/daydreams 第一話   ※死にネタ


 そこは、浮世の地獄だった。
 闇夜には火の粉が舞い、不気味に紅く光っていた。倒壊した建物の瓦礫からは黒炭と化した手足が姿を覗かせ、足元には首を落とされた遺体が転がっていた。
 沈黙、停滞、死。
 そんなものでは生ぬるい。そこにはこの世全ての悪があった。
 破壊、暴力、絶望。
 そこには、10年前に見た地獄が広がっていた――否、あれ以上の地獄が。
 正義の味方になりたかった。皆を救いたかった。皆、死んでいた。誰かを守りたかった。誰も守りきれなかった。
 漆黒と金色(こんじき)がぶつかり合った。
 色を失った金色の髪をなびかせて絶対的な暴力を振りかざす彼女に、かつての面影はない。つい数日前までは澄んだ空色をしていた瞳も、今は泥土のもたらす汚辱に塗れている。神の血筋に連なる至高の金色を前にした彼女は、汚らわしいだけでなく、薄汚れてさえ見えた。
 咽喉を震わせて、闇に呑まれた彼女の名を叫んだ。自分だけが知る、彼女の真名を。“この世全ての悪”の傀儡と化した彼女の“真実”を。
 これ以上、彼女を穢したくなかった。意に反した殺戮を犯させたくなかった。何より、救いたかった。それが皆を殺めた張本人だとしても、最後の彼女だけでも、救い上げたかった。
 正義の味方になりたかった。なりそこねたくなかった。
 彼女に罪を重ねさせないために契約を結んだ金色の手の中、集束された光が一振りの剣になる。紅い光をその身にまとう黒き剣は、世界を切裂く力すら秘めているという。理性を失った彼女が操る宝具“約束された勝利の剣”に勝る唯一の宝具だ。
 分かたれた三枚の刃が空気を震わせ、仄暗かった空は閃光で満たされた。天地乖離す開闢の星。暴走した彼女を止める最後の希望。咆哮を上げて、彼女が大地を蹴った。
 一閃。
 凄まじい剣戟に、世界が弾けた。
 絶望に差す一条の希望に、目を眩ませていた。




 いつも絶望で息が詰まって目が覚める。
 衛宮士郎にとって、それは慣れ親しんだ夢だった。闇に呑まれたセイバーが冬木を滅ぼす夢。遠坂凛を、間桐桜を、学友を、何よりセイバーを、救えなかった過去の再現だ。
 衛宮は13年経った今なお苛まれ続けている自分に自嘲の笑みを浮かべると、ベッドから抜け出た。深い絶望から白髪になり、固有結界の反動によって肌の色すら変質した今の衛宮に、かつての面影を見つけることは難しい。
 あれから、実に13年もの月日が流れていた。ちょうど今日で13年目だ。あれ以来、衛宮が冬木に帰ったことはない。
 カーテンの隙間から、薄紫の空が覗いていた。常に霧が立ち込め、降雨することも多いロンドンにしては珍しく、今日は晴れるらしい。
 寝乱れたシーツに埋もれて、ギルガメッシュは夢にまどろんでいる。白い首には赤い鬱血の跡がある。衛宮が付けたものだった。夜型の彼が目覚めるのは、10時頃だろう。昨夜は無理をさせた自覚もある。起床は、正午を回るかもしれない。
 衛宮はギルガメッシュの黄金の髪を優しく撫でつけると、脂汗で濡れたシャツを脱ぎ捨て、トレーニングウェアに着替えた。フリーランスの魔術師として頂点を極めた今でも、鍛練を欠かした日はない。衛宮は力を求めていた。あの日手に出来なかった、全てを守りきるだけの力が欲しかった。
 今でも、思うことがあった。あのとき、自分がギルガメッシュに十分魔力供給を施せていたら、結果は変わったのだろうか、と。
 無論、答えは一つしかない。
 あの日、ギルガメッシュはセイバーに敗れた。最強のサーヴァントと名高いギルガメッシュが、闇に冒され格の落ちるセイバーに負けたのだ。結果が全てを物語っていた。
 どう足掻いたところで、不完全な魔術師であった当時の衛宮には、十分な魔力供給が施せない。
 それが現実だった。


 その日、衛宮は珍しく魔術協会の本部である時計塔へ足を運んだ。
 衛宮が魔術協会を訪れることは滅多にない。
 基本フリーランスだが、聖堂教会では手に余る処刑を請け負うのが、衛宮の主な仕事だ。和解を結んだとはいえ魔術協会と冷戦状態にある聖堂教会の仕事を請け負う衛宮に、反感を覚える者も多く、衛宮もそんな魔術協会側と極力距離を置くよう努めて来た。
 元より、大義のために、聖杯戦争という実験を看過した魔術協会を、衛宮が許せるはずもない。
 3年前の大聖杯を巡る戦いで、解体を望むロード・エルメロイU世に味方した衛宮は、大聖杯の再生を目論んだ魔術協会から今や敵と認識されているに違いなかった。
 10年前に習得出来るだけの技術を全て学んでから立ち去った時計塔は、閑散としていた。
 かつては栄光を極めた魔術協会も、ここ数年は零落の一途を辿っている。23年前の第四次聖杯戦争で名だたる家を、13年前の大虐殺で残りの主たる魔術師を失ったせいだ。
 世界的にマイナーとされる聖杯戦争も、参加者は世界屈指の実力者揃いだった。一子相伝である名家の魔術刻印の喪失は、魔術師自体の質の低下に繋がる。それが、魔術協会の衰退へ拍車をかけていた。
 今では二極化が進み、魔術協会には、血筋を嵩に着る魔術師か、かつての衛宮のように不完全な魔術回路を持つ魔術師しか存在しない。
 余所余所しく空虚な空気に吐き気を覚えながらも受付を済ませた衛宮は、許可証を手に、地下の閉架書庫へ向かった。ロード・エルメロイU世によれば、そこには、聖杯戦争やサーヴァントシステムに関する記録があるという。第五次聖杯戦争の当事者として、衛宮はそれを読んでおきたかった。
 どうすれば、ギルガメッシュへ十分魔力供給を施せたのか。
 どうすれば、皆を、セイバーを救えたのか。
 どうすれば、あの結果は変わりえたのか。
 いまだ悪夢に魘され続ける衛宮は、どうしてもそれを知らなければならなかった。
 万が一にも禁忌を知ることのないようにという協会側の配慮だろう。衛宮は盲目の魔術師へ許可証を提示して、幾重にも施された封印を解かせると、秘められた書庫の扉を開けた。無論、警戒は怠らない。ここは敵対勢力の深層なのだ。
 侵入者避けの罠をすり抜けて、衛宮は奥を目指した。管理人の言葉を額面通り信じて良いのであれば、この許可証が書物を開く鍵だという話だ。衛宮はクノッソス宮殿のように円を描いて広がる地下迷宮を下っていった。
 目的の書物は、最下層にあった。所持する許可証に共鳴し、対応する書物が青白く光る。ようやく辿り着いた救いに、衛宮は咽喉を鳴らした。
 ここに至るまでの道は長く、険しかった。秘密主義で情報の開示を拒む協会に有無を言わせぬだけの実力を伴うことが、前提条件だった。どうすればあの惨劇が避けられたのか、今こそわかるのだ。
 衛宮は震える手で書物を掴むと、ページを捲り始めた。
 それは、ある魔術師の記録簿だった。
 遠坂、マキリ、アインツベルン。聖杯戦争はこれら“始まりの御三家”によって基礎が作られたという。おそらく、この記録簿はシステムを担当したアインツベルンによるものだろう。
 ところどころ走り書きが書き込まれた書物を、衛宮は読み進めた。
 『実験は失敗に終わった。サーヴァントの暴走、マスターの認識不足および殺し合いなど失敗した原因を挙げればきりがないが、ルールを策定しなかったところによるものが大きい。今回は、初回ということもあり反省点の多い結果となった。次に聖杯が満ちるのは、六十年後だ。次回の実験を私が目にすることは難しいだろう。周期の長さが悔やまれるが、冬木の魔力を枯渇させるわけにもいかない。』
 時が移るにつれ、文字は遍歴を遂げていた。書き手が変わっているのだ。
 『二回目の実験となる。今回は前回の失敗を踏まえ、細部にわたるルールの策定の他、マキリの協力を仰ぎ、サーヴァントを隷属させるための令呪も完成させた。本来、世界の根源に至るため実験に必要とするものはサーヴァントの死、すなわち小聖杯への魂の保管だ。令呪が完成した今、サーヴァントへ死を命じれば小聖杯は満ちるが、勝者の願望を叶えるという性質上、マスター同士は相争わずにいられないだろう。そのため、三家で話し合った末、殺し合いという方式を取ることした。野蛮な方法だが、仕方ない。』
 『二回目の実験も失敗に終わった。何が拙かったのだろう。前回とは異なり、“聖杯戦争”としての形を為していたはずだ。遠坂の力を借りて揉み消したが、サーヴァントへの魔力供給のために虐殺が起こったのも遺憾だ。サーヴァントへの魔力供給に問題が残るのは事実だが、そのために失敗したとは考えにくい。次に大聖杯が満ちるのは、六十年後。そのときまでに、問題を除去しなければならない。』
 『パスが円滑に働かない場合、サーヴァントへの魔力供給に支障が出ることがわかった。また、大量の魔力消費を必要とする場合、パスだけでは、意識内で供給できる魔力量に制限されてしまう。この問題を解決するために、魔術師の体液を媒介とする魔力供給が行われた。一番適しているのは、性交だろう。もっとも、サーヴァントに補給できる魔力はその魔術師の蓄積量に限られる。根源に至るため、魔力供給のための市民の殺戮はやむを得ないものとして黙認するしかない。』
 大源より吸収された魔力は、体内から排出されると気化してしまうが、体液には留まりやすい性質にある。魔力供給にセックスが適しているのは、無駄なく魔術師の体液をサーヴァントへ与えるという目的に則しているからだ。
 それは、衛宮も知っていた。衛宮がギルガメッシュを抱いた発端は、魔力供給を円滑に済ませるためにあったのだ。どうしても、穢れ堕ちたセイバーを救いたかった。
 衛宮の決断をギルガメッシュは拒まなかった。ギルガメッシュもまた、セイバーを救いたかったのだろう。
 初めて抱いた身体は、血の香りがした。
 肉欲の何たるかも知らず生きる衛宮に興を覚えたのだろう。第五次聖杯戦争が終結して、一緒に過ごすようになってから、ギルガメッシュは進んで衛宮を誘うようになった。“この世全ての悪”によって受肉し、単独行動スキルも有するがゆえに、さして魔力供給が必要でないときにも、である。
 衛宮にとってギルガメッシュを抱くことは、セイバーを喪失した痛みを忘れ、自分にはギルガメッシュがいるのだと再確認する行為だった。あの日全てを失くした衛宮には、もはやギルガメッシュしか守るべきものがなかった。同時に、言峰を亡くしたギルガメッシュにも、衛宮しかいなかった。
 共に過ごすようになってから、13年が経っていた。それは、ギルガメッシュが言峰と過ごした月日よりも長い。
 ギルガメッシュの助言で威厳を持つために、主語を「私」に変え、口調も均し、聖骸布もまとうようになった。いつしか、傷の舐め合いに過ぎなかった行為は歪な愛を伴うようになっていた。今では隣にギルガメッシュがいるのが“当たり前”になっている。
 今や、衛宮にとって、ギルガメッシュはなくてはならない存在だった。
 衛宮はギルガメッシュに贈られた一級品の腕時計を一瞥した。そろそろギルガメッシュが起きる頃だろう。衛宮は例年同様、今日という日をギルガメッシュと過ごしたかった。だが、今日だからこそ、衛宮はあの日どうすべきだったのか、知らなければならなかった。
 衛宮はページを捲った。
 記述は、聖杯が汚染されたと推測される第三次聖杯戦争に言及していた。
 『第三次聖杯戦争。帝国陸軍およびナチスの介入により、小聖杯が欠損。失敗に終わる。この反省を踏まえ、次回は無機ではなく有機の小聖杯を検討。』
 『第四次聖杯戦争が始まる。御三家のひとつである遠坂が、英雄王の召喚に成功した。まず間違いなく、最強に挙げられるサーヴァントだろう。土地・知名度に申し分なく、マスターの魔力も大きい。たとえマスターの魔力が不足したとしても、“アーチャー”の単独行動スキルと桁違いの威力を発揮する宝具が勝利を可能にするはずだ。最強のサーヴァントである英雄王は、マスターのバックアップさえ必要としない。これは特異なことだ。小聖杯はホムンクルスを用意した。サーヴァントの魂を補完するためのキャパシティにまだ問題が残るが、欠損した場合の代用品および限定機能を備えた魔術礼装の作成で解決とする。今回こそ、根源へ至る道が開かれることを願う。』
 衛宮の手が止まった。
 これは第四次聖杯戦争の記述だ。ここに記されているアーチャーとは、ギルガメッシュを指すのだろう。
 まるで魂を喪失したように、衛宮は立ち尽くすしかなかった。提示された事実を上手く呑み込めなかった。何かが間違っているのではないか。これは魔術協会の罠なのではないか。衛宮の絶望を取り除く様々な憶測が脳裏を翻ったが、眼前に示された解説以外の全てに何かしらの矛盾が存在していた。
 衛宮は一点を凝視していた。
 『たとえマスターの魔力が不足したとしても、“アーチャー”の単独行動スキルと桁違いの威力を発揮する宝具が勝利を可能にするはずだ。最強のサーヴァントである英雄王は、マスターのバックアップさえ必要としない。これは特異なことだ。』
 これまでの13年間、衛宮は力を求めてきた。あの日手に出来なかった、全てを守りきるだけの力が欲しかった。
 今でも、思うことがあった。あのとき、自分がギルガメッシュに十分魔力供給を施せていたら、結果は変わったのだろうか、と。
 無論、答えは一つしかない。
 あの日、ギルガメッシュはセイバーに敗れた。最強のサーヴァントと名高いギルガメッシュが、闇に冒され格の落ちるセイバーに負けたのだ。結果が全てを物語っていた。
 どう足掻いたところで、不完全な魔術師であった当時の衛宮には、十分な魔力供給が施せない。
 それが現実だった。
 その“現実”が、崩れ去ろうとしていた。


 まるで朝の好天が嘘のように、空には暗雲が立ち込めていた。吹き荒ぶ風は冷たい。嵐になりそうだ。衛宮は無言で帰路を急いだ。
 閉架で時間いっぱいまで、衛宮は“現実”を拒む理由を探した。何度も件の箇所を読み返した。これまで自分が培ってきた知識に照らし合わせ、矛盾がないか確認してみた。
 衛宮はギルガメッシュを信じたかった。信じようとした。だが、“現実”は否定しがたく、全てが“現実”を肯定していた。ギルガメッシュを信じようとする全ての努力が水泡に帰していた。
 そこは、浮世の地獄だった。
 闇夜には火の粉が舞い、不気味に紅く光っていた。倒壊した建物の瓦礫からは黒炭と化した手足が姿を覗かせ、足元には首を落とされた遺体が転がっていた。
 沈黙、停滞、死。
 そんなものでは生ぬるい。そこにはこの世全ての悪があった。
 破壊、暴力、絶望。
 そこには、23年前に見た地獄が広がっていた――否、あれ以上の地獄が。
 正義の味方になりたかった。皆を救いたかった。皆、死んでいた。誰かを守りたかった。誰も守りきれなかった。
 これ以上、彼女を穢したくなかった。意に反した殺戮を犯させたくなかった。何より、救いたかった。それが皆を殺めた張本人だとしても、最後の彼女だけでも、救い上げたかった。
 正義の味方になりたかった。なりそこねたくなかった。
 絶望に差す一条の希望に、目を眩ませていた。
 誰もが死んだ。遠坂凛も、間桐桜も、学友も、セイバーも、誰も救えなかった。皆死んでいった。
 本来ならば、遠い昔に気づいてしかるべきだった。
 何故、他の誰もが死んだのに、自分とギルガメッシュだけ生き延びているのだろう。何故、死んでいないのだろう。
 結果が全てを物語っていた。
 雨粒が頬にあたり、伝い落ちていった。とうとう振り出した雨に、衛宮は唇を噛んだ。豪雨が全てを洗い流してくれたら、記憶を消してくれたら。
 いつの間にか衛宮は嗤っていた。
 一縷の望みに縋りついて、どうする。自分がどうしようもなく無様だった。


 無言で帰宅した衛宮に、ソファに寝そべりワイングラスを傾けていたギルガメッシュは、訝るように口端を持ち上げた。
 「遅かったな。今日という日に貴様が外出を選ぶとは、珍しい。」
 ギルガメッシュが目を眇め、衛宮の外出の目的を探ろうとしてくる。これまでの13年間、この日を共に過ごし続けたギルガメッシュにも、衛宮の外出が異例だとわかっているのだ。
 カットソーをだらしなく着込んでなお美しい英霊に、衛宮は顔を歪めた。豪雨の中を歩いたせいで、全身濡れていたが、まったく気にならなかった。
 今はただ、“現実”が知りたかった。
 「…ギルガメッシュ、真実を教えてくれ。」
 「何だ。言ってみろ。」
 「あのとき、本当は、セイバーを救えたのか?」
 ぴくりとワイングラスを握る手が動いた。無言のまま、ギルガメッシュは衛宮へ一瞥を投げかけた。底冷えするような蔑視は、相手にする価値もないと雄弁に告げている。
 衛宮は咽喉を震わせた。推測は正しかった。今まで信じ込んで来た“現実”は、“現実”ではなかったのだ。
 「何故、どうして…っ!お前はセイバーが好きだったんじゃないのか!?だから、私に…っ!」
 「何ゆえ我が闇に呑まれ劣化した存在を受け入れねばならん。戯言も大概にしたらどうだ。」
 ギルガメッシュは吐き捨てると、ワイングラスを揺らした。
 「言峰は、さような些事で我を退屈させなかった。」
 もう話は終わりだと告げる態度に、衛宮の視界は怒りで赤く染まった。
 あの日全てを失くした衛宮には、もはやギルガメッシュしか守るべきものがなかった。同時に、言峰を亡くしたギルガメッシュにも、衛宮しかいなかった。
 共に過ごすようになってから、13年が経っていた。それは、ギルガメッシュが言峰と過ごした月日よりも長い。
 ギルガメッシュの助言で威厳を持つために、主語を「私」に変え、口調も均し、聖骸布もまとうようになった。いつしか、傷の舐め合いに過ぎなかった行為は歪な愛を伴うようになっていた。今や、衛宮にとって、ギルガメッシュはなくてはならない存在だった。
 だが、ギルガメッシュにとっては、衛宮など所詮言峰の劣化版にすぎないのかもしれない。主語を「私」に変えさせ、口調も均し、外套を纏うよう助言したのも全て、あの日衛宮によって喪失された言峰を再生させるための一環でしかないのかもしれなかった。
 それはあまりに、残酷な真実だった。
 考えるより先に、身体が動いていた。落ちたワイングラスが澄んだ音を立てて割れた。
 急に押し倒されたギルガメッシュが、一瞬、息を詰まらせる。そのまま、衛宮はギルガメッシュの細い首を締めあげた。まるでこれから流される血を暗示するように、紅いワインが床へ広がっていった。
 「お前なんかっ、お前なんか、殺してやる!」
 全体重をかけて首を絞める衛宮に、ギルガメッシュは不敵に嗤った。ギルガメッシュにしてみれば、目をかけてきた小姓が勘癪を起した程度の話なのだろう。自分はその程度にしか思われてないのだ。余裕を崩さないギルガメッシュに、終ぞ抱いたことのない強烈な憎悪が込み上げてきた。
 ギルガメッシュが鼻先で嗤った。
 「ほざくな、雑種が。救うためだけに剣を振るってきた貴様が、我を傷つけるために拳を振るえるものならば、振るってみせれば良い。」
 目を大きく見開いた衛宮の指から、ゆっくりと力が抜けていった。
 衛宮は屈辱と絶望に唇を震わせた。正しく、ギルガメッシュの言うとおりだった。
 「くそ、くそ、くそ!だったら、どうすれば良かったんだ!どうすれば、あのとき、皆を救えたんだ!私は、私は―――…!!」
 ただ、皆を守りたかっただけなのに、正義の味方になりたかっただけなのに。
 床へうずくまり、子供のように泣きじゃくる衛宮の背へ、ギルガメッシュが身をもたれかけてきた。あやすように首へ回された腕は、こんなときでも肉欲のもたらす甘さに満ちている。悔恨の涙をこぼす衛宮の耳元へ、ギルガメッシュが囁いた。
 「可哀そうに、全てを忘れたいのであろう。」
 白い指が衛宮の褐色の肌を滑り、金糸が首筋を掠めた。ギルガメッシュは衛宮の肩へ顔を埋めて、小さく嗤った。
 「良い。我が、全てを忘れさせてやる。」
 決して屈してはならない、悪魔の囁きだった。だが、何よりも、今はそれが救いに思えた。
 衛宮にはギルガメッシュが必要だった。遠坂凛を、間桐桜を、学友を、セイバーを――全てを失った衛宮には、もはやギルガメッシュしかいなかった。守るべき存在は。
 衛宮が正義の味方であるためには、ギルガメッシュが必要だった。
 衛宮は体を反転させると、荒々しくギルガメッシュを床へ押し倒し、いつになく乱暴にその肢体を暴いた。細首へ歯を立て、いくつも痣を作り、性急に、激しく嬲った。
 しかし、それすらも王にとっては戯れにすぎないのだろう。ギルガメッシュは覆いかぶさる衛宮の下で、楽しそうに笑い声を上げ続けていた。
 まるで、あの惨劇のような、悪夢のような夜だった。


 翌朝、衛宮が目覚めると、ギルガメッシュの姿は消えていた。
 衛宮は全ての部屋を探した。だが、どこにもギルガメッシュの姿はなかった。キッチン、リビング、寝室、書庫、浴室。もぬけの殻だった。
 衛宮は“強化”した腕を振りかざし、本棚を薙ぎ払った。呑みかけのまま残されたワインボトルを殴り、壁へ叩きつけた。
 確かに、衛宮がギルガメッシュを抱いた発端は、魔力供給を円滑に済ませるためだった。どうしても、穢れ堕ちたセイバーを救いたかった。
 衛宮にとってギルガメッシュを抱くことは、セイバーを喪失した痛みを忘れ、自分にはギルガメッシュがいるのだと再確認する行為だった。あの日全てを失くした衛宮には、もはやギルガメッシュしか守るべきものがなかった。
 共に過ごすようになってから、13年が経っていた。それは、ギルガメッシュが言峰と過ごした月日よりも長い。
 いつしか、傷の舐め合いに過ぎなかった行為は歪な愛を伴うようになっていた。今では隣にギルガメッシュがいるのが“当たり前”になっていた。
 衛宮にとって、ギルガメッシュはなくてはならない存在になっていた。
 室内を破壊し尽くした衛宮は、手首の腕時計を引き千切ると、“投影”した干将・莫耶で切り裂いた。ギルガメッシュに贈られた時計は、二つに分かたれて床へ落ちた。初めて、ギルガメッシュから贈られた品だった。年若い衛宮が少しでも貫禄を帯びるようにと、初めて、与えられた品だった。
 あらん限りの声で、衛宮は慟哭した。
 正義の味方になりたかった。皆を救いたかった。皆、死んでいた。誰かを守りたかった。誰も守りきれなかった。
 正義の味方になりたかった。なりそこねたくなかった。




 絶望に差した金色の光に、目を眩ませていた。











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初掲載 2012年3月25日