第二話 肝心の人に媚薬の効果は(Chocoholic)


 焦げ茶色のそれに、口内にふんわりとした甘さが広がった。うっとりと目を細める。
 「幸せ。」
 チョコレートは神秘の甘味だと松本は思う。餡蜜も団子もフルーツも好きだが、チョコレートは一等好きだ。酒入りならなおのこと良い。
 松本の生きた時代に、チョコレートなんていう食べ物はなかった。鎖国の時代だ、あるわけない。今は溢れている砂糖ですら高級品で、武家や公家しか口に出来なかった。そもそも、食べ物自体が、貴重品だった。米どころではない。粟や野草を手にするのに、松本はどれだけ奔走したことだろう。
 幼かったとはいえ、身売りをしないまま清らかな身体で尺魂界の門を叩けたのは、奇跡的だったと松本は思う。だって、あの頃は身売りも盗みも間引きも当たり前のことだった。尺魂界に来てからもそれらをせずに済んだのは、偏に、松本を拾ってくれた市丸のお陰にすぎない。
 現在、日本は飽食の時代だ。好き嫌いを言ったり、有り余る食べ物は値段調整の関係で捨てたり。かつてからは考えられない時代になったものだと、松本は思う。勿論、餓死するよりは飽食の方がましだけれど。
 また一つ松本はチョコレートを口に含んだ。
 「ほんとうに美味しい。隊長も一つどうですか?新商品のオレンジピール入りですよ。」
 「…。そんな食ってばっかいると太るぞ。」
 「そんなことありません。私はまだまだナイスバディーですから。」
 松本と日番谷とではベクトルが違うとわかってはいるが、松本よりも誰よりも細く若く美しい、日番谷のような少年に言われると、流石に日番谷心酔者の松本でも少しだけカチンと来る。
 「体重だって体型だって変わらないし、にきびだってできてませんもん。」
 不満に尖った松本の唇を見て、日番谷が小さくではあるけれど声を立てて笑った。
 松本は驚きに目を見張った。日番谷が声に出して笑うなんて珍しいことだ。何かあったのだろうか。
 松本は再びチョコレートを一粒口に放り込んだ。
 「毎日毎日。本当。良くそれだけチョコ食ってて飽きねえな。」
 「一口にチョコレートっていっても、沢山種類がありますから。」
 具体的な商品名とそれに対する感想を挙げながら指折り数えていく松本に、日番谷は、今度は呆れたように頬肘をついた。
 「その記憶力を仕事に回せねえか?」
 「無理です。だって、チョコレートは私の生きがいですもん。隊長みたいに仕事が生きがい!ってほど私は仕事が好きなわけでもありませんし。」
 きっぱり答えた松本に日番谷が笑った。何となく、皮肉な笑みだと松本は思った。自嘲に近いかもしれない。それは、松本の仕事嫌い発言に対しての笑みではないようだった。
 さきほど声を立てて笑ったことと言い、今日は、本当に珍しい。
 「…隊長、何かあったんですか?」
 「あ、いや…。仕事、か。」
 日番谷の視線を追うと、出掛けにはなかったはずの紫陽花が在った。外から採ってきたばかりなのだろうか。紫陽花はしっとりと濡れていた。
 「それ、」
 「ああ、藍染が持ってきた。」
 「そうですか。藍染隊長が、」
 もう一粒。太るかしら、なんて先の日番谷の発言に危機感を抱きつつ、躊躇いながら、松本はチョコレートを口にした。
 「それ、隊長みたいな色ですね。」
 「あ?」
 「ところどころ、緑と青が混じってて。まるで翡翠みたいですよ。隊長の瞳の。」
 「…そうか。」
 誰が日番谷の心に巣食っているかなんて、松本にはわかっている。
 雛森。藍染。市丸。浮竹。
 そこに松本の姿はない。松本は常に傍にあるもので、日番谷の心の奥に仕舞われたり、しげしげと観察されたり、あるいは、監視されたり心配されたりするような存在ではないから。
 (それはそれでいいのよ。だって、この人の傍にあるのは私だけってことだし。)
 もう一粒。やけっぱちのように松本はチョコレートを食べる。
 甘さに蕩ける舌先は、とうとう痺れを切らして茶を所望していた。それを無視して、更にもう一粒。
 (チョコレートは媚薬だなんて誰が言い出したのかしら。隊長には全然効かないわ。)
 そんなことを思いながら。松本は誰よりも愛しい子供を、魅入らせる努力を口にする。










>第三話「Loveholic」へ


初掲載 2006年11月28日