PM06:00
チャイムが鳴った。
窓から差し込む西日が、教室を赤く照らしている。陸上部のものだろうか。生徒たちの号令が耳に届いた。窓際の座席で携帯を弄っていたルシフェルは、グラウンドへ一瞥投げかけると、改めて時刻を確認した。6時。職員の定時だ。ルシフェルは机上の飲料を鞄へ仕舞いこむと、座席から立ち上がった。イーノックに残業がなければ、帰途へつく頃だろう。終業式の今日、午前中しか授業がなかったことを思えば、どれだけの時間を待機に費やしたのか。頭が痛くなるほどだ。
ルシフェルがイーノックと共同生活を始めてから、4カ月半が経った。
父の思いつきにより、突如として始まった副担任との同居は、ぎこちないながらも正常に機能し始めたように思えた。少なくとも、ルシフェルには。当初布団が一つしかなかったマンションには、翌日の夕べにはショッピングモールで急いで購入してきたという二つ目が運ばれてきたし、翌週には食事や洗濯の分担も滞りなく決定した。イーノックはあまり快く思っていない様子ではあったが、未成年の飲酒に関しては黙認する腹積もりらしく、ルシフェルは、自分の初めての「男」とそれなりに巧くやっていけるものと思っていたのだ。
それが、おかしな方向に転がっていると感じたのは、先々月のことだった。
学校行事の一つである遠足旅行に出かけて以来、どういうわけか、イーノックはルシフェルを意図的に避けている。ルシフェルには、それが不服でならない。仕方なしに話し合おうにも、どこで一体時間を潰しているものか、夜半遅くに帰って来るイーノックは「明日にしてくれ。」の一点張りで、話にならない。
玄関へと続く渡り廊下を歩きながら、ルシフェルは時計に目をやった。6時8分。そろそろ、イーノックは職員室を出た頃だろうか。ルシフェルは制服のポケットへ手を入れ、午前中職員室でくすねてきたあるものの存在を確認した。彼を大天使と崇める生徒たちが目にしたことのないような、人の悪い笑みがルシフェルの口端にのぼった。ふっへへ、と自然に悪戯な笑い声が漏れ出た。
ちょっと気を揉ませてやることとしよう。今から、イーノックの動揺が楽しみでならない。きっと彼はうろたえて、鞄を漁ることだろう。
「私を散々待たせた罰だ。30分以上待たせるなと言ったのに、人の話を聞かないやつだな。」
ルシフェルはそれを宙へ放り投げ、楽しげにキャッチする。チャリンと軽い音を立てて、それはルシフェルの掌に吸い込まれるようにして落ちた。
それは、イーノックの車の鍵だった。
PM06:39
「話をしよう。」
冷蔵庫の缶ビールを掴み、チェストで足を組んだルシフェルは、そう言って、いまだに不服そうな態度を窺わせるイーノックに、目の前のソファを示した。最初の晩、イーノックが夜を明かしたソファだ。しかし、イーノックが大人しく座る気配はない。ルシフェルは嘆息交じりに苦笑を浮かべた。
「イーノック、失望させないでくれないか。私は今まで、きみが話してくれるのを散々待った。だがきみの態度ときたら、まるで、褒められたものではなかったよ。」
ビールのプルタブに手をかけながら、問いかける。
「なぜ、私を避けるんだ。」
プシッと音を立てて、プルタブが上がった。返事はない。ルシフェルは呑みながら、イーノックの反応を待った。
ルシフェルは待たされることが嫌いだ。時は金なり、という格言があるが、金で時は買えない。ルシフェルは時間の価値を知っている。今日、ルシフェルは半日もイーノックのために費やしたのだ。本心を言えば、これ以上手間取らせるような真似はしないでもらいたかった。だが一方で、更に1・2時間浪費したところで大差ないのではないか、と思っていた。最終的にイーノックが口を割るようであるならば。
目を泳がせていたイーノックが、ようやく口を開いた。
「決して、あなたを避けていたわけではない。」
「はっ、敬虔なクリスチャンのきみでも虚偽を口にすることがあるのか。くだらない虚言は止めてくれ。何なら、私は、きみがいつから私を避け始めたのか、言うことだってできるんだぞ。」
缶ビール1本などあっという間だ。ルシフェルは手の中の空き缶を睨みつけると、聞き分けのないイーノックにそれを投げつけた。あっさりキャッチされても、想定の内だ。ルシフェルは再度、イーノックにソファを指し示した。
「とりあえず、座れ。馬鹿みたいに立って呆けるきみと、話らしい話なんてできそうにない。」
ルシフェルは顎の前で指を組み、にっこりと、あまりにわざとらしい笑顔を浮かべた。
「明日から週末で、きみにしても仕事なんかないだろう。きみはいつもないないとほざいていたが、生憎と時間はたっぷりある。」
いい加減、イーノックも学習した方が良い。
「根気比べがしたいなら、残念ながら、無駄だぞ?決して、私は折れようとは思わない。」
待たされることが嫌いなルシフェルが待機を選ぶとき、それは、何事にもまして優先させたいことなのだ。
PM10:03
時間ばかり消化されていく。入浴を済ませてきたルシフェルは、時計を一瞥した。10時。珍しく物思う様子で瞼を閉じているイーノックは、まだ、固く保持した「秘密」を吐き出しそうにない。まさか寝ているということはないだろうが、はたして、イーノックが口を開くときは来るのだろうか。
ルシフェルは冷蔵庫を開け、本日6缶目となるビールを取り出した。頭が正常に働く状態になければいけないとはわかっていても、気詰まりな時間に酒ばかり進む。プルタブを上げて缶に口をつけたとき、横から伸びた手がそれを取り上げた。
「何だ、一体。」
「これ以上呑むのは良くない。」
「…誰のせいで呑んでいると思っているんだ。」
思わず愚痴をこぼすルシフェルの前で、イーノックが申し訳なさそうに眉尻を下げた。その犬のような仕草に、今まで抑え込んでいた怒りがふつふつと込み上げて来る。ルシフェルはイーノックをきつく睨みつけると、胸倉を掴みあげた。些か、自制心が心許ない。飲酒のせいだろうか。脳裏で理性が警鐘を鳴らすが、ルシフェルは感情を制御できそうになかった。
「何で、今更、きみは私を避けるんだ。」
内心、ルシフェルは舌打ちした。その台詞には、隠すべき感情が滲んでいた。これでは、寂しいと白状しているようなものだ。だが、一度こぼれ落ちた言葉は回収不能だ。この2カ月余り、ずっと溜め込んでいた不満が堰き切って溢れだした。
「避けるんだったら、最初から、避ければ良かっただろう。私をそういう対象として見ることがそれほど不名誉だというなら、きみはこのマンションに来るべきではなかったし、あんな目で私を見るべきでもなかった。」
イーノックの目に映る自分の姿は、我ながら、憐れみを誘った。ルシフェルは情けなさに泣きたくなった。
「きみは私が気付いてないとでも思っているのか?きみが私を避け始めたのは、遠足で尾瀬へ出かけてからのことだ。あのとき、どれだけきみが不躾な眼差しで私を見詰めていたか、私が気付かないとでも思うのか?鈍感なきみが思わずいたたまれなくなって私を避けるほどの代物だ、そりゃ、私だってきづくに決まっているだろ。それなのに、きみときたら、なんなんだいったい!」
頭に血が上る。視界が不明瞭になり、ぐるぐる回り始めた。力の抜け始めた手は、今にもイーノックのシャツから離れようとしている。もう、立つことすら儘ならない。
夜分の騒音は近所迷惑だと常識に基づいて囁く理性が、ゼリー状になって溶け出していく感覚。ルシフェルはこれを知っていた。静かに遠退く意識。やばい。自覚としては、遅すぎた。
「いちばんはじめがあんなであいかたで、いまさらなにを臆するひつようがあるんだ!やりたいなら、けっこう、やればい」
ブツン。糸の切れたマリオネットのように、肉体の制御が効かなくなった。
呑み過ぎだった。
PM11:52
額に濡れた感触を覚えて、ルシフェルは目を覚ました。頭が重い。痛い。悪態をつきながら視線を動かすと、嬉しそうに微笑んでいるイーノックと眼が合った。
「無様で悪かったな。」
イーノックが気を利かせて乗せたのであろう濡れタオルを額から退け、ルシフェルはよろめきつつ立ち上がった。羞恥のあまり死ねそうだ。もう、今日のところは寝てしまおう。だが、足を踏み出したところで躓き、ルシフェルはイーノックに助けられる羽目になった。抱き締められる形になっているのだが、あまりにも気分が悪くて気にする余裕がなかった。吐き気と再び回り始めた視界に呻き声を漏らすルシフェルに、イーノックが気遣いを示しながら、自嘲気味に言う。
「いや、さっき笑ったのは違うんだ。その、倒れる前のあなたの発言がすごかったものだから、つい。」
「…生憎、記憶にないな。」
力ない出任せが口をついて出た。
嘘だ。初めてのときと違って、ちゃんと覚えている。だからこそ、ルシフェルは嘘を貫く覚悟を決めた。抱きたいなら抱けば良いなどという台詞、他の者ならいざ知らず、矜持の高いルシフェルにあっては、抱かれたいと暴露したも同然ではないか。
「あんな熱烈な告白を?」
「告白?告白なんて、した覚えないな。きみの聞き間違いじゃないか?」
調子づくイーノックに小声で返し、初めて、ルシフェルはイーノックの表情を窺った。
「きみと来たら、急にご機嫌だな。傍迷惑だ。」
「すまない。」
イーノックの青い眼には、様々な感情が飛び交っている。歓び、哀しみ、それから、猜疑?その意味を把握しようと努めるが、痛む頭が思考を阻む。ルシフェルは眉根を寄せ、浅く深呼吸した。気持ち悪い。
固く口を引き結ぶルシフェルの背を擦りながら、イーノックが、躊躇いがちに口を開いた。
「…ルシフェル、あなたは誤解しているようだから、その、私もちゃんと言っておくべきだと思う。あなたがその誤解に基づいて、あの告白をしたのだとしたら、私はあなたの弱みに付け入ったことになってしまう。」
「…何が?」
意を決した様子で、イーノックの咽喉仏が上下した。キスしてやりたい。性急な欲望に駆られるルシフェルの耳へ、イーノックの告白が聴こえてきた。
「実は、私とあなたは最後まで、その、やっていないんだ。」
「…何を?ってああ、聞くだけ野暮というものか。セックスだろう。それくらい、何となく察していたさ。」
ルシフェルは鼻を鳴らして、苦笑を浮かべた。一緒に4カ月半も生活したのだ。同居人の性格ぐらい把握している。加えて、あの晩、一緒にスポーツバーへと繰り出したサリエルの言もあった。イーノックは酔い潰れたルシフェルを見かねて介抱したところ、運悪く襲われ、そして。
足の付け根が痛んだことを視野に入れながら、ルシフェルは嘆息交じりにこぼす。
「正直覚えていたくないし、実際、覚えてもいないんだが…。私は最後の最後で、寝オチでもしたんだろう?」
「いや、その、最後の最後で、というところは合っているんだが、」
言葉を濁すイーノックに、ルシフェルは先を促した。何故か、イーノックが悪びれて言う。
「怖いと泣かれて。」
「…………。」
「あ、違うんだ!いや、違わないんだが。それでも申し訳なく思ったのか、手で処理し」
「もう何も言わなくて良い。むしろ言わないでくれ。」
沈黙。居た堪れなくなり、ルシフェルはおどけて肩を竦めた。
「今回の件で、きみはチキンに違いないと思っていたが、正しくその通りだったんだな。私だったら、据え膳は食べてしかるべきだと思うがね。」
だが、イーノックはそうしなかった。何故か?それは、性格が良いからだ。ルシフェルがその見てくれだけでなく、内面にも惚れてしまうほどに、イーノックは良い男だった。それこそ、ルシフェルが初めての「男」に選びたいと思うくらい。
はは、と笑いが込み上げてきて、ルシフェルは前言を撤回した。キスしてやりたいじゃない、噛み付いてやりたい、だ。この馬鹿犬。曝け出された首筋をべろりと舐め上げると、イーノックの身体が強張った。次いで音を立てて吸い付き、思い切り、噛み付いた。
「痛っ、ルシフェル。」
「イーノック、それなら仕切り直そう。弱みに付け込んでいるなどと気に病む必要はないよ。ああ。本当に、全く、ないね。」
褐色の肌に、薄紅色の鬱血と、真紅の楕円が仲良く並んでいる。悪趣味な歯形が鮮やかに痕となっているのを見止めて、ルシフェルは満足げに咽喉を鳴らした。
「だが。」
「だが?」
オウム返しするイーノックの眼は、期待に輝いている。ルシフェルは力無い笑みを浮かべて、口を手で覆った。
「…すまない。仕切り直しは明日にしてくれないか。吐きそうだ。」
慌てふためくイーノックの腕の中へ崩れ落ちながら、ルシフェルは思う。これだけ待たされたのだ、少しくらいやきもきさせてやったところで悪くはないだろう。それから、ルシフェルの唇にあるかなきかの笑みが浮かび上がった。
『イーノックはとても真面目だし、頭の回転も良いだろう?人の話を聞かないところが玉に瑕だが、少し言葉が過ぎるお前には、丁度良いと思うんだ。どうだい、お婿さんに。お父さんの一押しなんだが。』
きっと幸せにしてくれるよ。昨夜、定例の通話中に父は笑って提案した。
幸せにしてくれるよ。まったく、その通りだった。
初掲載 2011年2月7日