ながらに二刻ほど説教を喰らい、この事態に際し興味津々だったらしい成実からは、「梵、人間やめちゃったんだなあ。」と失礼な台詞と共に耳を弄られるという無礼を働かれた。綱元こそ無言であったものの、目の前で、心底呆れた風に溜め息を吐かれた。
結局、この騒動によって、政宗が得たものはなきに等しい。あるにはあるのだが、猫の本能といういらない特性だ。政宗は襲い掛かる睡魔に打ち勝たんと、必死に頭を振って、目の前の書類に対峙した。ただでさえ、祝勝会以来、一日の睡眠時間が10時間を超えているのだ。これ以上寝てどうする、と己を叱咤激励するが、遠呂智の血によって付加された本能はどうしようもない。結局、政宗は眠りについた。
次に政宗が目を開いたのは、半刻ほど後、耳に触れられたときのことだった。やんわり触れた柔らかな指先の感触に、それまでうっとりと惰眠を貪っていた政宗は、ぎょっとして飛び起きた。誰だ、耳に触るのは。妲妃か、成実か。昨日まで自室に引きこもっていたので、そういう心積もりで顔をあげた政宗は、思わず硬直した。そこには、大喬が立っていたからだ。
大喬は、政宗とも親交のある孫策の妻である。呉から人質に連れてこられた身で、その健気さ、お淑やかさは、妲妃に爪の垢でも飲ませた方が良いのではないかと思うくらいだ。机上に新しく増えた書類から察するに、大喬はこれを頼まれるか何かして、運んで来たらしい。その隣には、政宗の兜が置いてある。
大喬は、静止したまま動かない政宗に動揺したらしく、伸ばしていた指先を引っ込めると、おどおど長い睫毛を震わせて瞬きを繰り返した。
「あ、あの…寝ていらしたので、兜が重くないかと思って…。」
親交がないでもないので、政宗にも良くわかる。大喬は善意から、そのような行動を取ったのだ。ここで攻めるのは、些か筋違いというものだろう。ようやく我に返った政宗は、今更ながら、慌てて耳を両手で覆い隠した。しかし、それが今更だと自覚があるだけに、どうなるでもない。
「すみません…もう…知っています。」
泣きそうな顔で謝ってくる大喬に、政宗も項垂れながら生返事をしてから、返す刀で、大喬にばらさぬよう懇願した。大喬は、一体政宗がどういう経緯でこのような事態に陥っているのか不思議に思ったのだろう。元々が敏い女であるので、祝賀会とこの一ヶ月の不在を難なく結びつけた上で、あの日一見した清盛と今の政宗も結びつけたらしい。
「あの…。」
「何じゃ?」
「その、不快でなければ、また触っても良いですか?」
突然の台詞に、一瞬、意味が把握できず、政宗は緑に色付いた瞳を瞬かせた。元々は薄い茶だった瞳は、遠呂智の血を受けたことで猫特有の緑色に変化し、光の加減によって、明るくも暗くもなる。これはもしや脅迫だろうか、と、政宗は眉間にしわを寄せた。しかし、大喬は気後れした様子で、指先を遊ばせている。疑ったところで、人の良い大喬が脅迫などしないことはわかりきっているので、政宗は両耳をぺたりと垂らした。
「好きにするが良い。」
ぱっと大喬が目を輝かせた。
こうして、政宗と大喬の奇妙な関係は生まれたのである。
それからもたびたび、大喬は政宗の元にやって来ては、耳を撫でるようになった。気落ちした様子であることが多いので、訝った政宗が尋ねてみれば、大喬は人質という立場上呉の仲間と会うことも満足に許されず、いつも一人で寂しいのだという。本来、このような美少女に無聊を慰めて欲しいと乞われれば、政宗も男なので、満更でもない。しかし、男が求められて嬉しい慰めとこれとでは、あまりにも方向性が違いすぎる。
政宗は深く脱力に襲われたこともあって、孫策をせっついて、大喬の元をもっと頻繁に訪れてやるよう口出ししたのだが、それ以前から、孫策も可能な限り妻の元を通っているのだ。元来、情が深く、愛妻家の男である。中々、実現は難しい。
その上、どうも最近、雲行きも怪しい。孫策は遠呂智の行動を快く思っておらず、仲間を人質に取られたため、嫌々従っている節がある。本意と取らねばならない行動との乖離に、孫策が迷っていることは、友人である政宗も知っていた。そのような愚かな迷いはさっさと捨ててしまえ、と、政宗も散々口をすっぱくして言い聞かせてきていたのだ。しかし、何か転機があったらしい。孫策は吹っ切れつつある様子だ。だが、どうも、政宗の望む方向とは逆に歩み始めているようで、そのうち孫策は遠呂智軍から離反するのではないか、というのが、妲妃の見解である。
この事態に際して、「誰じゃ、孫策に妙な入れ知恵をしおったのは。」と、快く思うがゆえに孫策と敵対したくない政宗は、内心ぎりぎり歯噛みした。孫策が離反すれば、最初に刺客として仕向けられるのは、元呉軍のものたちである。人質も無事では済むまい。
その人質である大喬は、夫の決断を知っているのか、否か。
政宗は何が楽しいのか、己の耳を熱心に撫で続ける大喬へ一瞥投げかけた。こんなことで心休まるのならば、どれだけでも撫でさせてやるが、根本的な解決にはならない。どうにかして、政宗は、孫策の気持ちを変えさせなければならなかった。
そうこうしているうちに、本当に、孫策は遠呂智軍から離反してしまった。これまでも、最初から反乱軍の一員である実妹に心を配っていたのだ。夫までも仲間からも追われる身となったことは相当の負担らしく、大喬の顔は常に物憂げで悲しそうなものとなった。
その心痛は、政宗が戦に出て指揮を取っていた一ヶ月の間に、のっぴきならない代物へと成長を遂げていたらしい。
帰還を果たした翌日、梅雨のどんよりと重苦しい曇天もこれはこれで乙なものだ、と、執務室で惰眠を貪っていた政宗は、ただならぬ視線を感じて目覚めた。すわ、刺客か、と身を起こせば、真剣な面持ちの大喬がじっと政宗を見つめている。そのあまりの熱視線に、政宗はたじろいだ。
「政宗様、お願いがあるのです。」
実母関係で様々な苦渋を強いられ若干すれたとはいえ、政宗は、真っ直ぐな気質をしており、どこかお人よしである。一体何事だ、と思うような必死さで大喬のような美少女に乞われれば、否とも言えない。政宗は、そのお願いとやらがどんな類か一切関知しないまま、頷いてしまった。
それからである。政宗と大喬の関係が、更に奇妙なものへ移行したのは。もっとも、この時点の政宗は、まだそんな未来を知らない。大喬に手を引かれるまま、執務室を抜け出した。元々、昼寝をするくらいだから、仕事もさしてない。寝起きのため、頭もぼんやりしている。大喬の振る舞いに些か不安を覚えたものの、政宗は引かれるまま歩き続けた。
辿り着いた先は、大喬の自室だった。人質という身分ゆえ、あまり広くもないが、個室であることには変わりない。政宗は妙にどぎまぎしてくるのを感じた。もしかして、そういうお誘いなのだろうか。自分を置き去りにして離反した夫に対する、当てつけなのか。しかし、政宗は孫策と友人だという自負がある。まさか、そんなことできるはずもない。兼続の口癖ではないが、不義だ。
政宗の心境など露知らず、大喬はぱっと繋いでいた手を離すと、衣装箪笥の引き出しを開けて、その中を引っ掻き回し始めた。突然、放り出された政宗は意味がわからない。所在なく立ち尽くすしかなかった。
その間にも、まるで品定めするかのように寝台の上に衣装を並べていた大喬は、自身の中で何らかの決着がついたのか、小さく頷くと政宗を振り返った。そのとき、政宗は勝手に探し出した椅子の上でまた懲りずにうとうとやっていたので、慌てた。つかつかと大喬が歩み寄ってくる。
「政宗様。」
「な、何じゃ?」
そう答えながら、嫌な予感がしたのも確かだ。大喬の手には、華やかな大陸の衣装が握られていた。ひらひらしたやつだ。大喬の部屋にあるものなので、当然のように女物である。
「これを着てください。」
勿論、政宗は断ろうとした。いくらなんでも、それが美少女の頼みで、無聊を慰めてやるためとはいえ、政宗には好き好んで女装するような趣味はない。政宗はお人よしである一方、この上なく、矜持が高かった。しかし、政宗は反論を飲み込むと、握らされるままその衣装を手に取った。大喬の眼が据わっていたからである。断ったら殺される、と、政宗は背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。それくらい、大喬は末恐ろしかった。
言われるがまま女装した政宗に、大喬は何が面白いのか化粧まで施すと、ようやく、人心地ついたように普段の儚い風情に戻った。だが、安堵はできない。この娘の心痛がのっぴきならないところまで高まったとき、またいつ、このような奇行に走るのかわからない。孫策を遠呂智軍に連れ戻すなり、あるいは、大喬を孫策の元へ無理にでも送るなりして、どうにかこの事態から逃れなければ。鏡台の前で、政宗は内心青褪めながら、機嫌が良くなったのか歌まで口ずさみ始めた大喬に髪を梳られていた。
初掲載 2009年6月14日