深夜未明ということもあり、人気の絶えた冬木海浜公園を一人の男が歩いていた。
対岸の夜景の光に照らされ、闇夜に浮かび上がる男は、人目を引かずにいられない豪奢な美貌の持ち主だった。ゆったりした歩調は傲慢さに満ちている。
男の名は、ギルガメッシュといった。不老不死以外の全てを手中に収めた古代ウルクの王、本来存在しえない8番目のサーヴァントだ。
第五次聖杯戦争の幕開けに、ギルガメッシュの心は躍っていた。どれだけこのときを心待ちにしたことか。
大聖杯が満ちるための10年という歳月は、薬により自我を殺して過ごしたとはいえ、ギルガメッシュを膿ませるのに十分すぎる時間だった。ギルガメッシュは心底辟易していた。言峰の助言により仕方なく正体を隠していたが、隠遁しなければならない生活など、本来ならば唾棄すべき事態だった。
だが、その生活も終わる。
今は、執行者から奪い取ったランサーに情報収集させているところだ。今回も、セイバーのような存在が召喚されれば良いが。ギルガメッシュは心持ち頬を緩めた。
いまだ情報の少ないサーヴァントたちだけでなく、昨日相対したマキリの小聖杯がどのような役割を果たすのかも、興の一部ではあった。あるいは、雑種共の屍の山か。前回のような視界一面の焼け野原も、一興かもしれなかった。
ギルガメッシュは退屈しのぎに手段を問わなかった。善も悪も、結果的に己を愉しませるのならば、厭わなかった。この世の全ては、ただ、王を愉しませるために存在しているのだ。
そのとき、突然、背後から伸びた手に口を塞がれ、ギルガメッシュは驚きに目を見開いた。
いかに警戒を怠っていたとはいえ、これほどの接近を許すなど、信じられなかった。一般人の攻撃とは到底思えなかったが、受肉したことでサーヴァントという枠組みから逸脱したギルガメッシュを、何も知らないサーヴァントが“サーヴァント”として認識できるとも思えない。
ギルガメッシュは好奇心に駆られて、自らを羽交い締めにする背後の存在を振り返った。
見たことのない男だった。サーヴァントだろう。白髪で浅黒い肌をしている。マスターの命に従っているとも思えず、単独行動のスキルを所有することから、今回の“アーチャー”と思われた。
はたして、相手をするだけの価値があるものか。
見事な急襲はそれなりに褒めてやっても良いが、王を拘束するという不敬は目に余る。ギルガメッシュは目を眇め、“王の財宝”を開け放とうとした。
その途端、腕を捻り上げられ、ギルガメッシュの口から呻き声が漏れた。男の手から放たれた鎖が、体にきつく巻きつく。
勢い良く地面へ引きずり倒されたギルガメッシュは、歯噛みした。どうやら、男も馬鹿ではないらしい。どういうわけか、事前に、男はギルガメッシュ対策を講じてきたようだ。
そのうえ、この鎖――“天の鎖”の劣化版ともいえる鎖は、神の血筋に真価を発揮する宝具らしく、ギルガメッシュの自由を奪った。自らの宝具の型落ちに捕らわれるという屈辱に、ギルガメッシュの余裕が崩れた。
全て見越しているらしい男が、くすりと笑った。男は拘束を解こうと無駄な足掻きをするギルガメッシュを地面へ押しつけ、純白のコートを強引に剥ぎ取った。力任せに服を引き千切られる痛みと恥辱に、ギルガメッシュの眦が紅く染まった。
欲しいものを手に入れるためなら手段を問わぬギルガメッシュには、男がこれからしようとしている行為が手に取るようにわかった。目的こそわからないが、男はギルガメッシュを凌辱しようとしているのだ。
この世の全ての愉悦を知ると豪語するギルガメッシュだ。無論、男を知らないわけではない。言峰と寝たことはないが、興じれば、氏素性問わず、どんな男にとて足を開いてみせた。
だが、見知らぬ男に強引に奪われるなど、ギルガメッシュのプライドが許さなかった。
ギルガメッシュは男を振り解こうと、必死に身じろいだ。しかし、二人の体格差がものを言った。“天の鎖”により力を奪われた今、痩身のギルガメッシュでは、男に太刀打ちできるはずもなかった。
曝け出された白い項に牙を立てて、男が嗤った。いつの間にか、男の手はギルガメッシュの口を離れ、秘められた肌を暴きたてる行為に移行している。
まるで全てを知りつくすかのような的確な動きに、ギルガメッシュの身体はあっさり火がついた。元来の享楽主義に加え、子供として暮らしていたためにこのような行為が久しぶりだったせいもあった。
ギルガメッシュは、こんなどこの雑種とも知れぬ男の手管に屈した自分が許せなかった。
「雑種風情が!殺してやる、殺してやる、殺してやる…ッ!」
うわ言のように繰り返し、殺意を滾らせて睨みつけるギルガメッシュを揺さぶりながら、男は満面の笑みを浮かべた。征服欲を満たされたもののそれとも違う、どこか皮肉な笑みだった。
「殺せるものならば、殺してみれば良い。」
「ほざくな、雑種がぁああ…ッ!」
男の指がギルガメッシュの頬を滑った。
指を差し込むものか。あるいは、唇を重ねようものならば、男の舌を噛み切ってやる。それくらいでサーヴァントが死ぬわけもないが、一矢報いることはできるだろう。
だが、男はギルガメッシュの意思を見抜いたかのように手を遠ざけると、もっともギルガメッシュが感じるところを後背から勢いよく突いた。
ギルガメッシュは嬌声をあげて、身を震わせた。あまりの鮮烈な快感に、産毛が総毛立った。触れられもしないくせにそそり立たせたものが冷たい石畳に擦れ、自覚する間もなく、劣情を迸らせていた。
熱が、中で弾けた。
ゆっくり弛緩していくギルガメッシュの身体から、男が身を引き剥がした。ぬるりと抜かれる動きに、つい腰が動いてしまう。
そんなギルガメッシュを嗤い、地面に放置したまま、男は乱れた外套を直した。
「貴様っ、必ず、殺してやるからな…ッ!」
「――では、そのときを心待ちにしていよう。」
現界していた男の肉体が、焦点を失っていく。ギルガメッシュは男が完全に霊体化するまで、男を睨みつけていた。
この世の全ては、ただ、王を愉しませるために存在しているのだ。
その理を構築する道具の一部が、王の矜持を傷つけるなど、決して許される行為ではなかった。あのサーヴァントには、死以上の絶望を味わわせねば、気が済まない。
己を戒める“天の鎖”の模造品を破壊すると、ギルガメッシュはよろめく脚で立ち上がった。
受肉したギルガメッシュには、男のように、霊体化して姿を眩ませるという手段を用いることができない。ギルガメッシュは仕方なしに破かれたコートを羽織ると、袂を掻き寄せて、ねぐらである冬木教会へと急いだ。
太腿を男の放ったものが伝い、ギルガメッシュは込み上げる激情に、奥歯を噛み締めた。
「必ずや、殺してやる。」
ギルガメッシュの言葉に、笑うように空気が震えた。
ギルガメッシュが推察したとおり、男は当代のアーチャーだった。あの“遠坂”の娘に仕えているらしい。
知名度もなく、純正の宝具すら持たない男が、三大騎士と謳われる“アーチャー”に属しているなど、笑い話でしかなかった。どうやら、“この世全ての悪”という呪いのせいで狂った大聖杯は、もはやまともな英霊すら選別出来ないようだった。
「どうした。お前が興味を持つなど、珍しいではないか。」
問いかけて来る言峰に、ギルガメッシュは舌打ちした。入浴で性交の痕跡を隠し、早朝のひとときを私室でくつろいでいる言峰へ探りを入れてみれば、さっそくこれだ。このように敏いところも気に入って、言峰とは契約を交わしたのだが、それも場合によりけりだった。
不遜な沈黙を守るギルガメッシュへ、言峰がソファへ深く身を預けた。その目は、面白がるように僅かに眇められている。ギルガメッシュは蔑視を向けた。いくら相手が愛でている言峰とはいえ、このような辱めを受ける云われはなかった。
言峰が肩を竦めてみせた。
「今日、穂群原学園で、ランサーが対峙している。曲がりなりにも、“アーチャー”だけのことはある。実力はあるようだ。」
「はっ、我ほどではない。」
「それはそうだろう。お前と同等の実力を有する英霊など、そうそういるものではない。」
ギルガメッシュは己の優位が揺らがないと知っていた。魔力的には申し分なかった遠坂前当主から、供給量に不満のある言峰に鞍替えしても、それは変わらない。ギルガメッシュは最強のサーヴァントなのだ。
言峰が口端を緩め、ギルガメッシュへ一瞥投げかけた。
今日は、言峰にとっても面白いことがあった。間違いなく、この事実はギルガメッシュの損なわれた機嫌を盛り返すことだろう。言峰はくぐもった笑い声を立てた。
「そうだ。お前があれだけ固執していた“セイバー”。彼女も、今回の戦争に召喚されているぞ。」
「セイバー…あの“セイバー”だと申すか。」
「そうだ。第四次聖杯戦争では、衛宮に使役されていた女の英霊だ。」
同じ英霊が同じクラスのサーヴァントとして召喚されるなど、イレギュラーな事態だ。これも、大聖杯が狂っている証拠だろう。
言峰の脳裏に、ギルガメッシュから手ほどきされた“愉悦”という言葉が過ぎった。興味を示すギルガメッシュへ、言峰は続けた。
「術者は、衛宮士郎…あの“衛宮”の生き残りだ。」
その晩、再び、ギルガメッシュは冬木海浜公園にいた。
今夜は昨晩と違い、煌々と月が地上を照らしていた。視界を遮るものもない。
ここで待っていれば、アーチャーが姿を見せるのではないかという憶測はあった。どうやら、当たりだったようだ。
「王よ、また抱かれに来たのか。」
「…ほざくなよ、下郎がっ!」
ギルガメッシュは唇を歪めて、眼前の男を睨みつけた。赤い外套をまとうその男は、ギルガメッシュから寄せられる殺気にも臆した様子はない。静けさに満ちた眼に一片の愛憎を宿して、ギルガメッシュを見つめていた。
どういうわけか、アーチャーはギルガメッシュに固執している。それは、ギルガメッシュにもわかった。だが、どうして、アーチャーがこれほどまでに己のことを知悉しているのか、ギルガメッシュには見当もつかなかった。
いや、一つだけ、ある可能性は見据えていた。それは、アーチャーが未来から来た英霊だという可能性だ。何かを為したというにはあまりに弱く、無名の、大聖杯が本来の機能を発揮していれば、呼ばれるはずのなかった存在。世界の守護者、反英雄とでも呼ぶべきか。それならば、知名度の恩恵を持たない説明がつく。
「この前は不覚をとったが、毎回勝手を許す我と思うなよ。」
ギルガメッシュは“王の財宝”を起動し、“黄金の京”へリンクした。
アーチャーの正体がわからない今、もっとも耐え難き苦痛を味わわせる手段も不明だ。だが、“黄金の京”には様々な宝具が眠っている。サーヴァント一体甚振るていど、ギルガメッシュにしてみれば造作もない話だ。最上の後悔を味わわせながら、嬲り殺してやるつもりだった。
しかし、最強のサーヴァントの逆鱗に触れてなお、アーチャーはどこか余裕を保っている。ギルガメッシュは、それが懸念ではあった。
月夜にずらりと宝具が浮かび上がった。世界中の全ての財がギルガメッシュの掌中にあった頃、収拾したあらゆる宝具の原型だ。
相手が神に属する存在であれば、“天の鎖”で拘束することも可能だっただろう。だが、ギルガメッシュの推察が正しく、アーチャーが未来から来た反英雄でしかないのならば、“天の鎖”は効力を発揮しえない。
まずは死なぬ程度に手傷を負わせてから、踏み躙るのが妥当だろう。
「我を凌辱しようなど、己が愚行を悔いるが良い!」
飛来する宝具を前に、アーチャーが不敵に唇を吊り上げた。固有結界が展開され、現出された宝具が宙へ術式を広げていく。
原型を有するギルガメッシュには、その宝具が何であるのか、一瞬にしてわかった。“熾天覆う七つの円冠”。飛び道具に対して最強の防御を誇る結界宝具だ。ギルガメッシュの攻撃に対して、相性は最悪だった。
怒涛の攻撃に、粉塵が舞った。粉砕された石畳が視界を遮る。
ギルガメッシュは舌打ちをこぼし、アーチャーの気配を探った。ギルガメッシュを知悉するアーチャーの一手だ。攻撃は防がれたものと考えるべきだろう。
では、次なる手は――。
乖離剣を出すべきだろうか。だが、たかが反英雄如きに最強の宝具を用いるなど、ギルガメッシュの高すぎるプライドが許さなかった。
一瞬の迷いが、勝敗を分けた。
走った衝撃に胸が詰まった。反撃に吹き飛び、地面を転がるギルガメッシュに、アーチャーが頬を緩めた。その手が、襟元にかかる。昨夜の前例がある以上、アーチャーの意図は明らかだった。
ギルガメッシュは為す術もなく、憤怒に咆哮した。
その叫びは誰の耳に届くこともなく、夜の闇に紛れた。
初掲載 2012年3月25日