第三話 哀しみ紫陽花(Loveholic)


 休憩に立った藍染が隊首室に戻ってきたとき、その手には紫陽花が何本か握られていた。雛森は書類整理の手を休め、小さく瞬きをした。
 「藍染隊長。この雨の中、取ってらしたんですか?」
 梅雨のこの時期絶えることのない雨は、夏に移行しているとはとても思えない寒さをもたらしながら、今日も降っている。
 「うん?ああ、丁度良い頃かと思ってね」
 「そうですか」
 藍染の手前言うことは憚られたが、雛森は紫陽花があまり好きではなかった。
 死神とはいえ、雛森も一人の女だ。占いや花言葉などといったものを好み、その関連書も大量に持っていた。紫陽花全体の花言葉は、ほら吹きや移り気など。土や雨の酸性によって色を変えることから生じた花言葉だろうが、あまり良い印象は受けない。
 (色によっても花言葉が変わるのよね)
 ピンクか青か。色を確かめるべく視線を向けた紫陽花の様子と藍染の言葉の食い違いに、雛森は首を傾げた。
 「…丁度良い頃?」
 「うん」
 「あの、隊長…その。まだその紫陽花、五分咲きですよ?」
 「うん、そうだね」
 藍染の手にした紫陽花は五分咲きだった。色からして、所々黄緑色と青が入り混じった空色にも見えないこともない白だ。もう一つは、やはり黄緑色が入り混じったピンクっぽい白。どう見ても、手折るには早い。
 (あれは…何だろう)
 青は忍耐強い愛。白は高慢と気の迷い。空色は冷淡。ピンクは忘れてしまったが、いずれにせよあまり良い意味ではない。雛森は困惑に瞳を揺らした。
 (藍染隊長、この前、本を貸した気がするんだけど)
 先日、休憩時間に副隊長仲間である松本と花言葉の説明をしていたところに、藍染と日番谷が通りかかった。そのとき、藍染は面白そうだからと言って、雛森から本を借りたのだ。想い人の懇願に、雛森は一も二もなく頬を赤く染めながら渡した覚えがあった。
 (でも。流石に藍染隊長でも、そんな、花言葉なんかいちいち覚えてるはずないわよね。それに、あの紫陽花だって確かに五分咲きかもしれないけど、ちゃんと見ればマーブル模様で綺麗じゃない)
 藍染を誰よりも敬愛し、何にもまして心酔している雛森は、藍染がそう言うのならばそうなのだろうと一人納得した。雛森の世界では、藍染が言うならば白も黒に染まるのだ。
 そしてぼんやりとつらつら思考に耽っていた雛森は、はっとして席を立ち上がった。
 「わ、私ったらすみません!今すぐ花瓶持ってきますね!」
 「ああ。いや、良いんだ。ありがとう、雛森くん。でもこれは、日番谷くんのところへ持っていこうと思ってね」
 突然湧いて出た幼なじみの名に、雛森は再度首を傾げた。
 「日番谷くんのところに、ですか?」
 「うん、書類提出も兼ねて」
 それくらいのこと私がします。一瞬、そう言おうか迷ったが、雛森は止めておいた。藍染がすることに間違いはない。きっと、何か他にも大事な用事があるのだろう。
 「お気をつけて行ってらしてください」
 「ああ、行ってくるよ。そうだ、折角だからこの桃色のは、雛森くんに」
 「わあ、ありがとうございます」
 雛森にピンクの紫陽花を手渡し、軽く手を振って出かける藍染を、雛森は少し寂しい思いに駆られながらも満面の笑みで送り出した。
 藍染が再びこの場所に戻ってくることを、雛森は誰よりも知っていた。だから、何処かへ旅立とうとも雛森は確かに少し寂しいけれど、決して不安ではなかった。
 (だって、藍染隊長は絶対戻ってくるもの。私たちの―――私のところに)
 扉から出る間際、藍染の手の中で手折られた紫陽花が頼りなく揺れた。
 紫陽花だって、好きになれた。




『幻想だよ、それは。彼女の。おとめの夢さ。まったく可愛らしいものじゃないか』
『いつまで君は愛なんかに現を抜かしているんだい?くだらない。そんな愛にしがみ付いて、辛抱する必要はない。それは気の迷いにすぎないのだから、プライドなど捨ててこちらにおいで。君を欠落させることはあっても充足させることはない愛なんて、どうして求めるんだい?本当の君はもっと冷たいはずだよ。その、君の刀のように』




 ピンクの紫陽花が、脳裏で揺れた。




 雛森が永い眠りから目覚めると、そこは四番隊の病室だった。
 白い天井は覚醒しきっていない頭に、妙に白く広く映った。雛森は現状がわからず瞬きをした。
 先程来た山本や浮竹や卯ノ花は、何と言っていたのだろう。
 「藍染隊長が、裏切るはずなんて、」
 血だらけの部屋。驚愕した様子の幼なじみ。死んだはずの想い人。柔らかい笑顔。激痛。
 (ない、)
 語尾は咽喉の奥で消え、声になることはなかった。じわりと涙が溢れ、白いばかりの視界が滲んだ。
 (…ああ、)
 絶望に掠れた吐息は込み上げた嗚咽に紛れて消えた。溢れ出た涙で前が見えない。
 (藍染隊長、)
 偽りの仮面を被った人を愛しただなんて、何て愚かしいことだろう。
 雛森はしゃくりあげながら、必死で尽きることのない涙を拭った。拭っても拭っても涙の止まることのない目許を擦った。
 (、ああ!)


 ピンクの紫陽花が、脳裏で揺れた。
 ピンク。元気な女性。おとめの夢。処女の、幻想。
 (それでも私は、藍染隊長のことを、)










>第四話「Alcoholic」へ


初掲載 2006年12月8日