Crossing on the blue light 第二話 (発売前)   現代パラレル


 私が玄関に忘れられたそれを見付けたのは、洗濯ものを干すため、庭へ出ようとしたときのことだった。本当ならば、1時間前、娘を学校へ連れて行ったときに気付いても良さそうなものだが、娘は盲目でそれに気付きようがないし、私にしても、朝の忙しさに目が回る勢いだったので、素通りしてしまっていたのだ。
 私はそれを手に取った。夫の忘れたもの。いわゆる、愛妻弁当、だ。
 娘の通う養護学校には給食がないので、そのついでで、こうして毎日夫にも作っている。
 娘のものは、眼の見えない娘の分まで周囲が反応してくれるよう、手の凝ったキャラ弁当だ。世間の反応も好評で、本職のライターの作業状況や新刊紹介などをする目的でブログを開設したにもかかわらず、だんだん趣旨が変わり始めている。最近では、編集者から「お弁当で本を出しませんか?」と誘いをかけられていることもあって、複雑な思いだ。
 一方、夫のものは、いかにもな作りの愛妻弁当仕様になっている。副担任だった夫と同棲を経て結婚した私にしてみれば、これは、同僚や生徒たちへの牽制も兼ねているのだ。だから、柄にもなく「パパ大好き」とコメントを入れてみたり、これ見よがしなハート形を作ってみせることも間々ある。夫は耳まで赤くして恥ずかしがるけれど、満更でもないらしく、そういうお弁当を作った日は必ずと言って良いほど機嫌が良い。夜も、すごい、優しくしてくれる。
 そんなお手製の愛妻弁当を自分で片付けるのは、正直、気が引けた。今夜は折角目いっぱい甘やかされてやろうと思っていたのに、まったく、期待はずれだ。
 嘆息した私はすぐさま、他にも夫が忘れて行ったものを見つけて、苦笑した。財布も携帯も、テキスト入りの仕事用鞄も忘れていくなんて、今日はどうしたのだろう。車の鍵だけ引っ掴んで出かけるなど、寝ぼけているとしか思えない。
 考えてみれば、思い当たる節はあった。私は指先で唇をなぞり、うっとり微笑んだ。そうだ。今朝はナンナが顔を洗っているのを良いことに、行ってらっしゃいのキスをしてあげたのだ。あのときのイーノックの嬉しそうな顔と来たら、筆舌に尽くしがたいほどで、本当に、胸がときめいた。思いの外早くナンナが洗顔し終えたから、慌てて身を離して、そのまま出かけて行ったけれど。なるほど、そのせいで、夫は荷物の存在を失念したらしい。とはいっても、普通途中で気付いて引き返して来るものだろうに、そんな馬鹿なところが可愛くて仕方ない。私が甲斐甲斐しく世話をしてやらないと何もできない夫の有様を目にするとき、不謹慎ながら、嬉しさのあまり舞い上がりそうになる。
 自然こぼれる歌を口ずさみながら、私は物置と化している夫の私室へ向かった。これは、夫に荷物を届けてやらないといけないようだ。そうと決まれば、私は精々美しく着飾った状態で、夫の仕事先に顔を出し、女教師や女子高生たちを牽制して回らなければならない。
 私は楽しくて仕方なかった。愛妻弁当などより直接打って出た方が、どれほど牽制として効果があることか。私は自分が美しいことを知っている。決して、自惚れではない。男寄りで「妻」というと多少違和感を伴う容貌だが、それでも、傾国と表すに相応しい美貌なのだ。伊達に「大天使」と呼ばれていたわけではない。これまでどれほど多くの者を魅了し、枕を涙で濡らさせてきただろう。勿論、今は夫一筋なので、そのような思わせぶりな態度を取るなど以ての外だが、夫と関係を持つまでは、無茶を愉しんだものだ。
 だが、私のご満悦も長くは続かなかった。貞淑な妻らしく慎ましく、その中にも仄かな色気が匂い立つよう入念にメイクをして、いざ車へ乗り込もうとした私の前に現れたのは、ベリアルだった。タイミングが悪いにもほどがある。
 ベリアルは私の熱烈な女性ファンで、信奉者と呼ぶに相応しい偏執ぶりを発揮している編集者だ。仕事柄、どうしても付き合いが発生する手前、無碍にもできず、扱いを持て余しているのが正直なところだった。
 電話でアポも取られていないし、これが他の編集者ならば、私も巧いこと巻いてしまえるのだが、相手がベリアルとなるとそうもいかない。ベリアルは、珍しく女っぽく着飾った私と助手席に積まれた荷物から素早く状況を読み取ったらしく、丁寧にマスカラを塗り付けた睫毛を瞬かせた。それは、私にとって都合の悪い方へ思慮を働かせているときのベリアルの癖だ。彼女は私を「男性」として敬愛しているので、私を娶った夫のことを毛嫌いしているし、恐るべき勘の鋭さを誇る彼女は、その夫へ荷物を届けに行くところなのだと察したに違いないし、嫌な予感しかしない。
 案の定満面の笑みを湛えて、ベリアルは、私の車の運転席のドアを開いた。勿論、これから出かけようとする私に気を遣ったわけではない。
 「先生、これからお出かけになられるのでしょう?お時間を取らせるのももったいないですから、打ち合わせは移動中にでも済ませてしまいましょう。あ、勿論運転はわたくしがさせていただきます。先生に運転させるなんてとんでもありませんもの!」
 そう一息に言い放つと、平然と、ベリアルは私の車の運転席へ乗り込んだ。シートベルトもきっちり締めて、付いてくる気満々だ。
 「さあ、先生。お早く。」
 呆気に取られる私の眼下では、長い睫毛がぱちぱちやっている。最早、私はこの運命から逃げられないことを悟った。


 ナンナが盲目ということもあって、私の家族は、高齢化が進んで止まない閑静な住宅地に住んでいる。私の実家に程近く、車通りも少なく、万が一のことがあっても娘の面倒を見てくれる人物に事欠かないという点を重要視した結果、この場所に決まったのだ。ここからは、夫の勤め先まで片道1時間ほどだ。
 その1時間、私は本当にストレスだった。どうしてこうも、私の周囲には人の話を聞かない輩しか集まらないのだろうか。捲し立てるように自分の意見を述べるベリアルは、私の感想や相槌など一切不要なようだった。
 ナビを頼りに夫の職場へ辿り着いた頃には、私は疲労困憊の呈で、ベリアルの話を打ち切れることを心から喜んだ。おかしい。家を出るときはるんるんで、こんなはずではなかったのだが。
 不思議なことに、初めて訪れたにもかかわらず、不審者を選別する衛兵はひどく親切で、快く私を中へ入れてくれた。入門許可を取るのに、書類にサインくらいするものと構えていたのだが、そんな手間もない。
 首を傾げる私に、衛兵は闊達に笑った。
 「イーノック先生の美人で有名な奥さんだろ。そりゃ、知っているよ。」
 …私の夫は一体、私に関して、何を言い触らしているのだろう。懸念を募らせる私の隣で、校内へ車を進めるベリアルが微笑んだ。
 「先生の美貌はこのような辺境の地でも人々の口に上っているのですね。ふふふ、わたくし、わたくしごとのように嬉しくなってしまいます。」
 仮にも人の旦那の勤め先を辺境呼ばわりするのは如何なものかと思うが、ベリアル相手に注意するのもはばかられて、私は車窓から外を眺めた。グラウンドでは、体育の授業を受けていると思しき生徒たちがはしゃぎ回っている。
 あの、瑞々しい身体ときたら!
 夫周辺の女たちを牽制に来たつもりが、いつの間にか、私の立場は逆転していた。私は美しい。それは自他共に認められていることだ。夫も、口癖のように褒めそやしてくれる。だが、私にはもうあのような無邪気な若さはないのだ。胸も、娘を産んだときにサイズアップしたくらいで、授乳期間が終わったら引込んでしまい、笑えるほど平坦だ。
 次第に、私は憂鬱な気持ちになって来た。こんな愛妻弁当など携えて、のこのこ訪れて、私は馬鹿なのだろうか。馬鹿に違いない。
 職員室に辿り着く頃には、私はすっかり塞ぎの虫に取りつかれていた。教頭と名乗る女性が親しみをもって夫の席へ案内してくれたが、女子高生に取り囲まれているところに出くわしてしまい、私は躊躇した。明らかに、私は場違いだ。もう帰りたい。実際、教頭を始めとした周囲の眼さえなければ、私はすぐさま踵を返していたことだろう。
 こちらに背を向けている夫は、私の訪問に気付く気配もない。それでも、私は己の怖じ気を笑い飛ばすようにして、無理矢理一歩前で踏み出した。イーノック、といつもの癖で呼びそうになるのを留まり、私は意識的に、夫婦しか使わない呼称を唇へ乗せてみた。
 「…あなた、忘れ物。」
 私は巧く笑えていただろうか。女子高生たちの好奇の目が痛い。それ以上に、怖くて堪らない。今はまだ良いかもしれない。だが、私は年を取る。美貌は年を経るごとに失われていくものだ。いつか、もしかしたら、私の預かり知らぬ場所で、イーノックは私より若くて綺麗な女に言い寄られて。
 「ルシフェル、わざわざ来てくれたのか!」
 ぱああと一瞬にして視界が明るくなった。
 思わず眩しさに目を眇めるが、私の錯覚だったようだ。晴れやかな笑みをこぼして、夫が生徒たちに断りを入れると、こちらへ駆け寄って来た。両肩を掴まれ、もしかしてこのまま抱き締められてしまうのではないかと、余計な想像を働かせてしまった私は、身を竦ませた。
 しかし、当然のことながら、夫にも自制心はある。流石に職場という点を考慮したらしく、夫は眼をきらきらさせて、私を熱っぽく見つめるに留めた。
 「ああ、すまない。折角、あなたが作ってくれたお弁当を忘れるなんて…!私は夫失格だな。」
 夫はさっきまで、飼い主と念願の再会を果たした犬の如く喜んでいたのが嘘のように、今度は、飼い主に叱責された犬の如く項垂れている。どちらにせよ、飼い犬なわけだが。
 夫が何か弁明している。私はそれをぼんやり聞き流しながら、先程までの憂いが嘘のように引いていくのを感じ取っていた。何だ、馬鹿らしい。すっかり失念していた。夫は馬鹿なのだ。それはもう、涙なくして語れないほど、真っ直ぐな馬鹿なのだ。そんな夫が、私以外を見るはずもない。出逢う前から脇目も振らず私だけ見つめてくれていたように、これからも、この眼は私しか映さないに違いないのだ。
 「…ルシフェル、大丈夫か?」
 様子がおかしいことに気付いたらしい夫が、心配そうに、私の顔を覗き込んでくる。私は嬉しくなってしまって、本当に嬉しくて、考えるより先に夫を抱きしめていた。
 そこが夫の職場だったと正気に返ったのは、ベリアルが職員室に追いついて来て舌打ちをする20秒後のこと。それまで、私は泡を食っている夫の背に腕を回し、こわごわ抱き返され、これ以上ないくらいの幸せを噛み締めていた。
 その後、夫は、同僚からも生徒からも散々からかわれたようだが、夜、とっても優しかったから、満更でもなかったのだろう。職場で、周囲に注目されていることに気付きながらも、抱き締め返すという無茶をしてくれるくらいだ。内心喜んでいなかったわけがない。
 こんな幸せな気分に浸れるのなら、私は密かに、また夫の職場に顔を見せようかと企んでいる。










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初掲載 2011年2月14日