窓から差し込む日差しは暖かく、執務室を明るい黄金に染め上げている。覗く空は、どこまでも見張らせるほど青く澄み渡っている。
今日という日が青天であることに気を良くして、私は笑みを浮かべた。気持ちの良い日に、悪いことが起こるはずない。それは私の持論である。だから私は、己の望む以外の返事があるはずないと確信して、こんな良い日和だというのに机にへばりつき、仕事を片付けている男の首へ手を回した。
「イーノック、私と結婚しないか?」
至極簡潔に告げたつもりだったが、眼前の男には解らなかったらしい。背後から抱きつく私を振り仰ぎ、ぽかんとした表情でこちらを見詰めている。いつも通り聞いていなかったのか。それとも、聞いたからこそその馬鹿面なのか。いや、恐らくは聞いていたのだろう。彼の手元で仕上げのサインを待つ書面には、インクが垂れている。私は小さく鼻を鳴らした。書面も求婚も、また最初からやり直しだ。全く、面倒をかけてくれる。
私は再び、口を開いた。
「イーノック、結婚しよう。」
私がイーノックと何ら恋愛関係にないことを思えば、この唐突な求婚は、不思議かもしれない。第一、私と彼は正式に紹介されてから、まだ一週間である。電撃的に落ちる恋もあるかもしれないが、飄々として感情が読めないことで有名な私が、それほど感情を高ぶらせあからさまにするはずもない。
私が何故イーノックに求婚したのか。その理由を説明するためには、この国の成り立ちから話さなければならない。
私やイーノックの仕えるこの国では、神権政治が敷かれている。概要を説明しよう。かつて、全てを治める老神の命を受け、天より地上へ遣わされた神がいた。神はこの大陸に、一番古く広く力を持つ、厄介で危険極まりない大国を築いた。神の下、人々は他国を侵略することで富み栄えていった。丸々太った醜い豚ほどに。やがて神は――私の意見を言わせてもらえれば人間を見捨てたのだろう――天上に帰ったが、今なおこの国の繁栄は続いている。それは、神の末裔たる人間がいるからだというのが、一般に広く流布している説である。そして、この国を作りし神の末裔である彼ら、王族は、この国を統べる正当な権利を持つ、らしい。
最高位の神官にして、この国の大公である私が口にするべきではないが、馬鹿馬鹿しい話ではないか。
しかし、実際のところ、王の権威は神に等しく、例えどれほど浅はかで気分屋な発言であったとしても、その意見は神の御言葉ほどに重く受け止められるのである。
馬鹿馬鹿しい。
ともあれ、当代の王の寵愛や政治も絡めばもっと細分化できるのだが、この国において王となる原則二つ。一つは、神の血筋であること。もう一つは、この国を築いた神と同じく両性――この宗教では無性も尊ばれるが、それでは性交が出来ない――であるか、あるいは、そのような者を伴侶とすること。
今般、この時代唯一の両性具有である私は、不遜にも神を選ぶ立場にあったわけだ。裏を返せば、王族を必ず伴侶にしなければならないということでもある。
父代わりでもあり、古くからの友人でもある現在の王は、次代の王を選ぶ件に関して、私に全権を委ねてくれた。王はそんな些事に頭を悩まされるよりも、見目麗しい女たちと戯れていたかったのだろう。ただし、彼からは一つだけ、注文があった。一年以内に孕む気配がなければ、婚姻関係を解消しろというのだ。散々非嫡出子を設け、今なお増やし続けている彼にしてみれば、一年もの猶予期間を与えられて女一人――もっとも私は女とも言いかねるが――孕ませられないような男は、王というより息子として認めたくないのだろう。
不都合があれば、結婚を無かったことにする、という王の無茶な発言に、婚姻に永遠の持続性を求める教会はかなり反発した、ようだ。内部では。しかし、この国において、王の権威は神にも等しく、例えどれほど浅はかで気分屋な発言であったとしても、その意見は神の御言葉なのである。内心ではどれだけ不服であろうとも、王の言葉を、色好みな酔っ払いの発言として、一蹴するわけにもいかないのだ。
それは、当時十三歳だった私にしても、同様である。
しかし、実際に婚姻関係を結ぶ羽目になる私の身にしてみれば、伴侶の交換を衣服のそれのように気軽に楽しめる心境ではない。王になりたい輩は、無理にでも雄を奮い立たせて、私に挑むことだろう。それこそ、寝る間も惜しんで。だが、それでも孕まなかったら?私は一年周期で伴侶を交換し続け、使い古された雑巾のように身を持ち崩すことだろう。考えるだけで、ぞっとした。
私は大公である。神にまつわる血筋で、かつ両性具有なのだから、理論上は、私自身が王になっても問題はないはずだ。そもそも、外見が男寄りであるため男として育てられた私に、男に抱かれろ、というのもおかしな話ではないか。
だが、王は私に孕めと言ったのだ。その発言が意味するところは、一つである。
私が思うに、この国の神は、狭量だ。生まれたばかりの赤ん坊は一日以内に洗礼を受けないと、その存在すら許されず、死後、天上界の扉も固く閉ざされることとなる。だが、私にとって幸いなことに、洗礼記録は戸籍を兼ねているため、王の非嫡出子も遍く管理することが可能な状況にあった。教会において、両性具有である私の権力は、王に次ぐものである。加えて、教会は婚姻というものに意味を持たせ続けたいのだから、私の支援に熱も入ろうものだ。
民らがよく嘆くように、私含め王族というものは兎角驕りやすく、鼻もちならない連中である。私は彼らの中から候補を選ぶなど、死んでも御免だった。反抗期という言葉があるが、十三の高慢な子供がどれほど深く親族に嫌悪を抱いていたか、この言葉で解るだろう。
王の非嫡出子から伴侶を選ぶことにした私は、全て調べ尽くした上で、怠惰な王に願い出て、幾人かの候補を宮仕えさせ、この目で観察し続けた。当初、私は比較的見目良く、気立てが良さそうで、頭の回転も速そうな男たちを選んだつもりだったが、所作や言動など鼻につくものが見て取れ、中にはどういうわけか生理的に受け付けない者までいた。私は七年にわたって観察を続け、候補者のリストから慎重に名前を消し込んでいった。
そして、最終的にリストには、イーノックただ一人が残ったわけである。
イーノックの方が年下である点が難といえば難ではあるが、これ以上選り好みしても仕方ない。彼以外の非嫡出子は、私の趣味ではないのだから、これでイーノックまで蹴ってしまえば、私は嫡出子から次代の王を選ばなければならなくなる。反抗期は過ぎていたものの、それは死んでも御免だった。
返事を待つ私の眼前では、イーノックが馬鹿丸出しで睫毛を瞬かせていた。書面は次々落ちるインクで、斑になっている。とうとう私は痺れを切らして、抱擁を解き書類を奪い取ると、腰に手を当てた。
私の発言の意味が解らなかったはずがない。この国において、私は次代の王を選定する者と認識されていた。それが、伴侶選びを意味することは、周知の事実である。だからこそ、王の血筋に連なる者たちは挙って、私に趣味の悪い贈物を寄越しているのだ。その私がわざわざ求婚したのだから、意味は一つしかない。そうだろう?
大体、イーノック自身、今迄いぶかしまなかったのだろうか。何故、自分が宮仕えする好機に恵まれ、更には議会の書記官に抜擢されたのか。王が狩り場として用いる南部の農村で育った人間が――ましてや王に良く似た面差しで黄金の髪を持つ少年が――宮仕えに呼ばれる理由など、一つしかないではないか。
「私はきみのことを個人的に気に入っているし、きみなら、一年以内に条件を満たせると思う。だから、結婚して欲しいんだが、大丈夫か?」
条件反射のように、いつもの口癖を吐いてくれれば良い。そうすれば、言質を取った私が後は巧くやるから、問題ない。
だが、イーノックは唇を開閉するばかりで、答える気配がない。いくら虚をつかれたとはいえ、まだ混乱から回復出来ないとは、もしかすると人選を誤っただろうか。私は眉をひそめ、心中嘆息した。
そのときようやく、イーノックが動いた。先程までの動転が嘘のように、素早い動きだった。まるで、早くしなければ夢が醒めてしまう、とでもいうように。磐石の権力がかかっているのだから、それも当然のことだろう。しかし、あまりに強く抱きしめてくるので、私はイーノックを釣り上げた喜びよりも息苦しさを覚える羽目になった。イーノックはもう少し、力加減というものを覚えた方が良い。これでは初夜も推して知るべしというものだ。さしもの私も己の未来に立ち込める暗雲に、些かたじろいだ。ただでさえ貫通は痛いと聞くが、果たして、年相応血気盛んで人の話を聞かない十八の男に、処女の私を慮る余裕などあるものだろうか。考えるだに、不安である。
まあ、良い。それは追々、対処するとしよう。差し当たっては、イーノックの色好い返事を聞くことが先決だ。
私は満面の笑みで、イーノックの顔を覗きこんだ。彼ときたら、喜びのあまり耳まで紅潮させていた。初々しいじゃないか、まったく。
「これは、肯定と取っても構わないな?」
勿論、答は、応だった。
私とイーノックの婚姻は、慌ただしいものだった。他の嫡子たちに邪魔される前に、事を為さねばならかったからだ。無論、式は妊娠確定後に国を挙げてのものになろうが、結婚許可証で入籍を済ませ、その日のうちに、王へ面通りを済ませた。
恐らく、精悍な顔立ちと精力的な体つきが気に入ったのだろう。薄情な王も珍しくイーノックには期待をかけている様子で、様々なことを激励していた。白々しい言葉の数々に、顔を赤くして聞き入るイーノックとは対照的に、私は、あまりにも馬鹿らしくて聞いていられないほどだった。今度統計局に赴く機会があれば、親子としての初対面に、子作りを激励する馬鹿がどれだけ居るのか、尋ねてみたいものだ。係官たちは一様に苦笑を浮かべることだろう。
私との婚姻契約の特異性について、王は一言だけ、言及した。
それをイーノックがどんな面持ちで耳にしたのか、私は知らなかった。色好みな王の話は下世話な話題に移っており、生来潔癖な私はすっかり興味を失くしていたからだ。
イーノックの名誉のため発言させてもらえば、初夜は、それほど悪いものでもなかった。実際に性的行為に及べば嫌悪が先立つのではないか、という懸念もあったのだが、そういうこともなく、触れられればそれなりに気分が昂揚した。とはいえ、イーノックのものが一般的なものに比べ、非常に大きいのには閉口した。しかし、良い意味で私の予想を裏切り辛抱強く施された前戯と、事前に王から手渡されていた香油が、問題を解決した。イーノックはまるで壊れものを扱うように私に触れ、ひどく優しく手折った。姦通の際に血は流れたものの、泣きたくなるほど痛いわけでもなかった。
月に五日ほど訪れる生理の周期と公務で離れねばならなかったときを除いた日の全てにおいて、私とイーノックは身を通じた。一度の交わりで満足することもあれば、気分が高揚して収拾がつかない日もあった。行為に慣れ始め、情欲の甘美な味を知ってからの一カ月ほどは、夜だけでは飽き足りず、昼から事に及ぶ日も度々あった。
私にしてみれば、イーノックとは十分すぎるほど逢瀬を重ねていたので、性交の出来ない生理の日は、会うだけ無駄な期間だった。たかが五日会わないくらいで死ぬわけでもあるまいし、私はたらい回しを厭うて、イーノックは王の座を欲して契約結婚に至ったのだ。であれば、後日その分も交われるように仕事を片付けた方が、効率も良い。
最初の二ヵ月は、イーノックも納得していた様子だった。
丁度思春期で、私同様情交の味をしめたばかりのイーノックは、物足りないのだろう。下世話な王の進言で、手や口で慰めてやれば良いのだと知ってはいたが、子を為すことのない性交にそれほど興味を掻きたてられず、私は彼の面談を退けた。生理中で気分が悪く、気が立っていたのだ。こんなときに、他人の性欲処理などしていられない。
三ヵ月目から、イーノックの態度がおかしくなった。部下伝手に私が拒むと引き下がりはしたものの、不承不承といったもので、如何にも不満そうでしたと私の夫にお引き取り願った部下は語った。
四ヵ月目で、とうとう、イーノックの不満が爆発した。部下の制止を振り切り――部下も夫婦の問題だからと差しでがましい真似を控えざるを得なかったようだが――イーノックが、私の執務室へ押し入った。下腹部を悩ます鈍痛に苛立ちながら、無理に仕事を片付けていた私が、私の意思に反して入室した男にどれだけ機嫌を悪化させたか、解るだろうか。しかし、叱責する前に、イーノックは怒りと僅かな不信を覗かせた目で私を見下ろし、問い質した。
「ルシフェル、教えて欲しい。あなたにとって、私とは何なんだ?」
「きみは私の夫だろう。」
愚問だ。募る苛立ちを隠し切れず、私は小馬鹿にしたような眼差しでイーノックを見やった。一体、この男は何なのだろう。急にやって来たと思えば、そんな自明の理を問うてくる。私は人差し指で机を叩きながら、苦り切った笑みを浮かべた。
「でなければ、きみは何だと思っているんだ?」
拙い、と判断したときには遅かった。我ながら鼻もちならなくて嫌になる。
「…私は、」
顔を紅潮させたイーノックが、吐き捨てた。
「私は、種馬じゃないッ!」
そのまま、イーノックは踵を返して、部屋を出ていった。勢い良く閉じられた扉が、大仰しい音を立て、この騒動を周囲に知らしめた。途中、何事かと様子を身に来た弟のミカエルが、夫婦喧嘩は嫡出子連中からの横槍を許す愚行だと忠告して立ち去った。
私は呆気に取られ、ただ、睫毛を瞬かせるだけだった。他に何が出来る?これは契約結婚のはずで、種馬とは言わないまでも、イーノックの役割は一年以内に私を孕ませることだ。でなければ、イーノックは王位に就き、絶対的な権力を手にする未来を、みすみす捨てる羽目になる。私も、一年周期で、他の男たちに良いようにされるのは御免こうむりたい。
混乱する私の脳裏に、四か月前求婚したときのイーノックの様子が浮かんだ。馬鹿丸出しで睫毛を瞬かせ、力の加減も忘れて抱きしめて来たイーノックは、喜びに耳まで紅潮させていた。それから、初夜に、予想だにしなかった自制心で私を解し、労わった彼の姿が浮かび上がり、私は低く呻いた。
考えてみれば、私の読みが浅かったのだ。考えるまでもなく、イーノックは野心にほど遠い人間である。もしかすると、と私は首を振り、力なく項垂れた。あの一途で変に片意地なイーノックが、愛のない婚姻を許すわけがない。もしかしなくとも、イーノックは、愛情ゆえに私を求めていたのだ。
確かに、イーノックのことは気に入っている。だが、親愛と恋愛は違う。色恋沙汰は私の管轄外だ。イーノックにも、それを解ってもらわなければならない。
私とイーノックは、それからの半月を無為に過ごした。三週間経つ頃には、こんな些事で貴重な時間を損なうのはあまりに馬鹿げているのではないかと思い、私は謝罪しても良いという錯覚に陥った。しかし私が悪いわけではない。自分の方が正しかったとイーノックに勘違いされても困るし、頭に乗られるのはもっと嫌だ。私は努めて無視を決め込んだ。一度ならず、不毛な夫婦喧嘩を耳にしたらしい王に窘められたが、私は軽くあしらった。私が悪いわけではない。
やがて、一ヵ月が過ぎた。
開け放された窓から、階下の庭園が良く見えた。今は薔薇の盛りで、赤や橙が麗しく緑を飾っている。垣間見える空には、白雲がいくつか浮かび、如何にも長閑だ。だが、青天を手放しに喜ぶ気にはなれなかった。生理中で、機嫌が悪かったからだ。
私がいつも通り苛立ちながら執務をこなしていると、どういう風の吹き回しか、イーノックがやって来た。私のとき同様、王が窘めたものだろうか。確かにイーノックは愚かで青臭くて現実を見ていなかった。が、私も子供ではない、快く謝罪は受け入れてやろう。そんな寛大な気分で私が一瞥すると、イーノックは失礼にも、私が片付けていた書類を全て屑籠に投げ捨てた。
意味が解らなかった。
思わず気色ばみ立ち上がった私の手を掴み、イーノックは軽々と担ぎあげた。これでは、まるで、荷担ぎだ。矜持を傷つけられ、とうとう我慢ならないほど頭に来た私は、自分が落ちることも辞さずに、足をばたつかせ、イーノックの背中を叩いた。だが、イーノックが窓枠に足を掛けるに至り、流石の私も行動を自粛せざるを得なかった。
イーノックは肩に担いだ私にちらりと視線を向け、満足そうに口端を緩めた。
「折角、こんなに天気が良いんだ。外へ繰り出さなければ、もったいないと思わないか。ルシフェル。」
それからだ。イーノックが、生理の間だけ私の前に現れるようになったのは。
月に五日、決まりきった周期でイーノックは執務室へやって来て、私に話しかける。正式な謝罪の言葉が聞けなかったので、最初は、私も渋々ながら相手をしてやっていたのだが、三月もする内に、不満をぶつける切欠を見失ってしまい、以前と同じような、けれど以前とは少し違う間柄で落ち着いた。
天気が良ければ、外へ行く。大抵は、人目につかない丘で他愛もない話をするが、遠乗りすることもあれば、街に繰りだすときもある。天気が悪ければ、図書室で本を読むこともあるし、執務室で机上の空論を繰り広げるときも間々ある。イーノックが王になったら?性交していないのに、私が彼の子を孕むはずがない。私が孕まなければ、彼が王になるはずがない。正しく机上の空論に過ぎなかったが、それはそれで楽しかった。
私がイーノックと婚姻を結んでから、十ヵ月が経とうとしていた。
ここ数日、止むことなく雨が降りしきっていた。黒雲に覆い隠された執務室の窓は、時折轟く雷鳴で白く光った。観測士によれば、嵐が近づいてきているのだという。
私は雨が好きではない。愛用する傘を壊したことがあるからだ。だが、降雨にもかかわらず何故か心満たされるイーノックと共に過ごす時間に、私はここ一ヵ月あまり頭に過ぎる疑念を改めて検討せざるを得なかった。
以前、どうして生理中にだけ顔を見せるのか問いかけた私に、イーノックは、私の愛情を勝ち取りたいのだと言った。彼は、私の身体より心が欲しいそうだ。だが、こんな見え透いた手段で絆されるほど、私は愚かではない。私はいつも通り、イーノックの戯言を軽くあしらった。色恋に明け暮れ一喜一憂するほど、私は愚かではないと思った――思っていたのだが、どうやら違ったようだ。最近では、気付けばイーノックのことばかり考えている。離れている時間がもどかしくて、辛くて堪らない。
しかし、この事態に際して、私はどう対処すれば良いのか分からず、手をこまねいている状況だった。素直にイーノックへ愛情を訴えれば良いのだろうが、高すぎる矜持が邪魔をする。なし崩しに情交で有耶無耶にしてしまうか?こうして訪問してきたイーノックは知らないようだが、生理の周期は少しずつずれ込んでいるので、今日やる分には何の問題もない。しかし、断固としてイーノックが拒んだ場合、居たたまれないし、そもそもの肉体関係に端を発した喧嘩なのだから、そちらへもつれ込んでしまうのは違う気がする。
こんなはずではなかったのだが。
ちらりと視線を投げれば、それに気付いたイーノックが微笑みかけて来た。私は唇を尖らせて、瞼を伏せた。顔が熱い。色恋沙汰は、私の管轄外なのではなかったか。飄々として感情が読めないことで有名な私が、感情を高ぶらせあからさまに愛情を乞うなど、ありえない。
恐らく、私の挙動不審から考えを悟ったのだろう。イーノックは嬉しそうに笑みを深くして、私の赤い耳元へ囁いた。その一言に、聴こえていたはずの雨音も雷鳴も、吹き飛んだ。今日は生理じゃないと、解っていて、訪問してきていたのか、この男。
わなわな震える指先に口付けられ、上目遣いに見詰められた。私はもうどうにでもなれと自棄になって、イーノックにしがみつき、叫んだ。
「愛している、イーノック!」
案外すんなり告白出来て満悦する私の視界が、何時の間にか、回っていた。情欲とそれ以上の愛情に満ちた眼差しを向けるイーノックの思わせぶりな笑みに、私の心は来る幸福の予感に無様なほど打ち震えた。イーノックの武骨な手が、半年前同様壊れものに触れるように優しく、私の衣服を脱がす作業に取りかかった。
「ルシフェル、私も愛している。」
「…それでも、」
イーノックが片眉を上げて、先を促した。減らず口を叩かなければ良いのにと我ながら思うのだが、この癖ばかりはどうしようもない。私は肩を竦めた。
「それでも、私の方が愛していると思うよ。私の矜持がどれほど高いか、きみも知っているだろう?」
羞恥に眦を染め上げて己を茶化す私に、イーノックが笑みをこぼした。
「確かに…あなたにそんなにも愛されて、私は幸せ者だな。」
イーノックの指が、頬にかかる。本当に良かった。これで、もう一人寝はしなくて済みそうだ。久方ぶりに施される甘い口付けに、私は気を良くして全てを委ねるのだった。
初掲載 2011年1月23日