セルフィッシュコランダム (発売前)   転生パラレル


 殉職した父のように、LA市警に勤め、立派な刑事になりたい。
 子供じみた夢だった。現実は甘くない。
 母の実家があるフロリダからロサンゼルスへ来て、早10年。ビジネス街のカフェは出逢いの場であることを、イーノックは学んだ。一杯のコーヒーを求めて通う者と逼迫するほど、多くの人間が、異性との交流を求めて足繁く通っている。
 AM09:35、通勤のラッシュが終わる頃だ。イーノックは安堵の溜め息を吐くと、一時の休息を求めて、フロアから厨房へと引き返した。ラッシュが終わった後は、いつも混乱してしまう。それは、接客時に用いる言語のせいだった。
 全米で一番スペイン語話者を有するLAは、英語とスペイン語が同率で用いられる。イーノックは英語が州の公用語として認定されるフロリダに在住していたが、隣家がヒスパニック系であったため、スペイン語も日々の生活に困らない程度には精通していた。中国語とタガログ語も、少しなら話せる。故郷の友人たちは驚くが、持って生まれた笑顔と判断力、スポーツで培った忍耐力のお陰で、客あしらいに長けていることもあり、イーノックはフロアマネージャーを任されていた。就職して3年という期間を考えれば、それは破格の対応だ。いぶかしむ者もいるだろう。無論、イーノックがFMに抜擢された理由はそれだけではない。
 「良くやってくれたな。一息ついてったらどうだ。」
 店長が労いの言葉を放ちながら、イーノックへ紙コップを差し出して来た。
 イーノックをFMに採用した現店長は、気さくな人物だ。前任者と異なり、マネジメントで才能を発揮することはあっても、現場においては自分が門外漢であると知っているため、無茶な注文をして来ない。NY本社からやって来たことを鼻にかけようともしない。だが、甘く見えて、損益管理の出来る人物でもある。
 意味ありげに店長の視線が、礼を告げてコップを受け取るイーノックの左手に向かった。その薬指には、穏やかな光を放つリングがある。
 「もう来る頃だな。さっさと飲んだ方が良い。」
 そう言って、店長は片目を瞑ってみせる。AM09:47、そろそろイーノックの天使が現れる時間である。イーノックが肩を竦めて応じると同時に、同僚が厨房を覗き込んだ。
 「イーノック、また来たぞ。今日は何か約束でもあるのか?」
 別の女性スタッフが乗り気でないイーノックを肘で突き、カウンター席へ向かうよう促した。その顔は、にやついている。スタッフは皆、アンヘルに好意的だ。中には面と向かって、つれない態度を取るイーノックに説教を垂れる者もいる。
 彼らに悪気がないのは、イーノックも解っていた。だが、イーノックは恨めしく思わずにはいられなかった。無知は、罪だ。スタッフはイーノックとアンヘルの仲を誤解している。しかし、この奇妙な関係について、イーノックがどう述懐したところで、徒労に終わることが目に見えていた。精神科医を薦められてさよなら、ジ・エンドだ。彼らの言う台詞も、簡単に想像出来た。
 『アンヘルがストーカーだって?冗談はよせよ!それじゃ何だって、きみはアンヘルと色違いリングを左手の薬指にはめているんだ。それに、アンヘルが堕天使?冗談は休み休みにしてくれ。それとも、それは…新手の惚気か?きみが敬虔なクリスチャンだっていうのは知っているが、だからって、セックスを一度も経験しないまま死んでいくつもりか?前世からの知り合いっていうのも、惚気だろ?』
 云々。
 フロアに戻されたイーノックの姿を目にするなり、アンヘルが嬉しそうに右手を挙げた。手持無沙汰に遊ばれていた毛先が解放され、はるか昔から愛用しているスマートフォンも鞄へと仕舞いこまれた。今日の恰好に一瞬度肝を抜かれたイーノックだったが、すっかり居座る気のアンヘルを見て、憂鬱になった。
 アンヘルは同じ人間とは思えないほど、スタッフが天使(アンヘル)と呼ばずにはいられないほど、噂の美貌の佳人を口説き落そうと客が通い詰めるほど、全てが整っている。ハリウッドが整形してでも手に入れたいと望むパーツばかりだ。肉感的でありながらスレンダーな均整のとれた肢体。ほくろ一つないミルクの肌。エスプレッソコーヒーを思わせるしなやかな黒髪。真っ直ぐ通る鼻筋や秀麗な眉で構成される気品ある顔立ちの中で、甘く熟れた柔らかな唇と眼の赤が異彩を放つ。イーノックは知っている。カラーコンタクトによるものだろうかと同僚たちが噂する瞳の真紅さえも、アンヘルのオリジナルだ。
 カウンターに肘をついたアンヘルが、その赤い目を弓なりに眇めた。その様は、気に入った女性スタッフを口説きにかかる男性客そのものだ。そして、その認識は正しく正しい。
 「アメリカンに、NYチーズケーキ。それから、スマイル1つ。」
 そう言って、アンヘルはにやにやチェシャ猫のように笑った。
 女性体である彼が、スペイン語の男性名詞で「天使(アンヘル)」と呼ばれ始めたのには、このように言動の端々に見え隠れする男性的な仕草が一役買っているものと思われた。そう呼び始めたのは、当時バイトで、LAの歴史について専攻していた学生だ。もしかすると、LAの名の由来であるAngle(アンヘル)と引っ掛けたのかもしれない。「魂が男性的なんだ。」同性愛嗜好にあった彼はそう言って、アンヘルの性別を嘆いていた。
 誘いかける物憂い動作で、アンヘルの指先が赤い唇に触れた。まるでキスを強請っているようだ。7年前であったら、嬉々としてその誘いに応じていただろう。だが、イーノックは呆れ交じりの溜め息を吐き、注文を繰り返した。
 「繰り返します。アメリカン一つ、NYチーズケーキ一つ。ご注文は以上でよろしいですか?」
 「ちょっと待ってくれ。肝心のスマイルが抜けているじゃないか。イーノック、きみときたら、毎日、人の話を聞かないな。」
 「あなたも毎日同じことを言わせないでくれないか。うちではそういうサービスはやってないんだ。」
 冷たくあしらうイーノックに、アンヘルが余裕の表情で苦笑を洩らすと、小さく呟いた。
 「きみは意地悪だな。サービスでもなければ、私に笑顔一つ見せようとしないくせに。」
 伏せられた長い睫毛が、瞼の下に色濃い影を落とす。それが泣き顔に見えて、イーノックは胸を突かれた。幸い、アンヘルはイーノックの自責の念に気付かなかったらしい。彼は僅かな自嘲を含ませたまま、冗談めかしてうそぶいた。
 「それに、何度頼んでも、きみは私の名を呼ぼうとしない。」
 イーノックは何も言わず、注文の品を受け取りに後方へと下がった。その背に、縋る視線が付いて回った。
 アンヘルは、イーノックに許してくれと頼む。だが、どれだけ乞われようと許せそうになかった。


 イーノックが神に与えられた使命を胸に地上へ旅立ったのは、遥か紀元前のことだ。そして、身心ともに未熟だった彼につけられたサポート役が、当時最も神に近しい存在だった大天使ルシフェル――カウンター席でイーノックへ愛情に満ち溢れた眼差しを向けるアンヘル――後に傲慢の大罪を犯すこととなる堕天使ルシファーだった。
 火より生み出された彼ら天使は土の身体を持たず、アストラル体のみで構築されるため、両性にして無性を基としている。だが、自我がある以上、嗜好もまた存在する。権威の象徴として崇められた天使長ルシフェルは男性体を好み、イーノックの前でもそのように振る舞った。ルシフェルは、あるときは父の如く、またあるときは母の如く、イーノックの無知をからかいながらも、「あるべき未来」へと導いた。何度も繰り返し蘇える死のデジャヴに怯みそうになる己を叱咤し、イーノックは走り続けた。ルシフェルの指し示す未来こそ、最良の結果だと盲目なまでに信じ、差し伸べられた手に必死でしがみついた。
 イーノックは今なお、あの旅の日々を覚えている。最後の夜のことも。
 7体目の堕天使捕縛を前にして、気が高ぶり眠れないイーノックに、ルシフェルは何の気なしに誘惑する台詞を口にした。
 「きみの安眠のために。」
 それから真意の解らない笑みを湛え、
 「きみとの旅の終わりに。」
 そう言って、ルシフェルは美しい肢体を惜しげもなくイーノックへと委ねてきた。
 あの晩、イーノックは天使が両性にして無性であることを知った。人間の持つ愛に惹かれ、堕ちたサリエルの心境を悟った。腹の底から込み上げる喜悦に、エーテル体を持ち得ない天使であるはずのルシフェルが、土塊の身体を持つ事実に疑問を挟む余地などなかった。
 あまりに、神とルシフェルを盲信しすぎていた。
 最初から、あるべくして道は敷かれていたのだ。イーノックはルシフェルの指導の下、運命と名付けられたルートをなぞらされたにすぎなかった。だが、イーノックは気付かなかった。思えば、兆候は至るところにあっただろうに、盲目であったがゆえに。
 翌日、我武者羅に邁進した結果を鼻先に突き付けられ、イーノックは絶望した。イーノックが神より賜った最良の未来は、洪水に呑み込まれた地上とごく僅かな人間の生存、天の国を追放されたルシフェルの代わりに大天使メタトロンとして神に仕える権利だった。
 いつから、自分は神の掌で踊らされていたのだろう?いつから、ルシフェルに騙されていたのだろう?いつから、彼は堕ちていたのだろう?いつから、この「最良の未来」を知っていたのだろう。
 一体、いつから?
 最初から?
 そればかりで、真っ白になった頭には何も浮かばない。やがて働き始めた脳裏には、失望、悲哀、猜疑、憤怒。神に抱くべきではない感情ばかり翻った。
 『きみとの旅の終わりに。』
 いつも以上に感情を押し殺した微笑。初めての経験に震える長い睫毛。もどかしげに首へ回された腕(かいな)。愛に応じる口付け。
 全て、偽りだったというのか。
 目の前が赤く染まった。長い旅路の果てに、イーノックは憎悪という感情を覚えた。考える前に、神の宣誓を拒否するという不敬を犯していた。
 そして、強い負の感情に囚われ穢れたイーノックは、こうして今なお、愚かな人間の一人として輪廻を巡り続けている。


 この日は、いつも以上の客が来店し、店内は非常な賑わいを見せていた。目が回るような忙しさだった。
 ルシフェルはそんなイーノックの仕事ぶりを、まるで親が子に向けるような温かい目で見詰めていた。イーノックにとって、その眼差しが誇らしい時期もあった。だが、今は違う。異性から幾度となく声をかけられているルシフェルの態度も、腹立たしかった。イーノックはルシフェルに注意を払わないよう、慌ただしく立ち回った。イーノックはルシフェルと無関係だ。そうあるべく、努めている。だのに、ルシフェルがナンパされると機嫌を害するなど、我ながらおかしな話だった。
 やがて、サリエルとアザゼルが店に顔を見せた。流石に興味を惹かれ、イーノックは注文の合間に一瞥投げかけた。三人で揃って、パーティーにでも赴くのだろうか。糊のきいたワインレッドのシャツをまとうサリエルは、数千年前と同じく陰気臭い顔をしていた。ステッキが似合いそうなフォーマルスーツを着用したアザゼルの顔つきは、いつになく険しい。
 そのとき、ルシフェルと眼が合った。
 ルシフェルは艶やかな笑みを浮かべると、気まずさに身を固くしているイーノックへわざとらしくウィンクして、フロアの奥に席を移動した。その後に、堕天使二人が続いた。打ち合わせに利用するようだ。そこで興味が尽き、イーノックは日常業務に戻った。目まぐるしい多忙に加えて、ルシフェルの思わせぶりなウィンクが、断固として関心を持つまいとイーノックに決意させたのだ。
 知らないうちに、堕天使二人は退席していたが、そういう理由でさして気にならなかった。勘定は、彼らの上席であるルシフェルが持つのだろう。食い逃げされなければ、何も問題はない。
 PM06:30、イーノックのシフトが終わる時刻になった。帰宅ラッシュの過ぎた時刻ということもあり、店内の雰囲気も落ち着いたものだ。それでも念のためスタッフに確認すると、彼らはイーノックに笑い返して来た。
 「デートの邪魔はしないわよ。早く行ってあげなさい。」
 一言断りを入れたイーノックの姿が、急いているように見えたらしい。激しく誤解されている。だが、それがスタッフの共通認識だろう。帳簿と角突き合わせている店長の機嫌も良く、職場に引き留めようとはしなかった。それどころか、早く帰れとせっついてきた。イーノックがFMになってからというもの、店の売上は好調に伸び続けている。理由は明快だった。美貌の天使の存在が集客力アップへと繋がっているのだ。結果、売上は今や全店舗で五指に入る勢いだった。そのように、店長を始めとしたスタッフ全員に好かれているルシフェルを、イーノックが無碍に追い返せるもない。
 イーノックは込み上げた溜め息を噛み殺した。この後、一日で一番憂鬱な時間が待っていることだろう。着替えるべくロッカールームへ向かうイーノックの背へ、馴染みきった台詞が投げられた。
 「イーノック、今日のシフトはもう終わりだろう?家まで送って行くよ。」
 ルシフェルが嬉々として、鞄を手に椅子から立ち上がる。それに、イーノックはいつも通り辟易した風な眼差しを向けて、拒んだ。
 「結構だ。」
 「そうつれない言葉を言うなよ。私たちは結婚した仲じゃないか。」
 密やかな笑みを湛えたルシフェルが、その事実を見せつけるようにわざとらしく、音を立てて左手のリングにキスを落とした。イーノックは嘆息した。最早、言うべきことはない。さっさと着替えを済ませて、裏口から出よう。
 ゴールドにサファイアをあしらったリングは、ルシフェルがイーノックの力を無理矢理具現化させたものだ。プラチナにルビーをあしらったイーノックのリングと対の存在で、力の持ち主にしか外せない仕様になっている。この外せないリングが左手の薬指にあるために、周囲はイーノックとルシフェルの関係を誤解していた。イーノックの弱みは、ルシフェルが弱みにかこつけてはめさせたものであるにしろ、その認識がまったくの誤解であると言いきれないところにあった。
 裏口の扉を開けるなり、ルシフェルが抱きつき、腕を絡めてきた。裏口は人気のない路地に面している。LAは非常に犯罪が多い都市だ。ルシフェルも女性体を取っている以上、暴漢に襲われても文句を言えない状況に身を置くべきではない。だが、イーノックは口を噤んだ。神に次ぐ力を持つ堕天使が、人間如きに引けを取るわけがない。代わりに、イーノックは予てからの嘆願を口にした。
 「頼むから、リングを外してくれないか?このペアリングのせいで困っている。」
 ルシフェルは言葉を把握しかねたかのように、目を大きく見開いて瞬きを繰り返していた。一秒、二秒。イーノックは根気強く待った。三秒後、ルシフェルが顔を綻ばせて笑った。
 「ふっへへ、冗談はよしてくれ。私にそんなつもりがないこと、きみが一番良くわかってるだろ?」
 これ以上きみを遠ざけたくない。そっと囁いたルシフェルが、更に身を寄せて来る。イーノックは顔をしかめた。腕に柔らかいものが当たっている。
 「せめてもう少し離れてくれないか。胸が当たっている。」
 「ああ、流石のきみでもわかったか。そう、当てているんだ。」
 「止めてくれ。」
 「どうして?それで私が何か得をするとは到底思えないな。」
 柔らかな笑い声に突き放す気も失せて、イーノックは嘆息した。ルシフェルは悪魔の統領だ。屹然とした態度で挑まなければ付け込まれることは重々承知していたが、今日は、それが限度だった。
 旧約の時代から、ルシフェルは黒衣を好んだ。服装はだらしなく、劣情を煽る類のものだった。だが、カフェに入り浸るようになったルシフェルが、誤った認識に基づいて異性に声をかけられているのを目にする機会があり、忠告してからは、白を基調としたラフな格好をするようになった。傍目にもイーノックの恋人だと分かるよう主張しているのだ、とスタッフは笑うが、イーノックはただの反動行為だと信じている。今まで、実に悪魔らしい黒衣ばかりまとっていたので、飽きたのだろう。
 今日はどうしたことか、そのルシフェルが、ふんだんにレースを用いた純白のカクテルドレスを着ていた。華奢な肩には薄手のカーデガンを引っ掛け、淡い水色のコサージュをあしらったパンプスを履いている。この恰好のルシフェルは、正しく天使だった。不精で不得手なイーノックには信じられないくらい、メールで情報が伝達されるのは早い。今日は、集客力がどれだけアップしたのか、帳簿で確認するまでもない混雑ぶりだった。
 その麗しい天使が実は悪魔の統領なのだと知らされたら、彼らはどれだけ困惑することだろう。
 物思いに耽るイーノックの耳に、
 「くちんっ。」
 くしゃみが届いた。見れば、ルシフェルが僅かに鳥肌の立つ二の腕を擦っていた。LAは暖かく過ごしやすい気候にあるが、夜は反動のように冷える。薄手のカーデガンだけでは、心許ないことだろう。寄せられた肌が、肌寒さに強張っている。
 見かねたイーノックは、自分のジャケットをルシフェルの肩にかけた。他意はなかった。だが、好意のようなものを示されたルシフェルは、極めて嬉しかったらしい。見紛うことのない幸福を眼差しに乗せて、イーノックを見詰めた。
 「すまない、イーノック。お礼にこのままお持ち帰りしてくれても、」
 「だが断る。」
 「ふふ、きみときたら、本当につれないな。」
 寒さに少し色の褪めた唇を震わせて、ルシフェルが笑った。脳裏に、今生で初めてキスしたときのことが蘇える。イーノックは顔を逸らした。よりによって、この服を選んだルシフェルはずるい。
 5年前、ラスベガスで出逢った日。イーノックがルシフェルにプレゼントした衣装だった。
 『男が異性に服をプレゼントするのは、脱がせたいからだそうだが。きみは?』
 笑いながら問いかけたルシフェルに笑い返して覆いかぶさった幸せが、フラッシュバックした。今口を開けば、愚にもつかない愛の言葉か、身勝手な罵声が飛び出しそうだった。
 黙り込むイーノックに、ルシフェルも沈黙で応じた。道中は短い。あっという間に、イーノックが住まいとするアパルトメントだ。絡められたルシフェルの腕が名残惜しそうにゆっくり離れ、唇が躊躇いがちに開かれた。
 「しばらく会えなくなる。今日はそれを伝えに来たんだ。」
 「……別に私に断る必要はないだろう。」
 イーノックはうそぶいた。嘘だ。心では、激しく動揺していた。ルシフェルは時を操る。例え多忙であろうとも、それを悟らせぬよう時間を巻き戻せば済む。それが、わざわざしばらく訪問出来ないと言ったのには、何らかの理由があるに違いない。それは解ったものの、イーノックには何も言えなかった。今まで散々すげなくしておきながら、いざ、自分の手から離れようとして引き留めるなど、傲慢にも程がある。
 聞き慣れたイーノックの素っ気ない言葉に、ルシフェルはにっこり笑った。あまりに綺麗に笑うので、イーノックは目を奪われた。
 「最後くらい、またあのときみたいに、きみに抱かれたかったんだ。」
 ルシフェルはドレスの裾を摘み、無感情にこぼした。
 「ははっ、だが、一夜で解けた魔法には、もう…効き目がなかったみたいだな。残念だよ。」
 言葉を失うイーノックから距離を取り、ルシフェルは頭を垂れた。足を交差させ深々と、淑女というよりは道化師の如く。じわりと滲み出た深い闇が、白く浮かび上がった顔(かんばせ)を侵食していった。
 「さよなら、イーノック。しばらくお別れだ。」
 水鏡へ一粒零れ落ちたような別れの台詞に、イーノックは咄嗟に手を伸ばしていた。心が波打っていた。こんなことを言うのはおこがましいが、初めて、ルシフェルの喪失に怯えた。転生し続け、拒み続けるイーノックのエゴに、ルシフェルは辛抱強く耐え続けてきた。それは、これからも漫然と続くものだと信じていた。
 イーノックの指先が闇にかかり、空間に波紋を描いた。だが、それだけだった。その手は空を切り、何も掴むことはなかった。










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初掲載 2011年2月6日