第一話 五分咲きの少年(Workaholic)


 窓の外では雨が降っている。悴むような冷たさをもたらす雨に、日番谷は常より白くなった指先をすり合わせた。
 もう初夏になろうとしているのに、今年は驚くほど寒い。陽光が差さない日、とりわけ、今日のように雨が降る日には尚更気温が下がった。
 日番谷は氷雪系最強の氷輪丸を使役しているからといって、寒さに強い訳ではない。己の発生させた氷雪に対しては寒いなどと感じたことはなかったが、自然の寒さに対してはまた別である。
 「…寒ィ。」
 松本は居ない。誰にともなく独り言を呟き、すんと鼻を鳴らす。
 同時に、隊首室の扉を叩かれた。
 「日番谷くん、ちょっと良いかな。」
 「藍染か…?どうぞ。」
 「お邪魔するよ。」
 日番谷の承諾を得て入室した藍染は、ちらりと執務机の上に積み重ねられている書類を見た。既に8割方が処理済だ。今日明日の分はおろか、来週の案件にまで日番谷は目を通している。
 藍染は手に持っていた紫陽花を少し下げた。ぽたりと滴が床に滴り落ちる。
 この紫陽花は、この雨の中、採取してきたばかりなのだろうか。
 そんなことを思っていると、藍染が一枚書類を手渡してきた。期日も内容も、別段焦ることもない些細なものだ。何故、藍染が直々にこのような書類を持ってきたのかわからず、日番谷は首をかしげた。
 「日番谷くんは、ちょっと。仕事のしすぎなんじゃないかな。」
 「お前にだけは言われたくねえ。」
 藍染は困ったようにいつもの人の良い笑みを浮かべた。
 「ほら、僕は君みたいに働きたいんじゃなくて、働かされているだけだから。」
 予期せぬ藍染の返答に、日番谷は流麗な眉を顰めた。
 藍染といえば、日番谷に負けず劣らずのワーカーホリックと有名な隊長だ。自隊の状況を完全に把握できていないと気が済まない日番谷とは多少異なり、藍染は、瀞霊廷内を跨いでの仕事を好んで執り行ったが。
 「お前が好きで働いてんじゃないってんだったら、誰が一体自主的に働いてることになるんだ。」
 「まあ、そりゃあ僕だって好きなことは仕事だとは思わないけどね。現に、今はやりたいことがあるし。」
 「やりたいこと?瀞霊廷で、か?」
 ここ数ヶ月、藍染は以前にも増して瀞霊廷内全域に渡る仕事を受け持っている。瀞霊廷だけではない。尺魂界にかかわることに関しては、誰よりも情報を集めているように日番谷には思えた。
 日番谷が先を促したことに気付かなかったふりをして、藍染は笑った。
 「やっぱり君は働きすぎだよ。でも、それが丁度君には良いのかもね。」
 ぽたりとまた紫陽花の滴が垂れた。
 「…ああ。そうだこれ。うちの隊舎で取れた紫陽花。綺麗に咲いたからお裾分けしようと思ってね。」
 「ああ、すまない。」
 「綺麗な青だろう。まだ五分咲きで所々緑色だけれど、」
 藍染はその先の言葉を続けず、窓の外を見た。つられて日番谷も視線を外に向ける。
 外では相変わらず灰色の天から雨が降っている。
 「―――日番谷くんは、一人で生きていけてしまうことが、怖いのかい?」
 「何を突然。」
 本当に突然の言葉だった。
 「一人で生きていけるほど強いから、君は君をここに繋ぎとめてくれる枷になってくれるものを探しているんじゃないの?―――例えば、仕事とか。」
 日番谷は藍染を見た。だが、藍染が何を考えているのか、日番谷には爪の先程も読めなかった。いつもの笑みを浮かべている。
 誰にも言ったことはないけれど、日番谷は藍染のその笑みを、まるで能面のようだと思う。薄っぺらく、無機的で、虚構的だ。
 嘘なのだろうと思う。
 実質は、市丸が浮かべるものとさして変わらない。ただ、市丸がはっきりと笑みを偽りのものとしてわざとらしく浮かべるのに対し、藍染はとても巧みに張り付けるだけなのだ。
 日番谷は藍染から視線を逸らした。
 決してその笑みは嫌いではなかった。藍染への信用と疑惑との合間で揺れている日番谷の心は、いつだって信用寄りだった。
 だが、ここ数年は疑惑に傾き続けている。何が理由なのかは、日番谷も悟れていない。しかし、そういった不信感から、こういう状況下で与えられる笑みを日番谷が手放しに受け取れないことだけは事実だ。
 雛森ならば素直に喜ぶのだろうと思う。あの狂信的な瞳で一寸の迷いもなく。
 「一人で生きていけることは、決して悪いことじゃないよ。」
 視界の端で、また、ぽたりと滴が落ちた。
 透明なそれを、日番谷はまるで涙のようだと思った。










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初掲載 2006年11月27日