Crossing on the blue light 第三話 (発売前)   現代パラレル


 今日は桃の節句だ。
 この日は、我が家でも愛娘の成長を祝うのが通例だ。大のイベント好きの夫が、こんなナンナを猫かわいがり出来る日を見逃すわけがない。周囲に良く首を傾げられるのだが、このようなイベントに際して妙にフットワークの軽い夫に比べると、妻である私は、いざ腰を上げるまでが非常に長い。それでも、事が始まってしまえば誰より楽しむつもりで騒ぐのだが、その気になるまで説得するのが骨だと夫には良く苦笑される。
 桃の節句には、雛段を飾りつけ、着物をまとい、夕食に手巻きずしを作るのが、我が家の恒例だ。
 前日の夜から翌日の朝まで、私たち家族は着物をまとって過ごす。とはいえ、ナンナは養護学校でも着物イベントがあるので服装が浮くわけでもないし、在宅ワークの私もナンナの送迎と買い物くらいしか外出する必要性がないので、この日の主な被害者は夫一人になる。もっとも、夫がそもそもの首謀者なのだから、私が同情する余地などないのだが。
 私は、この日ばかりはビールではなく桃を浸した酒を呑みながら、手巻きずしをぱくつきつつ、テレビを眺めていた。大きな液晶画面には、去年一年の家族団欒映像が流れている。
 我が家では、あまり写真を取ることがない。娘の目が不自由なので、視覚だけに頼る写真は自然と敬遠してしまうのだ。代わりに用いられるのが、ビデオとお土産の品である。年々山となっていく思い出のビデオは、こうして、娘の成長を祝う桃の節句に日の目を見ることになる。
 夫に髭の生えかけたざらつく顎を擦りつけられ、笑い声を上げて逃れようとする娘の映像は、まさに、隣で繰り広げられている状況、そのままだ。きゃっきゃこだまする娘の笑い声が二重奏を生み出し、愛犬ネフィリムを困惑させている。
 それを遠巻きに笑いながら眺めていたところ、隣から伸びた逞しい腕に引き寄せられた。抱き寄せられた厚い胸の上では、青い目が楽しそうににんまり笑っていた。これは、まずい。逃げを打つが、いつの間にタッグを組んだのか、隣から伸びた小さな手に腕を組まれ、逃れる道を断たれた。
 結局、私はナンナ曰く「じょりじょりするから止めてよ、お父さん!」な羽目に陥った。性的なときも間々あるこの感触が、今回は、素直にくすぐったくてたまらず、私は諸手を上げて降参したのだが、悦に入ったらしい二人に挟まれて、しばらく解放してもらえなかった。
 他所さまに言わせると、我が家は盲目の娘を抱えて不幸な部類に入るらしいが、私は十分幸せだと思っている。
 こんな満面の笑みで涙さえ浮かべているのに、それで、不幸なわけがないだろう。


 桃の節句と言えども、所詮、平日である。
 9時を回る頃には、娘は疲れたのか、炬燵で丸くなってそのまま眠ってしまった。そんな娘を布団に運び入れた夫は、ベッドに腰掛け、何食わぬ顔つきでビデオカメラを弄っていた私を背後から抱き寄せた。
 一体、どんなキスをしてくれるのだろう。ただ甘いだけの優しいキスか、情欲を煽る熱烈なキスか。
 私は胸を高鳴らせ、夫の次なる一手を待った。
 しかし、夫はビデオカメラに興味を引かれたらしく、私の手から取り上げ、しげしげと弄り始めてしまった。私は気抜けした。何だ、この展開は。
 私の苛立ちなど気付かない様子で、夫はビデオカメラを起動させ、今日撮影した娘を感慨深げに眺め始めた。
 確かに、娘は可愛い。眼に入れても痛くないくらい、可愛い。
 だが、こんなときにまで見る必要があるだろうか。そんなはずはない。
 「…お前は、こんなときくらい、私だけ見つめたらどうなんだ。」
 アルコールの手伝いもあって素直に本心を漏らせば、夫が私にビデオカメラを向けた。
 言いたいことは、そうじゃないのだが。思わず呆れ顔で嘆息すると、夫の浅黒い手が私の襦袢をめくり上げた。今宵ばかりはぶり返した冬の夜気が、ぞわりと、曝け出された足先を撫ぜていく。あまりの寒さに肩をびくつかせたひょうしに、私は勢い良く押し倒されていた。
 別に、このまま事に雪崩れ込むくらい、何でもない。いつもならば、私は喜んで夫に腕を絡め、キスの雨を降らしただろう。
 だが、今なお、夫がビデオカメラを構えている事実が、どうにも気にかかる。時折赤いランプが瞬き、撮影モード中だと知らしめるので、夫は娘の映像をチェックしているわけではない。明らかに、私を撮影しているのだ。
 …なにゆえ?
 訝り眉をひそめる私を傍目に、袂に手を差し込んで肌蹴させた胸元に、夫が吸い付き紅い所有印を残していく。次第に下りていくキスに、私は身をよじらせて悶えた。痺れるような快感が背筋を駆け上がり、息が上がり始める。
 いつの間にか、腰帯は用を為さなくなっていた。ただの布切れと化した襦袢が肌に纏わりつき、扇情的な雰囲気を醸し出している。
 着崩しきった私とは正反対に、きちんと浴衣をまとう夫は涼しい顔をして、ビデオカメラをこちらに向け続けている。点滅し続ける紅いランプが、私の理性に、待ったをかけた。夫は、一体何を撮影しているのだろう。
 しかし、内股の皮膚が薄い弱い部分を撫でられ、甘いキスを施されるころには、私は完全に思考を放棄して、夫に為されるがままに陥っていた。


 それから、あくる晩。
 娘が就寝した後、私は信じられない思いでテレビを凝視していた。
 なぜなら、画面いっぱいに映っているのは愛娘の笑顔ではなく、私と夫の痴態だったからである。夫はあろうことか私の霰もない姿を撮影し、更にはそれを見せつける意地の悪さを発揮したのだった。
 羞恥から首まで真っ赤に染め上げた私が、どんな形相で夫を口汚く詰り、罵り、激怒したのかは、想像に難くないことだろう。そして、迂闊にも液晶画面の自分の姿に興奮してしまい、それを夫に悟られたことも。
 今回は手玉に取られてしまったが、いつかそのうち、きっと、後悔させてやる。
 新たに収録されてしまった「思い出」を削除しながら、私は、虎視耽々と仕返しを目論んでいる。











初掲載 2011年3月3日