Crossing on the blue light 第一話 (発売前)   現代パラレル


 「おかあさん、あのね、明日海に行きたいの。」
 娘がそう言い始めたのは、夕食の支度に取り掛かり始めたときのことだった。普段であれば、包丁など刃物を使うこともあって、キッチンには入れないのだが、たまたま顔を見せに来たミカエルと大人しく皿洗いをするというので、手伝ってもらうことにしたのだった。
 娘は生来眼が見えない。その事実を知らされたとき、私もイーノックもこの子がどんな人生を送るのだろうと気を揉んだものだ。もしかすると、そのために溺愛しすぎたかもしれない、とは思うものの、こんなに娘が愛らしいのだから愛さずにいられるはずがない。
 私の弟であるミカエルも姪のナンナにでれでれなので、よもや、危険な目に合わせることはないだろう。そう判断し、私は安心して娘の身を弟に預けたのだが、今回はかえってそれがあだとなったらしい。一ヵ月ぶりに会ったので、弟が姪を懐柔するためならば手段を選ばないことを失念していた。
 私は包丁を置き、弟を睨みつけた。ミカエルは、ナンナを海へ連れて行ってどうするつもりなのだろう。海で泳がせるつもりだろうか。そんな危険なことさせられるわけがない。
 だが、弟へ文句を言うより早く、ナンナが口を開いた。
 「…あのね、駄目?」
 じっと覗き込んでくる娘の眼はきらきらと期待に輝いている。私は嘆息した。ここで折れないようならば、親馬鹿ではない。そして、私は親馬鹿だった。
 弟を追い返した後、私は慌ててクローゼットを引っかき回した。今年はまだプールへ行っていなかったから、水着もタオルも仕舞われたままだ。それらがすぐ見付けられたことに気を良くする時間すら置かず、私はすぐさま、物置と化している夫の部屋へ向かった。水場で遊ぶのなら、浮き輪やパラソル、日焼け止めも必要だろう。
 夫の私室は雑然としていた。本棚に整然と並べられた仕事関係のテキストや卒業アルバム以外は、全て、家族共有の「滅多に使わないもの」だ。家族3人で過ごしたがる夫は、基本的に、自室を使わない。団欒以外の時間は私の部屋にいるので、その使用頻度たるや清々しいほど低い。
 明日はミカエルが、サンダルフォンも連れて来るという。夫が育った施設から引き取られたサンダルフォンは、私たち夫婦にとって年の離れた弟のような存在で、年の近いナンナにとって一番近しい立場だ。
 どういうわけか、ナンナはサンダルフォンの言うことを何でも聞く。あのわんぱく小僧がうちの娘を唆して何をしでかしてくれるのかと、今から頭が痛かった。


 「え、海へ行くのか?」
 帰宅後、眼を丸くした夫が、私に真偽のほどを視線で確認してきた。二人でこそこそ耳と口を近づけて内緒話していたと思ったら、明日のことを話していたらしい。海へ行くこと自体今日降ってわいた話だし、夫はここしばらくナンナと熱狂している体感ゲームをやるつもりだったようだから、本当に虚をつかれたのだろう。私が本当だと返すと、何だか必要以上にがっかりしているので、憐れみを催してしまった。
 「おとうさん、駄目?」
 「いや、駄目じゃないが…。」
 そう言って頻りに頬を掻き、やけに言葉を濁す。断言することが多い夫にしては、珍しい反応だ。一体、どうしたことだろう。私はビールと酒の肴を手に、夫の隣へ座った。夫は酒をあまり嗜まないし、ナンナの世話もあるので、呑むのは私だけだ。
 夫はしばらくどう話を切り出せば良いのかわかりかねる様子で、膝の上に座らせたナンナの両手を万歳にさせたり、頭を撫でたりして、娘を困らせていた。
 「もう、おとうさんったら落ち着きがないんだから。わたし、ネフィリムと遊んでくるね。」
 ネフィリムは、娘の盲導犬だ。赤ん坊の頃に育てて、盲導犬としての訓練後にまた引き取ったこともあって、娘によくなついている。盲導犬としてこれではいけないのかもしれないが、仲が良くじゃれあう姿を見ると微笑ましいので、私も夫も何も言えない。
 普段の夫ならば、ネフィリムと娘の寵愛を競い合うのに、今日はしょげる気配もなく、そわそわしている。あまりにじれったいので、こちらからせっついてやろうか、そんなことを思っていると、ようやく腹が決まったのか、夫は私の方へ身を乗り出して来た。
 「なあ、ルシフェル。あなたはああいうところに行くと、暑さのあまり、よく気分を害していただろう。本当に行くのか?」
 「仕方ないだろう。ナンナが行きたがっているんだぞ。お前は、ナンナの意思を妨げられるのか?」
 「それは…できることなら、したくないが。」
 私は言ってやった。
 「自分がしたくないことを、私にさせようとするな。大体、そんなに行きたくないなんて、明日は何があるんだ?」
 そう問いかければ、夫は僅かながら気を悪くしたようだった。
 以前にも、こんな態度をとられたことがあった。あれは娘を産む前。まだ私が外で働いていたときに、クリスマス・イヴにまで仕事を入れたものだから、機嫌を悪くしたのだ。
 クリスマスは一緒に過ごす予定だったのだし、イヴくらい良いじゃないか、などと私は思ってしまうのだが、夫は違ったらしい。あのときは、不貞腐れた夫の機嫌を直すのに、1時間ほど苦労した。慣れないことをしたものだから、顎がだるくて仕方なかったのを覚えている。
 もしかして、今回も、記念日系だろうか。
 あれでもないこれでもないと悩み始めた私に、寂しそうな顔つきの夫がキスして囁いた。
 「明日は、私が初めてあなたに触れた日なのに。そんな日に、あなたを他の男の眼に晒さなければならないのか?」
 再び甘くキスされ、切ない眼差しで見詰められて、私は恥ずかしさのあまり無表情になった。そういえば、この時期は夏休みということもあって、毎年のように夜更かしするから忘れていた。この日は毎年、夫といちゃついて過ごしていたのだ。まさか弟が、そんな夫婦の秘め事を知っているわけもなく、海に行くことになってしまったが、そうでなければ、夫はナンナを私の実家にでも預けて、私といちゃついて過ごすつもりだったのだろう。
 私は周囲を見回した。五感の一つが欠けているためか、娘は他の知覚が非常に優れている。万が一にでも、聞かれたい会話ではない。私は娘の不在を確認してから、夫を見詰め返した。
 「なあ、今夜は…駄目か?」
 そっと思わせぶりに、床へ着かれた夫の手へ自分のそれを重ね、指を絡めた。
 私たち夫婦は普段、娘と三人で川の字になったり、夫婦どちらか一方と娘とネフィリムで寝たりするのだが、こんな夜に限っては、娘を寝かしつけるのは夫の担当となる。その間、私は私室のベッドで待機だ。夫の部屋にベッドがあれば、私が娘を担当しても良いのだろう。しかし、ないものを嘆いても仕方ない。仮にあったとしても、使う機会がそうそうあるとは思えない。
 夫は、私たちが二人暮らししていた当時のベッドをことのほか気に入っている。こうして結婚に至るまで紆余曲折経たけれど、あの頃があったから今があるのだと思うと、嬉しくて仕方ないらしい。
 それくらい思い出を大事にしている夫のことだから、どうしても記念日を祝いたかったのだろう。
 明日は遠出するので、起床が早い。小学生二人を連れて行かなければいかないので、帰宅する頃にはくたくただろう。だから、本来ならば、夜が遅いなどもってのほかだった。
 わかっていたものの、私は夫を誘惑した。私だって、感傷に浸ることくらいある。首に腕を回しキスを交わすと、夫は嬉しそうに眼を眇めて、私の額に額を寄せて来た。
 「大丈夫だ、問題ない。」
 それから、私と夫は、娘とネフィリムの足音が近づいてきて扉を開ける前に、もう一度だけ、甘いキスをした。


 私が夫にしてやられたことに気付いたのは、翌朝のことだった。
 久しぶりの激しい行為に、最中は頭が真っ白になって物事を捉えるどころではなかったのだが、キスマークや噛み痕などつけられては水着になれない。それどころか、あまつさえ…。私はまだナンナに弟妹を作る気はないのに、こんなことをされては、ますます海になど入れない。泳ぐなんて、狂気の沙汰だ。恥ずかしい。
 散々文句を言ってやりたいところだが、私も夫の背に縋りついて爪痕を残してしまった手前、口を噤まざるを得なかった。夫が確信犯だと気付くまでは。
 シャワーを浴びに向かおうとする私の身体を、ひどく楽しそうな笑みをこぼして眺める夫に、不審の念が募り、何が言いたいのか、私は眼で問いかけた。しかしそれには答えず、ベッドに寝そべる夫はその腕を伸ばし、私の腰を引き寄せて、キスをした。舌を絡める深く甘いキスに、つい、私もほだされかけた。その間にも、夫の不埒な手は肌の上を這い回り、弱いところを探っていた。
 夫の一言がなければ、私はそのまま頂かれてしまっていたことだろう。
 「こんな身体で、大丈夫か?」
 はたして、それは、火が着き始めていた肉体に対してだったのか。それとも、キスマークや歯形を散らされた状況に対してだったのか。
 一瞬思案した末、私はどちらでも良いと判断した。どちらにせよ、夫の発言は気に触るものだ。同時に、私は夫がわざとこんなことをしているのだと悟って、怒りに顔をひきつらせた。
 だから、思い切り、蹴り上げた。


 「ねえ、おかあさん。それに、おとうさんも。二人とも海には入らないの?」
 パラソルの下で早速呑み始めている私に、娘が問いかけて来た。
 「ああ、海に入ると肌が痛くなってしまうんだ。だから、お母さんもお父さんも、大丈夫。ナンナもサンダルフォンと遊び終わったら、ちゃんとシャワーを浴びるんだよ。海水は肌がひりひり痛くなるから。」
 応えない夫の分まで、私は答える。
 「うん、そうする。」
 大きく頷いてみせる娘の隣では、貝取り用のシャベルを持ったサンダルフォンが、砂に埋まった私の夫を不思議そうに見詰めていた。サンダルフォンには、こんな熱い砂に埋められても平気な大人が、海水くらいで肌を傷めるなどとは到底思えないのだろう。正直なところ、私も同感だ。
 しかし、口出しされる前に、かき氷代を渡してやることで、私は子供たちを追い払った。
 夫を生き埋めにした犯人は、勿論、私だ。夫のせいでナンナの海水浴をサポートしてやれないのだから、これくらいのことはしなければ、私の気が済まない。それに、どこの馬の骨とも知れないような小娘たちから、私の夫が秋波を寄せられるのも、見ていて不愉快だ。
 だから、埋めた。
 ミカエルは嫉妬深いと笑っていたが、冗談ではない。私をこんな目に合わせて、嫉妬深いのは、イーノックの方だ。
 「ナンナを近くて助けてやれないのは残念だが、あなたと一緒にいることができて、私は嬉しい。…たとえ、全身埋められていたとしても。」
 そう言って、妻に埋められた哀れな夫は溌剌と笑う。馬鹿だ。
 あまりに馬鹿で、見ていて愛おしいので、私は、帰ったら毎年恒例の過ごし方を励行しようと思っている。










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初掲載 2011年2月13日