日番谷と阿散井の間に何も起こらぬまま、四ヶ月半が過ぎた。既に季節は冬を過ぎ、春になろうとしていた。其れは、誰も気付かぬ小康状態であった。
解毒剤が出来た、と連絡を受けたのは先週のことである。受け持ちの生徒の卒業式が昨日であったことを理由に「日番谷冬獅郎」に戻る期限を明日へと引き延ばしてきてもらったが、果たして、日番谷自身其れが本当の理由なのかは分からなかった。己に無理矢理言い聞かせているだけなのかも知れない。本当の理由は或いは。
日番谷は小さく唇を噛み締め、隣に立つ阿散井に視線を向けた。
任期が一年であることを承知していた阿散井は、此の日、日番谷を現世へと連れてきていた。あの夜戯れで日番谷が好きだと告げた、花桃の咲き乱れる場所である。人間の手が未だ及んでいないのか、野生化した其れは淡いく優しい見た目とは裏腹に酷く強さを感じさせた。
日番谷が花桃を挙げた理由が、幼馴染の雛森に起因すると知れば阿散井はどの様な顔をするのだろう。
日番谷の葛藤も事情も何も知らぬ阿散井は只微笑って話を流すかも知れぬ。相手は嫉妬するに至らぬ、幼馴染として語られる娘である。今の日番谷は連雅山統子という名の女だ。女幼馴染に嫉妬する事を、阿散井は良しとしないだろう。男であれば話は別かも知れぬ。だが、日番谷に其れを知る術は無い。知る時、即ち其れは全てがばれた時を意味するのだから。
言えよう筈も無い。雛森は恋の相手では決して無い。だが正しく日番谷の生に意味を与えた女である。
そう言った時、此の男は嘆くだろうか。泣くだろうか。怒るだろうか。
諦めるだろうか。
盛りを僅かに過ぎた花桃は何も言わず、はらはらと花弁を落とすだけである。
ふと感じた微かな違和感に日番谷は背後を振り返った。日番谷の異変に気付き阿散井も視線を後方へと向ける。
違和感は徐々に近付いて来る。もしや之は噂の、霊圧を消すことの出来る虚かもしれぬ。日番谷は無意識のうちに、腰に履いた斬魄刀に手をかけていた。
「 」
逃げろ、と阿散井に言うべきか日番谷は悩んだ。仮初とはいえ、日番谷は今一教師として学院に潜伏中の身である。席官である阿散井が、素直に日番谷の命に従うとは思えなかった。
日番谷の視線の先に何かが在ると察知した阿散井が斬魄刀を持った。
ふるり
空間が震え、大虚が姿を現した。
「連雅山さん、逃げて下さい!」
相手は大虚である。当然、第十席の阿散井に倒せる筈も無い。隊長格でなければ話にならぬ。だが男としての矜持を阿散井は見せた。後ろには好いた女が居るのである。逃げ出すことは出来ぬ。阿散井の気質を考えれば、当然の決断であった。
一方、日番谷は未だ迷っていた。日番谷の命を聞くどころか、阿散井は今好いた女を逃がすため盾になろうとしているのである。隊長である日番谷には、其の必要すらもないというのに。
其の一瞬は、大虚にとっては十分な時間だった。日番谷にとって取るに足らぬ其の隙は、阿散井にとって非常に長い時間であった。
大虚が爪の切っ先を日番谷へ走らせた。迷いに瞳を揺らしていた日番谷はつと大虚を見詰めた。仕様が無い。正体がばれたとしても、其れを後悔するのは命在っての権利である。
真実を知った阿散井が泣くかも知れぬ、其の想像が僅かに心を痛めたが、日番谷は斬魄刀を始解することに決めた。
全てを決めた日番谷の前に、阿散井が飛び出してきたのは其の時であった。
阿散井は何時まで経っても逃げようとせぬ日番谷を、怯えたものと勘違いした。何しろ阿散井は日番谷の正体を知らぬ。只の女であれば、未知なる大虚の恐怖に立ち尽くすことも在ろう。そう判じたのだ。
大虚が腕を日番谷に振り上げた時、守らねば、と阿散井は思った。只其れだけが頭を占めていた。跳躍し、日番谷の前に入り込む。凶刃が届かぬ様に、阿散井は日番谷を強く強く抱きしめた。
背に衝撃が走り、次いで熱を感じた。ばたばたと大きな音を立て、血が滴り落ちる。
其れだけの、一瞬の出来事を。阿散井も日番谷も異様に長く感じた。
じわりと何かが染み出ていくのを日番谷は感じた。すぐさま、其れは堰が壊れた様に溢れ出した。仄暗い感情の決壊である。
どうと音を立てて、阿散井が地に伏した。
日番谷の身体は強張り、手を差し延べて抱き留めることすら出来なかった。