雷が閃いた。光はばりばりと音を立て、巨木を切裂く。
その瞬間、封印に亀裂が生じ、閃光が生まれた。ノアの時代から存在し、ユグドラシルと呼ばれることもある巨木から、微かに煙のようなものが二つ立ちのぼる。漆黒と純白のそれは、やがておぼろげに人の形を模すと、近隣の民家へ向かった。
荒涼な大地は農作物で満ち、人工の光があちこちで瞬いていた。ともすれば、気が狂いそうなほどの発展。
漆黒の影の知っていた頃から、時代は移り変っていた。はたして、あれから何百世紀のときが流れたのか。封印の余波で、時間を操る能力を失った漆黒の影に確認する術はない。影は嘆息した。
辿り着いた民家の窓から見える光景に、漆黒の影が独りごちる。
『ふぅん、数百世紀経っても、キスのやり方は変わらないんだな。』
荒々しく抱擁されたことを思い返して、影は忍び笑いを漏らした。
今にして思えば、あれは一種の意趣返しと言えるだろう。影のもたらす肉の悦びを知った男は、それから、影なしでは生きていけない身体になってしまった。
『キスは良い。すぐ男は…騙される。』
散々に嬲り、尽くさせ、もて遊んだ昔を偲んだ影の唇を、ぺろりと紅い舌が翻る。やけに扇情的な漆黒の影の行動に、純白の影は呆れた視線を向けた。純白の影は、漆黒の影の魅力をもってしても、男を堕落させきることが出来なかったことを知っていた。だからこそ、あの巨木に数百世紀も封じられる羽目に陥ったのだ。
そういえば、封じられる間際、漆黒の影は男に呪いをかけていたようだった。
純白の影に問われ、窓から身を翻そうとした影は、肩の辺りを竦めた。
『ああ、私があいつにかけた呪い?結婚相手との相性が最悪なんだ。あいつは、誰よりも人間としての幸せを掴みたがっていただろう?しかも、私の味を忘れられないままで。』
漆黒の影は、あの忌々しい創生の樹に封じられた瞬間を思って、舌打ちをこぼした。
元々はただの敬虔な人間でしかなかった男を目にかけ、神の代理人として、神の右に坐す大天使である自分をも上回る力を与えたのは、かつて「神」と呼ばれた純白の影だった。漆黒の影は、その傍らで、永遠を約束された存在だった。
男が恩を仇で返すあの日までは。
『勿論、全ての男にとって結婚は不幸なことだ。お前が原初の人間を天から追い出したとき、私がそうなるよう、種をまき、仕向けたのだからね。』
封じられた当時の怒りをぶり返し、微かに明滅を繰り返しながら燻ぶる我が子に、神は笑いながら指摘した。
『だが、一番不幸なことは、恋した相手と結婚できないことじゃないかな。』
ぱっと影の目が輝く。
『じゃあ、私に恋したらどうだ?どうあがいたところで、私とは結婚できないからね。だって、私にはあいつと結婚する気が微塵もない。だが、あいつの魂の根底には、払拭しえない私の肢体への渇望と、それがもたらす快感の記憶が残されている。』
得物を甚振る子猫の残酷さで、影は楽しげに笑いながら、くるくると宙を舞った。
『ふっへへ、近くにあるものに手が届かず歯軋りさせるなんて…、楽しみでたまらないな!』
イーノックが女に出逢ったのは、燃え盛るホテルでの出来事だった。
選挙の都合で地方へ巡礼していたイーノックは、降ってわいた災難に顔をしかめながら廊下を走っていた。充満し始める煙にハンカチを口に当て、階下へと急ぐ。
場違いな歓声が耳に届いたのは、そのときのことだった。その声は、一時感極まってはしゃいだかと思うと、すぐさま、困惑交じりの咳にとって変わった。
逃げ遅れた者がいるのだ。元来人が良いイーノックは、声の主を見捨てることも出来ず、発生源へと向かった。
そこには、見たこともないような麗しい女がベッドに顔を押し当て、咳き込んでいた。烏の濡れ羽色の髪を細くくびれた腰まで垂らした――全裸の美女。
イーノックは一瞬、声をかけることも忘れ、ぽかんと立ち尽くした。
小説やドラマの中で頻繁に用いられる言葉を使っても良いのならば、それは、「一目惚れ」という現象に一番近かった。胸が苦しくなり、女の寵愛を勝ち得るためならば何をしても構わないとさえ思えた。煙に咽て正気に返らなければ、イーノックはいつまでも女を見詰めていたことだろう。
煙に潤んだ女の真紅の目が、イーノックを射抜いた。艶めく唇が笑みの形に歪む。女は優雅に立ち上がると、イーノックへ白い手を差し出した。
「お前を待っていたんだ。そう、手を取って。」
言われるままに、ほっそりした手を取る。骨ばったイーノックの指へ己の白魚のような指を絡めた女は、眉をひそめ、不満そうに呟いた。
「…思ったより、背が低いな。前は私の方が高かったのに、今の私ときたら、視線がお前の心臓の高さだ。」
些か、イーノックは不安になった。美しすぎる見目に惑わされそうになるが、この美女、言動がおかしい。頭は大丈夫だろうか。
「大丈夫か?頭をぶつけたのか?」
思わず問いかけるイーノックに、女が交差させた指を更に強く絡め、色気を強調するように乳房を突き出した。
「大丈夫だ、問題ない。ふっへへ、お前の手が触れただけさ。」
「そうか…、会えて良かった。」
これ以上は、目の毒だ。イーノックは女の色香にくらくらする頭を宥め、使用された形跡のないベッドからシーツを剥ぎ取ると、女の身体を包んで腕に抱きかかえた。女が歓声を上げ、イーノックの首へ腕を絡めると、音を立ててキスをする。ただそれだけのことでずくんと股間に走った悩ましい痛みに、イーノックは気付かない振りをして、走り続けた。
長い睫毛を瞬かせて、女がイーノックの横顔を満悦そうに見上げている。その眼差しを、いつまでも自分だけに向けさせていたいという熱望が、イーノックの中で沸き起こった。しかし、実際にはそれがどれだけ困難なことか、理解している。
ホテルから脱出し、必死に消火活動を試みる消防隊に女を引き渡すまでの束の間の時間、イーノックは己が童話の白馬の王子になった気がした。
だが、実際は、王子どころか侍従扱いだ。
「送らなくて結構よ。たまには私を喜ばす努力をしたら?」
不機嫌な婚約者の発言に、イーノックは困ったように笑った。気を抜くと、顔が強張りそうになる。だが、ここは耐えなければ。婚約者は、イーノックの知事選当確を後押しする大企業の令嬢だった。そんな彼女も、今日の午後には妻になる。
かつて、こんなイーノックにも、愛する女性と添い遂げる夢を見た時期はあった。しかし、イーノックは女難で知られている家系の出だ。父が亡くなり、その跡を継ぐことが確定した時点で、そんな夢のような結婚は諦めざるを得なかった。一つは、名声ある家柄の跡継ぎゆえに、もう一つは、それが逃れられない運命だと悟ったゆえに。
婚約者を車まで見送り、自室へ下がろうとしたイーノックは、屋敷内の光景に目を丸くした。
一体、使用人たちは何をしているのだろう。そんな屋敷の警備で大丈夫か。問題だ。
「おかえり、ダーリン。」
あの美女が、きちんと服を着た状態で、階段の手すりに頬杖をつき、嫣然と微笑んでいた。イーノックは眉をひそめ、警戒心も顕に、美女を問い質した。
「…あなたは。ここへはどうやって?」
「きっと信じないと思うが。さあ、手を取ってくれないか。」
子供のように両手を広げ、女がにっこり微笑む。その美貌とちぐはぐな愛らしい所作に、熱っぽく抱き締めてやりたくなる。イーノックは歯を食いしばって、堪えた。
これは絶対、血筋の為せる災いに違いない。それとも、政敵が送り込んだ刺客だろうか。
なんにせよ、吉兆のはずがない。
「握手してお別れだ。」
屋敷の外へ連れ出すため、女の手を取った瞬間、触れたところが熱を宿して疼いた。
そこではたと、イーノックは女の名前すら知らないことに気付いた。階段の踊り場に飾られてある一族の肖像画を見詰める女に、名を問おうとして、考えを改める。女のことをこれ以上知れば、なおのこと、深みにはまる気がしてならなかった。
イーノックの熱視線に気付いた女が、花のような笑みを浮かべる。眼下で、女のたわわに実った形良い乳房と艶やかな紅い唇が誘いをかけている。ごくりと咽喉が鳴る。女に対する緊張と熱望に、知らぬ間に、口内が乾いていた。
イーノックは自らを叱咤して、濃密な空気を邪魔した。
「この絵画が気になるのだろうか。私の祖先とされるエノク書のエノクだ…もっとも、眉唾だが。」
意図を反らされたことを承知の上で、女が軽やかに笑う。
「知っているとも、彼の方が愛想は良かった。」
つと頬に伸ばされそうになる手をかわし、イーノックは女の手を引いて歩き出した。当然、行き先は、玄関だ。一刻も早く女の誘惑を断ち切りたいと願い、自然足早になるイーノックに引き摺られるようにして、女が笑い続ける。それはひどく癇に障ると同時に強く惹きつけられ、悩まされる色香に満ちた笑声だった。
「怒った顔も好きだな。どこへ連れて行く気だ?ふっへへ、ベッドか?」
「…外だ。」
女の言う通りにしろと本能が声を荒げている。だが、イーノックは理性に従い、女を屋敷の外へ締め出した。背後から、物乞いのように戸を叩く音と、女が自分の名を呼ぶ声が届いた。
イーノックは逃げるようにして今度こそ自室へ下がり、再び、予想外の出来事に目を丸くした。寝室のダブルベッドに、女が長い足を組んで腰かけていた。
「ドアを閉めてくれないか、イーノック。」
呆然と立ち尽くすイーノックへ、苛立たしそうに女が扉を指し示す。
「ドアを閉めろと言ったんだ。」
何故か抗う気を喪失させる女の命令口調に、一も二もなく、イーノックは従った。良く出来たな、と今にもペットを褒めそうな飼い主の面持ちで、女が微笑みながら手招きする。ぎしりとベッドを軋ませて片膝をつけば、女が目を輝かせてイーノックの腰に縋った。
「さあ、おいで…私と戯れよう。ふふ、今日は女の気分だな。」
たおやかな手に撫でられた股間が途端に、重みを増した。スーツを下から押し上げるそれに、女が舌なめずりする。そのままファスナーを下ろされそうになり、イーノックは慌てて身を引いた。
「そんなことが出来るはずがないだろう。大体、あなたはどこから忍び込んだんだ。」
「ふっへへ、愚問だな。私はいつだって、いたい場所にいるのさ。」
女の指がファスナーにかかる。諦めの悪い女の魔の手を避けて、イーノックは呻いた。
「そういうことか…あの火事であなたを助けた、だからだな?あなたはのぼせた気持ちを、恋だと勘違いしている。大体、私は、あなたに恋していないぞ!」
女がいぶかしむように眼を瞬かせ、先を促した。まるで教師に回答を迫られる生徒の気分だ。イーノックは額に汗を浮かべながら、口を動かした。
「愛はロマンチックな出会いにあるものじゃない。愛は長いときを経て作られるものだ。」
「だから、お前は私を愛していないというんだな?出逢って間もないから。」
「あ、ああ。」
「ふっへへ、馬鹿なやつだな。お前、自分がどんな目で私を見詰めているか、わかっているのか?」
確かに、女の言うとおりだった。イーノック自身に自覚がなかったといえば、嘘になる。イーノックは女が恋しくてたまらなかった。これほど、自分が異性に対して強い衝動を覚える日が来るなど、想像すらしなかった。
ベッドから立ち上がった女の手が頬へ添えられる。
「…説得力皆無だな。」
動揺したイーノックは為す術もなく、女の触れるだけのキスを受け入れていた。少しでも力を込めれば折れてしまいそうな女の腰を引き寄せそうになる腕が、緊張に戦いた。寄せられた肢体から立ちのぼる甘い香りに、心拍数が跳ねあがる。女の目が弓なりに笑んでいる。さあ、召し上がれと言わんばかりの状況に、イーノックは瞑目した。
ただそれだけの接触で硬度を増す股間に、先を急かされる。
だが、イーノックは無理矢理性欲を押し留め、なけなしの自制心に従った。
「私たちのようなカップルは星の数ほどいる。出会うべき運命なのに、恋を出来ない。そう、ロミオとジュリエットのようなものだ。ロミオがジュリエットを見たとき、世界には光が差した。だが、その結末は――?こんな恋は悲劇にしかならない。」
「…ロミオとジュリエット?」
その唱和に、イーノックは頷いた。女は眉根を寄せ、考え込んでいる。イーノックは意に介さず、女をベッドへ追い立てた。
「あなたの名は?」
「ルシフェル。」
確かに、アダムとイブを誘惑し、罪の果実を口にさせた堕天使の名こそ女に相応しい。
「…ルシフェル、さあ、眠るんだ。もう、眠ってくれ!あなたを追い出しはしないが、話はそれからにしよう。」
イーノックは力なく首を振り、懊悩の原因であるルシフェルをシーツで覆い隠した。
イーノックが立ち去った室内で、元々は大天使であり、昨日までは封じられた漆黒の影にすぎなかったルシフェルは肩を竦めた。
「はあ、まったく。折角のところで。あと少しだったのになあ。まったく、あいつの頑固さは転生しても変わらないのか。」
ルシフェルは空へ掲げた指をぱちんと鳴らし、世界的に名高い古典の原書を現出させた。男が比喩していた「ロミオとジュリエット」を知らなかったのだ。だが、イーノックが知っていることを自分が知らないというのも、癪だ。
ルシフェルはベッドに寝そべり、原書を流し読みしながら、退屈な内容に欠伸を漏らした。
敵対する勢力の子息と令嬢がつまらない恋に落ち、くだらない勘違いの末に死んでいく。人類の叡智ならばともかく、人間自体にまるで興味のないルシフェルは、その本にはまったく興味を惹かれなかった。
「こんなときに彼がいてくれたら…。」
本を床へ投げ出し、嘆息する。そのとき、広い室内に電子音が響き渡った。ルシフェルは喜悦を浮かべて、どこからともなく携帯を取り出した。
「ああ、きみか。おはよう。すまない。……ああ、惚れさせるつもりが、思ったより時間がかかりそうだよ。」
受話器越しの神の発言に、ルシフェルは目を瞬かせた。
「うん、惚れ薬?まだ試していないな………うん…そう、自分の力でやりたかったんだ。」
自らの魅力を一寸も疑わず傲慢にうそぶく我が子が隠す真相に見当がついているのか、くぐもった笑い声が耳に届いた。ルシフェルは顔を赤らめ、携帯を睨みつけた。実際こうして指摘されるまで惚れ薬の存在を失念していただけに、神を責めるわけにもいかない。気恥ずかしさを押し隠し、ぶっきらぼうに返す。
「え、何だって……作り方?勿論、私はかのルシファーだぞ。覚えているに決まっている。……ああ、うん。……じゃあ、また。」
名残を惜しむように通話を終えた携帯に視線を落としていたルシフェルは、ふっと人の悪い笑みを浮かべると、高らかに指を鳴らした。
媚薬の材料を入手するくらい、何でもない。
「一口飲めば、恋の奴隷になるように――冷たい水だが、あいつの心は焔のように燃えあがるだろう。」
そして、形のない心でさえも、ルシフェルが本気を出せば、手に入れるくらいわけない話なのだ。
イーノックが帰って来たとき、ルシフェルは自室の窓から身を乗り出して、街を眺めているところだった。
いつの間に、どうやって手に入れたのだろう。漆黒のドレスは、流行の最先端の型で、背中が大きく開いている。結いあげた髪から幾筋か零れ落ちた房が、曝け出された白い背にかかり、恋情を募らせる。
イーノックは、周囲から存在を認識されパパラッチされる可能性を犯しているルシフェルを咎めることすら忘れ、その絵画の一部のような光景に見惚れた。
イーノックの帰還に気付いたルシフェルが、背後を振り仰ぎ、睫毛を瞬かせて問いかけてきた。
「なあ、何故そんな目で私を見る。このドレスが原因か?ふっへへ、気に入ったなら良かった。」
「いや、その…、そのドレス姿は予想外だったから。」
まるで恋する学生のようにどもりながら返答し、それだけではルシフェルに失礼な気がして、イーノックは言い募った。
「勿論、あなたは美しい。だが、――だが、私は外見で恋はしない。」
ルシフェルは一切反論する気配もなく、ただ、おかしそうに笑った。手にはシャンパングラスを手にしている。中身は、ピンクドンペリだろうか。美しく泡立つ液体をどこから取り出したのか見当もつかず、イーノックは困惑した。
抑えきれない興奮に目を煌めかせたルシフェルが、グラスを差し出して来る。
「さあ、これを飲んでくれないか。まずは飲んで、頭を冷やして、その後で話を聞こう。」
グラスの淵が、イーノックの唇に当てられた。
せがむように寄せられた肢体の甘さに、さしものイーノックも忍耐が切れた。どうしてだろう。イーノックはルシフェルをずっと前から知っているように感じた。それも、何百年も前から恋慕している存在のように。
イーノックは邪魔でしかないグラスを奪い取ってテーブルへ退かすと、その腰を掻き抱き、荒々しく唇を貪った。しどけなく身を捩り、こちらを煽るルシフェルをベッドへ押し倒す。先程宥めたばかりの股間のものを押し付けると、ルシフェルがふるりと身を震わせた。
「イーノッ……、…苦し…。」
可憐な手が広い背を頼りなく掻き、酸欠を訴える。
イーノックははっとして、身を引き剥がした。何ということを仕出かしてしまったのだろう。僅かに青褪めるイーノックを前に、ルシフェルは乱れたドレスにも無頓着な様子で、ベッドに倒れ込んだままだ。唇は互いの唾液でしとどに濡れている。
とろんと欲情に煙る目に引き摺られそうになり、イーノックは慌ててグラスを手に取った。今頭を冷やす必要があるのは、自分よりむしろ、ルシフェルの方だ。
誤って気管に注がないよう、恐る恐るグラスを傾ける。いまだキスの余韻に浸っているルシフェルは何の抵抗も示さず、素直にその飲みもので咽喉を潤した。
「ん……変な気分だ。」
ルシフェルが身じろぐ。次第に知性を取り戻す真紅の瞳は、思いの外愛情深く、イーノックの胸を打った。
「その、急にすまない。大丈夫か…?」
「…ああ、大丈夫だ。心配してくれてすまない。それよりも胸が、すっきりしていて…。」
ルシフェルが戸惑いがちに、イーノックの頬へ手を添えた。長い睫毛に縁取られた目が真摯に恋心を伝えて来る。
「この気持ちを伝えたい。イーノック、…お前は素敵だ。」
ルシフェルに嫣然と腹の上へ跨られ、キスの続きを強請られたたとき、イーノックの頭にはちらりとも今日の結婚のことは掠めなかった。イーノックは夢中で愛人の甘えがちなキスに応じた。
「…取り返しにつかないことになった。ああ……、惚れ薬の効果はあったよ、覿面だった。だが、あいつにじゃない。………っ!そんなこと出来るはずないだろう!たとえきみの命令でも、あいつを消すなんて…!」
無力に打ちひしがれる沈黙。
「…あんまりだ。あいつを愛しているのに。」
イーノックが目覚めたのは、髪を緩やかに梳く指先の動きだった。
「おはよう、愛しい人。」
「…おはよう、イーノック。」
シーツの波に身を預け、手を伸ばすイーノックへ、ルシフェルが歯痒そうに微笑んだ。何事かを紡ごうとした唇は、慄きながら閉ざされ、固い決意と共に再び開かれたときには、ルシフェルの眦は涙に濡れていた。ひどく辛そうに、ルシフェルが愛を口にする。
「…お前を愛している、イーノック。愛のためなら死ねる。」
決して離すまいとするように縋りつくルシフェルへキスを贈り、イーノックは微笑んだ。
真実の愛を知った今となっては、選挙のための結婚も世間体もどうでも良かった。ルシフェルを太い腕に抱きかかえ、くるくる回し、あちこちにキスの雨を降らした。
「ルシフェル…本当に私を愛しているのだな。」
感極まって上擦る声に、やけに感情を押し殺した声が返す。
「ああ、苦しいくらいに…こんなに好きにならなければ良かったと思うよ。」
哀しそうにはにかむルシフェルに胸を打たれて、イーノックは思いの丈を込めてキスをした。もう、ルシフェルのことしか考えられそうになかった。ルシフェルの表情は固い。イーノックが他の女と結婚する予定だと知っているのだろう。イーノックは笑い声を立てて、ルシフェルに告げた。
「さあ、行こう。ルシフェル。」
「どこへ?」
「あなたと一緒にいられる場所ならば、どこへでも。」
初掲載 2011年6月4日