AM04:13
身体がだるい。重い。ルシフェルはふるりと長い睫毛を瞬かせた。頭が重い。痛い。どうも酒を呑み過ぎたらしい。
側頭部に手をやり、肘を付いて上半身を起こしたルシフェルは、不服そうに周囲を見渡した。見知らぬ場所だった。傍らにある温もりに気付いて、視線を落とす。どうも、これが先程の圧迫感の原因らしい。ルシフェルは目を眇めて、小さく嘆息した。こんな太陽みたいな金髪で筋肉質の逞しい肉体を持つ男など、知り合いにいた験しがない。一番近くて、脱色した金髪で不健康そうに絶えず隈を作っている優男だろうか。
昨夜は、浮かれ過ぎたようだ。俄かサッカーファンと化した従兄弟に誘われて、スポーツバーに向かったことは覚えている。サリエルは、ルシフェルに大人の遊びを教えてくれる兄貴分である。飲酒や喫煙を教えてくれたのも、サリエルだった。だが、状況から察するに今回ばかりは、ルシフェルに大人の階段を上らせた人物は、サリエルではないようだ。
どうも、自分はこの見知らぬ男とビジネスホテルで寝てしまったらしい。
記憶に残らない初体験というものにどう対処すれば良いのか、判断しかねて、ルシフェルは立ち上がった。幸い、男は避妊具を装着するだけの分別を持っていたらしい。良かった。未成年者と一夜を共にするような輩だ。妊娠は勿論のこと、病気も不安だった。
ルシフェルは自らの酒臭さに閉口しつつも、床に落ちていた下着やシャツを纏っていった。まだ、足の付け根に違和感がある。ルシフェルはちらりと壁に備え付けられた時計を一瞥した。4時。それならいったん帰宅して、シャワーを浴びるだけの時間は十分あるはずだ。よりによって何故、始業式の日にこんな揉め事に巻き込まれるのかと、ルシフェルは不満から鼻を鳴らして、携帯を手に取った。今日は新しい世話役が来るというし、クラス替えもある。本来ならば、ルシフェルはこんなことをしている場合ではないのだ。
さっさと立ち去ろうと踵を返したところで、ようやく、好奇心がもたげた。自分が寝てしまった男とは、どういう人物なのだろう。ルシフェルは安らかに寝ている男の顔を覗き込んだ。身体に似つかわしく、如何にもスポーツが得意そうな好青年だ。確実に、恰好良い分類に入る。ずばり、ルシフェルのタイプだ。その真面目そうな顔からは、行きずりの関係を結ぶ男には到底見えなかった。どうして、男と寝ることになったのだろう。そもそも、出会いは何だったのか。ルシフェルは首をひねった。スポーツバーで意気投合したのだろうか。だが、ルシフェルにはサッカーの知識など爪の先ほどもないから、ナンパされたのだと考える方が妥当だろう。あるいは、彼の外見が自分のストライクゾーンであることから推察するに、こちらから誘いをかけたか。
サリエルはきっと何か知っているに違いない。ルシフェルは、何時の間にか去っていた処女に別れを告げると、眠る男を置き去りにして、部屋を後にした。
AM09:02
ルシフェルが通う高校は、全国でも五指に入る有名進学私立だ。
名家出身で頭も切れる美貌のルシフェルは、その立場を利用して、生徒会長を任されるほどの模範学生で通していた。年の近い同級生から向けられる羨望の眼差しというのは、甘美な蜜に似て、中毒性がある。それを失くさないためにも、ルシフェルは柔らかい笑みを湛えて、日々を過ごしていた。いつしか、そんなルシフェルに付けられたあだ名が、大天使である。ルシフェルが両方の性別を具えている点も、由来の一部らしい。
一体どれだけの人間が、ルシフェルの外見ではなく、実態を見ているというのか。ルシフェルはそれが可笑しくて仕方がない。
始業式で生徒会長として挨拶を終え、クラスメイトと共に教室に引き払ったルシフェルは、担任が来るまでの時間を手持無沙汰に待機していた。朝一番で、父から連絡があった。父の寄越した新しい世話役は、18時に挨拶に来る予定らしい。仕事が世話役一本ということはないだろうから、それまで、余所で本業をこなしているのだろう。
ルシフェルの父が送り込む世話役は、毎回まちまちで、多岐に亘っている。前回は、エゼキエルという口煩い婦人で、動物愛護団体への支援の見返りに、ルシフェルの世話を買って出たのだとか。その前は、アザゼルという頑固親爺だった。町工場の社長と父にどのような接点があるのか分からず、ルシフェルは首を傾げたものだ。一時、従兄弟のサリエルが世話役をしていた頃もあった。そのときに、ルシフェルは酒や煙草の味を覚えたのだ。
つらつら考え事をしているうちに、始業の鐘が鳴った。10秒もしないうちに、学年主任が扉から姿を現した。そういえば、副担任に新任の教師が就くという噂で、クラスは持ちきりだった。それは、事実だったらしい。ルシフェルはぼんやりと、携帯画面に向き直した。県内教員の定員の都合上、三年の試用期間を経てようやく本職を得たという噂の男に、あまり興味は掻きたてられなかった。専門も、社会だという。理系を選択しているルシフェルとは、あまり接点がない。
「初めまして。このクラスを担任することになった、イーノックと言う。」
いつまでも聞いていたくなるような、耳に心地良い声だった。どんな男だろう。初めて興味を抱いて、ルシフェルは副担任を一瞥した。
「あ。」
思わず声が出て、副担任と目が合った。イーノックは目を丸くしている。ルシフェルは綺麗な作り笑いを浮かべて、イーノックに口を噤むよう示唆した。ここでばらされては堪らない。ルシフェルはまだ、優等生という仮面を被り、皆の羨望を一身に浴びて続けていたかった。
副担任は、ルシフェルの処女を奪った男だった。
PM06:27
父から連絡があった。新しい世話役から、この話はなかったことにしてもらえないだろうかという打診が入ったのだという。今日になって急にこんな話が浮上したので、父はひどく困惑している様子だった。
一人暮らしを営むマンションのキッチンで、ルシフェルは自炊しながら、肩で携帯を固定して父の話を聞いていた。彼は――彼という言葉からするに今回の世話役は男らしい――とても真面目な青年で、頭の回転も良く、父も買っているらしい。人の話を聞かない点が、玉に瑕だとか。ルシフェルは適当に相槌を打ちながら、冷蔵庫の扉を開けた。世話役が来ないのならば、構うことはない、ビールを開けてしまおう。
『彼はとても乗り気で、自分の赴任先にお前がいると聞いてからは、楽しみでしょうがないみたいだったのになあ。』
プルタブにかけた手が、止まった。今、父は何と言ったのだろう。ルシフェルは恐る恐る、父に訊ね返した。ルシフェルが初めて新しい世話役に興味を示したので、父は嬉しかったようだ。嬉々として、答えて来た。
『だから、お前の通っている高校の先生なんだよ。イーノックという名に聞き覚えはないか?』
はは、ルシフェルは乾いた笑いを漏らした。当然、知っている。
「私のクラスの副担任だよ。今日、紹介された。」
加えて、ルシフェルの処女を奪った男である。そんなことを吐露すれば、父は激怒するだろう。だが、そんな話をするつもりはない。自分の間抜けさを強調するだけだ。
『彼はお前との同居にも承諾してくれていたのに、それを取り止めて、一体、住まいはどうするつもりなんだろうなあ。』
「…さあ、ビジネスホテルじゃないかな。」
昨日みたいな。口には出さず、思う。ルシフェルは腹立ちまぎれに舌打ちした。見知らぬ他人と同居するなど、これっぽっちも聞いていない。寝耳に水だ。父はこういうところがあるから困る。話したつもりで、忘れていたのだろう。
ルシフェルはビールを冷蔵庫に戻し、必要事項だけ確認すると携帯を切った。
PM07:04
「遅い。私が来いと命じたら、3分で来い。30分も待たせるな。」
お陰で、身体が芯から冷えている。
わざわざ近くのコンビニまで出迎えに来てやったルシフェルをいぶかしむように、イーノックが見詰めた。まさかボストンバック一つで越して来るつもりだったとは、ルシフェルに言わせれば中々に潔い性格をしている。無論、私物を大量に持ってこられても、困ってしまうのだが。
ルシフェルはイーノックの口が躊躇いがちに開かれたのを確認して、言わせまいと、さっさと歩きだした。イーノックの顔色は良くない。当然だ。ルシフェルはイーノックの過ちを知っている。だが、それはルシフェルにしても同様である。一体どのような状況下であんなことになったのか解らないが、困っているのはお互い様だ。
だから、そんな罪悪感に満ち溢れた眼差しを向けられても、ルシフェルには何もしてやれることなどない。
「父は随分ときみを買っているようだ。父とは、知り合ったのは最近か?」
「え…あ、ああ。いや。お父さんとは、前からの知り合いだったんだ。小学生の頃からかな。彼は私のいた施設の支援者の一人で、ずいぶん、世話を見てもらった。大学にも行かせてもらったしな。」
その恩人の子を傷物にしてしまったから、イーノックは動揺しているというわけか。見当をつけたルシフェルは、小さく鼻を鳴らした。大体、父が施設を支援しているなど、聞いたこともない。エゼキエルやアザゼルのときといい、父の活動範囲はどうなっているのだろう。ルシフェルは、まったく面白くなかった。イーノックとの馴れ初めを覚えていないのも、不服だった。
イーノックは覚えているのだろうか。ちらりと後方を振り仰ぐと、イーノックが慌てて目を逸らし、緊張に身を縮ませた。耳が赤らんでいる。どうも、イーノックはルシフェルとのことを詳細に亘って覚えているらしい。そうでなければ、何かを思い返すようにルシフェルを凝視し続けたりしないだろう。
「さあ、ここが私のマンションだ。副担任のきみと生徒の私が一緒に暮らすのはあまり褒められたものではないと思うが、父の命だしね。」
指が悴んで、巧く鍵が開けられない。そういえば、冷蔵庫で大量に保冷されているビールを見つけられたら、咎められるだろうか。今更ながらにそんなことを思いながら、ルシフェルはようやく扉を開けた。
「それに、私は外見が男寄りだから、変な噂も立てられないと思うし。」
イーノックの顔色はころころ変わる。青、白、黄色。まるで、信号機だ。扉が閉まり、鍵までかかったことを確認出来た時点で、ルシフェルはやっと、ある事実を告げることにした。
「そうそう、きみに言い忘れていたことがある。実は、きみが来ることを知らなかったから、布団が一式しかないんだ。悪いね。」
耳まで赤くしたイーノックに、はたして、ストップはかかるだろうか。もう事故っていることだし関係ないか、赤信号みんなで渡れば怖くないというしね。ルシフェルは可笑しくなって、イーノックに触れるだけのキスをした。
「さあ、中へどうぞ?」
そうしてルシフェルは、自分の本性を知る同居人との生活に、想いを馳せるのだった。
初掲載 2011年1月30日