日番谷は眉を顰めた。此処数ヶ月感じていた苦い思いが何処までもヒタヒタと侵食していくようだ。何故阿散井は自分などのために倒れたのだろう。
全ては虚構だった。子供の積み木遊びの様に揺らいでは傾ぐ、其れは不安定な偽りである筈だった。だが、日番谷には既に何処までが嘘で何処からが実なのか、分からなくなっていた。
地に伏した阿散井を暫し見つめ、ゆっくりと大虚を振り返る。何時になく険しい顔であるのは、大虚に対峙しているからでは決してなかった。
大虚は日番谷の面に浮かべた絶望ににたりと笑った。
男も倒し、是で日番谷を喰らう邪魔立てする者が居なくなった。さぞや娘は美味かろう。大虚は若い娘の柔らかな肉の感触を思い出し、口内に湧き上がった唾を飲み込んだ。
すらりと腰に佩いた斬魄刀を抜いた日番谷に、大虚は最期の無駄な抵抗であると甘く見た。事実、是が只、外見通り美しいだけの娘であれば何ら大虚の判断に問題はなかったであろう。
だが、日番谷は娘の姿をした龍だ。其の鋭い牙を見せ付けられ、強靭な咢に噛み砕かれるまで、大虚は己が何時しか狩猟者から獲物に成り代わった事実に気付かなかった。
全て、あまりにも甘く見過ぎていたのだ。
「…霜天に坐せ、氷輪丸。」
日番谷の小さな呟きに合わせ、其の斬魄刀が姿を変えた。瞬間膨れ上がった霊圧に大虚が虚ろな目を見開いた。
日番谷が只管静かに、刀を凪いだ。
叫び声を上げることすら叶わない。大虚の悲鳴は喉に張り付き、音になることなく散った。
さらさらと無音で塵となり崩れ去っていく亡骸を黙視し、日番谷は瞳を閉じた。
嗚呼、何時から己は斯くも心を奪われていたのだろう。己を守るに足らぬ弱き男に。今でこそ日番谷は女であるが、明日にも男に戻る身の上である。何故同性で、実る筈のない想いであると知りながら夢を見てしまったのだろう。
胸中は只苦かった。
「…こちら日番谷。…卯ノ花か?区画27番にて大虚発生。大虚は倒したものの負傷者一名。十一番隊第十席阿散井恋次。救護を頼む。」
『既に霊圧を感じた者が其方に向かっています。日番谷隊長にお怪我は?』
「俺にはない。大丈夫だ。」
「馬鹿だよ、お前。」
阿散井の脇に腰を落とし、日番谷は囁いた。血の気を失い白くなった頬に掌を当てる。つと這わせた指先はやがて吐血に汚れた口元に至り、動きを止めた。爪を赤く染めることも厭わず、血を拭う。思いがけず優しい手付きに日番谷は自分の事ながら小さく呻いた。
「馬鹿だ。」
さらりと額を流れた銀糸が、阿散井の頬に掛かる。屈み込み触れ合わせた唇は、冷たかった。